断片
「はい、お疲れ様」
挨拶もそこそこに西班牙を追われるように去った陸人は急ぎ足で商店街を横切る。
シャッター街だったはずの通りには、ふたつのレストランを目当てにやってきた人がぶらついており、いくつかの店は久々に繁盛しているみたいだった。
町の外からやってきたものだけではない。
明らかに地元に住んでいるであろう近所の主婦も、物珍しさ手伝ってか自転車を押しながら行列を眺めに来ている。退屈そうに付き従っていた幼稚園と小学生くらいの兄弟が、駄菓子屋を見つけ駆けていった。
「懐かしいな」
そんなことを思っているうちに伊太利に到着する。
殺到する人々を押し分けながら中に入ると、汗で化粧がにじみ、鬼のような形相になっている遥香が出迎えた。
こちらも新人と臨時のアルバイトを含めた大幅増員で仕事にあたっている。忙しさはどちらの店も大差無いようだった。
陸人はすみやかに伊太利の制服に着替えると、ホールへ出ていった。
こちらも一分の隙なく満席だ。とりあえず食べ終えた皿から下げようとしているところへ遥香が声をかけた。
「ちょっと休んでていいわよ」
「いえ、僕は大丈夫ですから」
「陸人くんを一時間は休憩させるというのがルールなの。あなたには万全の態勢でやってもらいたいからしっかり休息してね。いい、きっかり一時間だからね」
「ルールというのは?」
「こっちの話。さあ行った行った」
なかば追い払われるように二階へ押しやられる。
伊太利も西班牙と同じように店と住居部分が一体化しているが、二階はあまり広くなく、生活感も乏しかった。家族で暮らしているか一人暮らしをしているかという違いなのだろう。
なるべく個人的な名残の見える箇所は避けて、廊下の隅っこに腰を下ろす。
壁にもたれかかりながら目をつむると、階下の喧騒が聞こえてくる。関連性のない声の集団。その一つを紐解けばなんとなく会話も分かりそうなものだが、それが難しい。
「どこの国でも同じだな」
ひとり呟く。
電球の灯っていない廊下は薄暗く、湿気がこもっていた。陸人は深呼吸をするとゆっくり思考を止めていく。雑音が遠くなり意識が暗闇に漂いはじめる。
眠気は突然襲ってくる。
一時間で起きられるだろうかという心配が胸の内をついたが、手段を講じるだけの気力は残っていなかった。あっという間に眠りの世界へ旅立つ。
夢を見る暇もなかったのか、覚えていないだけなのか、とにかく喧騒で目が覚めた。
時計を確認する。
一時間に数分足りないくらいだ。自分でもよく起きられたものだと感心する。きっと下の連中は起こしにくる暇もないに違いない。
誰も居ないのを確認してから大きなあくびをする。
少しトイレを借りようと廊下の突き当りにあったドアを開く。花がらの便座カーペットが引いてある。遥香の趣味なのだろう赤いバラの強調されたカーペットだった。
ふと横に視線をやると写真立てが無造作に置かれていた。
かなり年季の入ったものらしく額がうっすら変色しかけている。だが、それよりも陸人の目を引いたのは若かりし頃の遥香だった。
他人の写真を覗き見るのは失礼なことだと承知しながらもつい観察してしまう。昭和の時代らしくアイドル風な髪型をした彼女のとなりでは男が腕を組んで笑っている。
「――これって」
若いが、間違いなく忠弘だ。
陸人はしばらくその写真を注視していたが、気合を入れるために自分の頬をピシャリと叩くと、階下の騒乱へ戻っていった。写真のことはそれ以上思い出さなかった。
濃密な夜の時間が刻々と近づいてきていた。




