第1節 盆祭り
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祭り囃子が耳に痛い。四方八方から押し寄せる喧騒は脳まで揺さぶる程に響いている。
八月十六日。今日は近所で盆祭りが催される日だ。毎年それなりの規模で開催されるこの祭りには付近の町からも人が訪れ、そのお陰でこうも騒がしい盛況ぶりを見せている。
時刻はまもなく午後の八時で、あと数十分もすれば花火が打ち上がるからと最も祭りの盛り上がる時間帯だ。夜と言っても季節は夏、しかもこれだけ人が集まり熱気が渦巻いていれば、暑くならない訳がない。来るならうちわでも持ってくるんだったと、身一つでこんな場所にやってきた十数分前の自分を恨む。
ただでさえ人混みは苦手なのに、いつまでもこんな混雑に揉まれていては頭が疲れて最悪倒れてしまいかねない。そればかりは避けなければと、くらくらする頭を抱えながら人の波を掻き分けてどうにか人の少ない場所に出た。
祭り会場の直ぐ側を流れる川の川原。疎らに木々が並んでいて、祭りの為に草の刈られたそこへと下りていく。人混みから逃れてほっと息をつく。屋台も祭り囃子も喧騒もそう離れてはいない所にあるとしても、少なくとも人気のないこの場所なら混雑を気にすることもないだろう。落ち着くまでは此処で休んでいこうと目ぼしい場所を見繕って地面に腰を下ろそうとして。
そうして初めて、ちょうど隣に人影があることに気が付いた。
正直言って一目見た時、ぎょっとした。
あまり初対面の相手に示すべき反応でないのは分かっているけど、してしまったことは仕方がない。それに、この反応は無理もなかったとも思うのだ。
そこにいた先客。濡れ羽色のさらりと長い黒髪の少女。祭らしく浴衣を纏い、頭に狐のお面を斜めに付け、指で垂らした線香花火をじぃっと見詰めている彼女は、その様子だけを取れば見目麗しいと評して遜色ない。
ただし、一つだけ。彼女の居たその場所だけが問題だった。
人気のない川原で、電灯もあまり届かない薄暗がりで、一人きりで、線香花火の放つ赤色だけを一心不乱に見詰めている彼女は。あろうことか、柳の木の枝垂れかかった葉の真下に隠れるようにしてしゃがんでいたのだ。
地面にお尻をつける一歩手前。中途半端に腰を屈めた奇妙な体勢で凍りついたみたいに固まる。
驚きと、それに気まずさ。気付かないでとは言え、見知らぬ少女の真隣に座ろうとしてしまっていたという事実に動揺が全身を駆け抜けた。
今すぐに離れた方が良い。この場から立ち去るか、川原に留まるにしても距離を空けた場所にすべきだろう。少なくともこのまま隣に居座り続けるのは絶対に間違っている。
そう、始めに思った筈なのに。それで正しかった筈なのに。焦った脳は思考を突拍子もない方向へと唐突に蹴り飛ばしてしまう。
座ろうと屈みかけてしまった手前、今さら場所を変えるというのもそれはそれで失礼に当たるのではないか、なんて。不意にそんな考えが頭を過り、一瞬の黙考の末に恐々その場へ腰を下ろしてしまった。
隣に座っても彼女は反応一つ返さない。僕に気付いていないのか、それとも気付いた上で無視しているのか。身動ぎ一つすることなく、視線は絶えず一点にのみ注がれている。
線香花火は、まだ落ちない。
そう言えば線香花火は人の一生を表しているという話を聞いたことがあった。丸く小さな火の玉から、やがて大きな火花が噴き出し始め、それが更に激しくなり、次いで弱くなっていき、そうして燃え尽きポトリと落ちる。この流れが、まるで人間が生まれて成長し、やがて年老いて人生に幕を下ろすまでの過程を描いているようだと、そんな考え方があるのだとか。
だとすれば、彼女が携えている一生は、一体どれだけ長く続いていくのだろう。
「………………」
「………………」
そんな風に思考を他所へと逸らそうとも、いずれ立ち返ってくる現実に待つのは延々と続く沈黙だけ。直ぐそこの通りではこれでもかと大音声が響き合っているというのに、そこから数メートルと離れていないこの川原はまるで別世界のように静寂の帳が降りている。
あまり見ず知らずの他人と話したいとは思わない質の僕ではあるけど、流石にこれは限界だ。すぐ隣、普通ならば互いに談笑でも交わしているだろう距離で二人きり。だというのに、示し合わせた訳でもなく互いにこれ程の不干渉が貫かれてしまうと、幾らなんでも耐えきれない。
「一人、なんだ?」
あまりの気まずさに負けて、恐る恐る声をかける。
すると彼女は、本当に僕の存在に気付いていなかったのか、それとも話しかけられるとは思っていなかったのか、ビクッと肩を震わせてから驚いたように見開いた目で僕の方を見返してきた。
「あ、うん。一人、です……」
取って付けたような丁寧口調で、深く考えずに反射的にといった風に彼女は答える。
やっぱり話し掛けるのは愚策だったろうか。彼女が沈黙を破らなかったのは、もしかすると関わるなという暗黙のメッセージだったのかもしれないと、その可能性に今になって思い至る。もしそうでなかったとしても質問が悪い。一人でいる相手に一人かどうかを尋ねるなんて、意味不明にも程がある。見て分かることの再確認にしかならないし、彼女としてもこれ以外に答えようがないだろう。その上これで証明されるのは祭りに一人で訪れているという事実であって、これまた気まずいそんな内容、そこからの発展も見込めない。
何やってるんだと内心で自分自身を罵倒して、だからと言って口に出してしまったものは取り返せない。余計に悪くなってしまった空気をどうすべきかと焦って悩んで、そんな時に、何と彼女の側から声が上がった。
「キミも、一人なの?」
「えっ、と……うん、一人だね」
聞かれて改めて、やっぱりこれ以外に答えようなんてないなと思い知らされた。
さっきと同じでここからの進展はない。思った通りにそれきりで会話は途切れ、二人の間には再び沈黙が腰を下ろす。
どちら共に言葉を探しながらも見付けられず黙ったまま、僕は対岸に提灯の並んでいるのを意味も無く眺めて、彼女は線香花火に視線を戻す。
元々、ここに足を運んだのは単なる思い付きだったのだ。お祭りに来るつもりなんて始めはなくて、妹が出掛けていく音を聞きながら部屋に引っ込んでそれきりのつもりだった。だけど後から、花火くらいは見に行くかと思い立って。
それで会場へとやって来て、結局苦手な人混みに酔ってしまって、人を避けて川原へと降りてきて、そこで彼女と出会ってこんな状況に追い込まれている。人間から逃れた先でまた人間相手に悩まされるだなんて、何て因果なことだろうとしみじみ思う。
場を支配する静寂は重苦しい。沈黙の壁は高く厚く、乗り越えるのは酷く困難だ。
「ねえキミ、一つだけ聞いても良い?」
けれど、そんな壁を彼女は唐突に突き崩してきた。
「別に、構わないけど」
対する僕はそんな問い掛けに困惑するばかりで、どうにかまともな返事を返せただけでも驚きだった。
短い返答に、ほんの少し上擦ってしまった声。けれど彼女はそんなことは気に留めず、ありがとうと呟いてから首を僅かに巡らせて視線を僕の方へと向けた。
たったそれだけの動作では、線香花火が落ちることはない。
「お盆って、死んだ人が帰ってくる日でしょ」
「ああうん。一年に一回だけ帰って来れるって」
「その一回だけっていうの、どう思う?」
相槌がてらの僕の返答に、彼女は被さるようにしてそう問うてきた。
「三百六十五日の中でたったの四日間しか帰ってこれないなんて、短すぎるでしょ。それだけで本当に、満足して帰っていけるのかな。もっと現世に残っていたいとか、思わないのかな」
それが、彼女の疑問らしかった。
八月十三日にキュウリの馬に乗って戻ってきて、八月十六日にナスの牛に乗って帰っていく、先祖の霊。それ以外では一方通行なあの世とこの世が、繋ぎ合わされる四日間。
この時以外はどれだけ願おうとも会えなくて、どれだけ乞おうとも帰れない彼らは、果たしてこれだけで満たされているのかと。彼女はそれが不思議らしい。
それを聞いて、ううむと唸るようにして首を捻る。
単なる質問かと思いきや、思った以上に難しい問い掛けだった。そんなこと、今まで考えたこともない。ご先祖様と言っても死んだ人に思いを馳せるなんて経験はほとんど無いし、お盆という風習についてもそこまで深く捉えたことはない。何よりも『これはそういうものだ』と漠然と信じ込んでいたから。
だから直ぐには答えを用意できず、しばらくの間悩んだ末に、辛うじて出てきた考えを言葉にする。
「うーん、死んだ側になったことなんてないから滅多なことは言えないけどさ。また来年もあるから良いやと思うのかもしれないし、そもそも死んだら現世への未練も薄れるのかもしれないし」
そこまで言って、これは何だか違うなと思い直す。無理矢理に捻り出したそれはあくまで一般論から出したもので、僕自身の答えじゃない。
だから一度言葉を切って、もう少しこの疑問を自分に近付けて考え直す。
そのまま考えて難しいなら、いっそ状況を置き換えてみてはどうだろう。無理に死んだ人の気持ちを代弁しようとするからややこしいのであって、似たような状況に置かれた自分の気持ちを想像してみれば良いのかもしれない。例えば、一人暮らしとか。それまでずっと当たり前に共にいた家族とも友人とも切り離されて、単身頼るものも縋るものも無い場所へと飛ばされる。それも自分の意識に反して、隔絶っぷりを表現するなら海外を想像した方が近いのだろう。
行きたくもない海外での独り暮らし。ああうん、それなら幾らか想像しやすい。状況が突飛すぎる気がしないでもないけれど、死ぬというのは充分に普通じゃないことだと思うし、まあ構わないだろう。
さて、と前置きして本題へ。もしもそんな状況に置かれたら自分がどう感じるかと想像して。
「僕だったら、もっと残りたいって思っちゃうかなぁ」
至った結論を口に出せば、思ったよりも感情が籠って染々とした声になってしまった。
「そっか」
そんな僕の答えを聞いて、彼女は頷く。まるでその内容を噛み締めるように、何度も何度も反芻するように、繰り返し頷く。
それから彼女は乗り出すように片手を地面について、僅かにこちらへと近付いてきた。線香花火を摘まむ手は微動だにさせず、体の重心を移動させる。
その瞳が真っ直ぐに僕を見据えて。
ふわりと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「ふふ、そっかそっか。うん、私もキミと一緒だ」
それは彼女が見せた、初めての笑顔だった。
「あ、……っと」
それを見て。
僕は彼女に、何を言おうとしたのだろう。
彼女の笑みに惹き付けられて、彼女の瞳から目が離せないで。
自分でも続きが分からないままに口を開いて──けれどそれが形になる前に、遮るように新たな音が鳴り響いた。
ひゅるるるる、と。高く上っていく気の抜けたような音に、あっと声を上げて反射的に空を見た。
黒い闇色の背景に、天を目指して駆けていく光の筋。僅かに揺れるように曲がりくねりながら、それでも真っ直ぐに光は昇る。そして。
ぱあん、と。大きな音と共に花火が夜空を染め上げた。
赤い色の菊花火。それを皮切りに、次から次へと色とりどりの花火が夜の空を彩っていく。
黒一色を背景に飛び交う様々に色づいた火花たち。それらに一時見入っていて、それからはっと我に返って彼女のことに意識が戻る。一瞬の間だけ忘れていた彼女のことと、彼女に伝えようとしていた何かのことを思い出して。
けれど視線を戻した時、彼女の姿はその場から忽然と消えていた。
三十秒にも満たないほんの僅かな短い時間。花火の数にして四発程度。目を離していたのはたったのそれだけだった筈なのに。彼女は音もなく影もなく、まるで初めから其処には何も無かったとでも言うかのように、風に揺れる柳の葉の真下には空白だけが揺蕩っている。
空には尚も花火が打ち上がり続けている。屋台巡りをしていた人々も足を止め、喧騒は変わらずとも絶えず流動していた波が鎮まる。人によっては見物場所を求めて通りから川原へ下りてくる人も出始めて、僕の周りの空間も次第に少しずつ埋まっていく。騒がしさは染み渡るように川原をも呑み込んでいき、けれどその中で、僕だけが切り取られたみたいに静けさの中にいる。
彼女がいた時。互いに何も話さないせいで生じた、押し潰されそうな程に重い沈黙。ついさっきには苦しいだけだった筈のそれが、今は不思議と、恋しいとまで感じている。
ふと、彼女のいた場所に何かが落ちていることに気が付いた。
人が増えても尚誰も足を踏み入れることのない柳の下。その砂利の上に、ぷっちりと茎の途中で切り取られた彼岸花が落ちていた。
何でこんなところにと首を傾げて、それから不意に、彼女が持っていた線香花火のことを思い出す。赤く飛び散る火花。いつまでも落ちることのない火種に、鳴らない音。そう言えば、あれだけ静寂が耳につくということは、火花の散る音なんて聞こえていなかったということで。
まさか、線香花火と思っていたのはこれだったのか。確かに線香花火と彼岸花はよく似てはいる。小さい頃に読んだ本でも、彼岸花を線香花火に見立てているものがあったとうろ覚えながらも記憶している。だからって本当に間違えるだなんて思ってもみなかったけど。
地面の上にあるそれを、そっと指でつまみ上げる。彼岸花に毒があるのは根の部分だけだけど、それでも気になってしまってどうしても恐々とした手付きになってしまう。
指の中のそれを眺める。それ自体には特別なことは何も無いと分かっていながらも感慨にふけるように眺め続けて、それから込み上げてきた色々な感情を纏めて吐き出すようにため息をついた。
川原へと背を向ける。もう、花火を見ている気にはならなかった。立ち止まったままの人の群れをすり抜けて通りへ上がり帰路につく。
意識して振り返らないようにしながらも、片手には未だ、名残惜しげに彼岸花を持ったままだった。
最後に、ずっと不思議だったことへの解答が頭に浮かんだ。
彼女の持っていた線香花火が、どれだけ経っても消えない理由。そんなの、それが線香花火ではなく彼岸花だったと分かった時点で明白だ。
答えは酷く単純なこと。要は線香花火なんて、初めからついてはいなかったのだ。




