終戦
「店長! 十分でもいいから休憩してください。今日まだ一秒だって休んでいないでしょう!」
時刻は八時を過ぎた頃で、疲労もピークに達していた。
口元だけ凍りついたような笑顔を浮かべてはいるが全員の表情にかげりがある。なかにはインフルエンザを発症した患者のように足元がふらついている者もいて、元気なのは客ばかりだった。
店の外には依然として途切れることのない行列が続いている。
たかが半額程度のサービスでここまで繁盛するのは、今まで近隣に活気がなかったせいだろう。目立った行動を起こそうともせずにシャッターを下ろしてしまった個人商店がどれほどあったかしれない。
衰退していく街ほど、景気のいい話に釣られるものだ。
「いいのよ、私がこの店の責任者なんだからいくら働こうと私の勝手でしょ」
「店長が倒れたらいろいろ困りますから」
「いいの、そしたら陸人くんにすべて任せるわ」
もう開店してから九時間近くが経過している。その間、超満員の店をずっと切り盛りしているのだから体力的にも精神的にも消耗が激しいはずだ。
それなのに、遥香は頑なに手を止めようとしない。
まるで何かに取り憑かれているみたいだった。
「休憩も仕事のうちだって自分でいったじゃないですか」
「私はいいの!」
「そんなに頑張らなくても売上は変わりませんよ。むしろ休んでもらったほうが上がるくらいです」
「今日の一日も踏ん張れないようなら、今までの人生が全て無駄だってことになるの。この勝負に賭けてるのよ。わかったら口じゃなく足を動かして」
「だから、勝負ってなんなんですか。忠弘さんと勝負してるんでしょう?」
「……そうよ。悪い?」
遥香はアイシャドーの乗った目で陸人を睨みつけると、怒ったように仕事の渦へ飛び込んでしまった。
狭い店内だからどこにいても相手の位置は見失うことがない。けれども、話しかけるなという雰囲気を全身で表現している以上、口答えは許されていないようだった。
「一人でも多く。一円でも高く。それだけよ」
すれ違いざまに小声で耳打ちされる。
え、と聞き返すまもなく去ってしまう。今日の遥香は普通な状態ではない。陸人は胸に疑問を抱えながらも、業務に集中することに決めた。どうせ今夜には回答が出ることだろう。
抑揚のない満席は、ようやく夜の十時になって消失した。
閉店後には従業員全員がへたり込み、遥香の心遣いでビールが振舞われた。
あちこちで歓喜の声がわく。これだけ忙しいと辞める者も出てくるだろう。たいていのアルバイトは楽して金を稼ぎたいと思っている。わざわざ人気店の仕事を選ぶような人は、それほど多くない。
都市部の華やかな店なら働きたがる若者も多いが、中途半端に寂れた郊外の街で、忙しいのは好まれない。
「お疲れ様」
遥香が缶ビールを陸人に差し出した。
直前まで冷蔵庫に入れられていたため結露がまぶしい。
「あ、陸人くんは飲まないんだっけ」
「いえ、今日はいただきます」
「普段は断ってすぐ帰っちゃうくせに」
「たくさん働いたので今日は特別です」
そういって笑顔を見せる。
「本当にね。みんなよく頑張ってくれたわ」
「店長が一番良く動いていましたよ」
「いつ倒れるか、横から見ていてハラハラしちゃった。一秒だって休もうとしないんだもん、もうそんなに若くないんですから無理しちゃダメですよ」
黙々と働いていたせいで存在感が薄かった景子がからかう。
片手にしたビールはもう半分以上なくなっている。酒はあまり強くないのか、すでに顔が赤らんでいた。
「うるさいわね。私はまだ若いわよ」
「そういうの自体が年寄りな証拠ですよー、あはは」
どうやら酔うと見境がなくなるタイプらしい。景子はいつの間に整えたのかバッチリ決まったつけまつ毛をしばたかせながら、陸人に体を寄せようとする。
「ほらほら、悪酔いしてはダメですよ」
軽くかわしながら陸人が遥香の背後へと避難する。
「けち」
「僕は酔っぱらいは相手にしない主義なもので」
「じゃあ酔っ払ってないもーん」
完全にろれつの回っていない舌足らずな口調でバンザイすると、そのまま仰向けに倒れこんで寝息を立てはじめる。
男性アルバイトの何人かが視線を向けているのを見て、遥香は気が重たそうにため息をついた。
「悪いけど二階まで運んでくれる? 適当な時間になったら起こして帰らせるから」
「仕方ないですね」
「この娘も疲れてるのよ。なにせ仕事中はほとんど口を利かなかったくらいだし。仕事も不真面目かと思っていたけど、意外としっかり働くものね」
「環境が変われば人も変わります。自分が必要とされている状況に置かれれば、むやみにサボる人なんていませんよ」
軽々と景子の体を抱きかかえると、制服のスカートがめくれかけたので遥香が慌てて隠した。残念そうな、無言の非難を感じる。男どもに一瞥をくれてやると、気まずそうにうつむいてビールを飲みはじめた。
「ちょっとスカートが短すぎるのが欠点だけど」
「若いうちはこれくらいで丁度いいんですよ」
「あなただってまだ十分若いでしょ」
「僕はがむしゃらに走っていけるだけの勇気を持っていません。それを発揮できるのは未来ある若者だけです。
「なにじじ臭いこといってるんだか」
キッチンの横の廊下から二階へ上がる。景子の体は軽いというわけにはいかなかったがその年齢にふさわしい体重くらいはあっただろう。
「ここに寝かせておけばいいから」
遥香に示された部屋には雑然と荷物が置かれていた。畳からい草の匂いがする。どうやら物置代わりに使っているらしい。
「ちょっと布団取ってくるわね」
廊下の奥へと足音が遠ざかっていく。
この家は遥香が一人で住むには大きすぎる。レストランとなっている一階部分を除いても広い。いったい誰と住むつもりだったのだろうか。
陸人はトイレに飾られていた写真を思い出した。
「女の執念って怖いよね」
いつの間に目を覚ましたのか景子が陸人に抱きかかえられたままいった。
「店長って、西班牙のおじさんと恋仲だったらしいんだよね。婚約までしたらしいし。それなのに振られちゃったから、こうやって大きな家を持って彼の帰りを願ってるんだ」
「……どこで、それを?」
「ふたりともずっとこの近所に住んでるから情報を集めるのは簡単。店長は一度どこかへ引っ越してたらしいけど、また戻ってきたんだって。多分あの人のことが忘れられなかっただけじゃなく、ずっと恨んでるんだと主張するためにわざわざこんな家を買ったんだと思う。復讐だよ」
陸人は応えなかった。
景子は両腕を彼の首に回して、顔を寄せる。
頬が赤く染まっている。吐息が聞こえるほどに近い。
「あたし、店長みたいにはなりたくないな」
「酔いすぎですよ」
「ねえ。教えてよ。陸人のこと――」
ゆっくりと唇が触れようとしたとき、布団をかかえた遥香が戻ってきた。
景子が脱力したようにうなだれる。
「ほら、早く寝かせて。これから重要な話があるんだから」
埃っぽい床の上に布団を敷くと、階下へ消えていく。
景子は今度こそ眠っただろうか。目を閉じたまま規則正しい寝息を立てている彼女の耳元に口を寄せる。
「僕は、もう戻って来ません。でも君のことを忘れはしない。ありがとう、楽しかった」
部屋の電気を消す。
陸人の足音が聞こえなくなってから、景子は自分の頬にこばれた涙をそっと拭うと、枕に顔をうずめて深く息をすった。
「そんなこと分かってるよ……」
賑やかな下の声が、いやにうるさく感じた。
ひと通り缶ビールを飲みきってしまうと陸人をのぞく従業員たちは給料の入った封筒を手に帰っていった。臨時のアルバイトであるため即日払いなのと、ちょっとしたボーナスのつもりで渡したものだ。
中身がそれほど多いわけではない。
だが、厳しい労働を乗り切った達成感からか、みな晴れやかな顔つきだった。
全員がいなくなるのを確認してから、遥香は陸人の前に缶ビールを差し出した。
「まだ飲むでしょ?」
「僕はもう遠慮しておきます。これ以上飲んだら酔っ払ってしまいそうなので」
「今日くらいハメを外してもいいじゃない」
「――これから大事な話があるってことですし、あんまり浮かれていてもいけませんから。勝って兜の緒を締めよというやつです」
「そうね。勝たなくちゃ、なにも始まらないわ」
遥香は差し出したばかりの缶ビールをつかむと、CMの撮影に使えそうなくらい豪快な飲みっぷりで中身を空っぽにした。軽くなった缶を陸人の前に叩き置く。
そのとき、遥香の携帯電話が着信を告げた。
コール音が二度、繰り返されるのを待ってから通話ボタンを押す。相手は忠弘だった。あちらも疲れきっているのか声のトーンが低い。だが自信を失っているような気配はなかった。
「オーケー。こっちで待ってる」
数分足らずの短い会話を終える。
もとから決まりきっていた約束だ。いまの電話は確認の作業にすぎない。
「そろそろ教えてくれませんか。これから何について話し合うのか」
「……もうすぐ分かるわよ」
「自分でいうのもおこがましいですけど、僕を引き止めようと説得するつもりでしょう。最初にお伝えした通り僕は長く留まるつもりはありません。このバイトも今日で最後です」
「どうしてよ。あなたくらいの能力と才能があれば、いくらだって定職につけるし、自分で店を持つことだって夢じゃない。どうして頑なに出ていこうとするのよ」
「僕には僕なりの生き方があります。その中で、精一杯店長たちには恩返しさせてもらったつもりです」
「あなたが悪いといってるんじゃないの。ただ私には陸人の生き方が理解できない。仕事も、住む場所も、周りの人も、そんなに簡単に捨てられるものじゃないでしょ。どうして考えなおしてくれないの」
「僕だって大切にしているものはあります。それに、ここへ戻ってきたのは、単にお金を稼ぎたかったからじゃない」
「それなら、どうして……」
陸人は深く息を吸うと、ゆっくりとした口調で続けた。
「僕はこの街で生まれ、育ちました。だからここは僕の故郷なんです――とはいっても、僕の知っている頃とはずいぶん変わってしまいましたけどね」
「でも、今まで他のところにいたって――」
「ええ。何事もなければわざわざ帰ってくるつもりはありませんでした。その必要もなかったですし」
玄関のベルが鳴らされる音がした。
遥香がドアを開けると、そこには書類を小脇に挟んだ忠弘と娘の玲奈が立っていた。どちらもやつれた表情をしているが、勢いだけは十分だった。
「来たぞ」
「お茶でも用意する?」
「酒なら飲んできた。が、もう一杯頼む」
ずかずかと入り込んでくる忠弘の後から玲奈が顔をのぞかせる。
その場に景子がいないのを確認するとさりげなく陸人の隣に腰を下ろした。
「お疲れさま」
小さく声をかける。
もう中年を過ぎかけている二人の店長たちはお互いに奇妙な緊張感を発しながらやり取りをしている。いつつかみ合いの喧嘩になってもおかしくないような剣呑さだった。
「そちらも忙しかったでしょう」
「まあね。陸人さんがいなくなってからはちょっと厳しかったかも」
軽く笑っていう。
「そっちは?」
「同じくらい多忙でした。どちら超満員ですからね」
「そっか」
「玲奈さんも今夜は無理せずゆっくり体を休めてください。明日からがきついですよ」
玲奈はそれ以上返事をしようとしなかった。
テーブルの上にビールとつまみが並べられ、ようやく準備が整った。四人はテーブルを囲んで座る。まるで家族会議のようだと、陸人は思った。
「それでは――本題に入る前に、ひとつ聞きたいことがあるわ」
遥香は陸人に視線をぶつける。
「さっきの話の続き、してもらえるかしら」
「――分かりました」
そんなに楽しい話ではないですけど、と前置きをして、彼は話しはじめた。




