第3話 五歳児CEO
【豊臣家滅亡まで 残り6,120日】
あとから振り返れば、この日がすべての分岐点だった。豊臣家が滅びるか、生き残るか。関ヶ原が起きるか、大坂城が燃えるか。そして、俺がまた働きすぎて死ぬか。最後の一つだけは、できれば避けたい。
「ははうえ。あるけます」
廊下へ出るとき、俺は言った。
淀殿は少しだけ笑った。
「存じております」
「では」
「今は、母に抱かせてください」
そう言われると、降ろしてくれとは言いにくい。俺は大人しく運ばれることにした。
五歳だから歩けないのではない。過保護なのだ。そして、その過保護には理由がある。俺は豊臣家ただ一人の男子である。転べば三人が青ざめ、咳をすれば医師が呼ばれ、熱を出せば国の大事になる。死ねば、豊臣政権は終わる。
五歳児にして、組織最大のキーマンリスクだった。
「ははうえ。ちちうえは」
尋ねると、淀殿の腕がわずかに固くなった。本当にわずかだった。だが、二十年間、光秀として人の沈黙を読み続けてきた目は、それを見逃さなかった。
光秀だったころ、俺は、この人に、会ったことがある。いや、あの世界の、この人に。
八つか九つの茶々は、俺の顔を見上げて、聞いた。《織田は、父上の敵ですか。母上の家ですか》。答えられなかった。
あの世界の茶々は、二十六で、自分で選んで、京の公家に嫁いだ。《わたくしは、橋になりとうございませぬ。渡る者を、選びとうございます》。俺は、それでよい、と答えた。
この世界の茶々は、選べなかった。父の仇の、側室になった。
「お疲れでございます」
出た。便利な言葉である。
最初の人生で何度も聞いた。社長はお疲れです。少し休めば戻ります。まだ大丈夫です。誰も「倒れます」とは言わない。誰も「死ぬかもしれません」とは言わない。そして、倒れてから騒ぐ。
「びょうき、ですか」
淀殿は、今度は少し長く黙った。
「御医師が、診ております」
答えになっていない。つまり、かなり悪い。
俺はそれ以上聞かなかった。代わりに、淀殿の顔を見た。髪は整い、衣も乱れていない。だが目の下の影は、昨夜ひと晩で出来たものではなかった。この人が考えているのは、夫が死ぬことだけではない。その後、自分と息子に何が起きるかを、ずっと考え続けている顔だった。
小さな手で、淀殿の襟を握った。何か言うべきだと思ったが、五歳児の語彙で言えることは少ない。
「ははうえも、つかれていますか」
淀殿は一瞬、目を見開いた。それから、困ったように笑った。
「母は、疲れてなどおりませぬ」
この人も、同じ言葉を使うのだ。
伏見の城は、城というより都市だった。白い漆喰、黒い梁、金の飾り。開いた障子の向こうに幾重にも屋根が重なり、足軽が走り、女房が膳を運び、薬箱を抱えた男が医師らしい老人の後を追っている。
人は多い。誰もが忙しい。なのに妙に静かだった。
俺はこの空気を知っていた。トップの容体が悪い会社の空気だ。重大な案件が進んでいるのに、誰も悪い知らせの第一報を出したくない。だから全員が忙しいのに、組織としては止まっている。
廊下の角で、侍たちが一斉に伏した。大の大人が、五歳児の俺へ額を畳につける。
「拾様に、御機嫌麗しく」
どうしていいか分からずにいると、淀殿が耳元で囁いた。
「面を上げよ、とお言いなさい」
「……おもてを、あげよ」
侍たちが、揃って顔を上げた。五歳児の一言で、大の大人が十人以上動く。淀殿は満足そうに頷き、もう一度囁いた。
「よう出来ました。人の上に立つ者は、人を長く伏せさせてはなりませぬ。伏したままでは、その者の顔が見えぬゆえ」
意外な教えだった。権威を見せつけろ、ではない。相手の顔を見ろ、と言っている。この人は、ただ息子を甘やかしているだけではない。天下人の後継ぎとして生きる術を、抱いて運びながら教えているのだ。
とはいえ、麗しくない。しかもこの角度から見ると、ほとんど頭頂部しか見えない。月代、月代、また月代。戦国武将を五歳児の目線で見ると、頭頂部率がやたらと高い。歴史小説では教えてくれなかった景色である。
視界に表示が出た。
【豊臣秀頼 対外評価】
年齢 五
血統価値 SS
実務権限 二
名目的権威 八十六
後継者自立度 三
さっき見た中身の数字とは、まるで違う。外から見た俺は、ほとんど血統だけでできていた。実務権限二は当然として、問題は権威が八十六もあることだった。本人は何もしていない。秀吉の息子だというだけで、大人が頭を下げる。
最初の人生で、こういう二代目を何人も見た。大学を出たばかりで取締役になり、銀行が頭を下げ、取引先が褒める。本人は自分が優秀だからだと思い込む。違う。父親の信用残高を使っているだけだ。気づかない二代目は、だいたい会社を壊す。
今度は俺が、その二代目だった。笑えない。
「拾様」
伏していた一人が顔を上げた。痩せた顔、切れ長の目、華美ではない衣。周囲の男たちが、明らかにこの男の呼吸をうかがっている。
石田三成。二年後、関ヶ原で敗れ、処刑される男。
【人物評価:石田三成】
統率 64 | 戦術 51 | 政務実務 96 | 兵站財務 94
交渉外交 73 | 人望 47 | 学習適応 89 | 制度理解 92
固定スキル:行政高速処理/兵站最適化/規則徹底/不正耐性
弱点:感情翻訳 12/相手の面子への配慮 18
最後の一行を見て、すべて納得した。
「太閤殿下がお待ちにございます」
幼児に話しかける声ではなかった。一人の主君へ報告する声だった。
その瞬間、成都の記憶がよみがえった。魏延と楊儀。どちらも有能で、どちらも国に必要で、互いを心の底から嫌っていた。俺は二人を仲良くさせようとして、失敗した。人は制度で仲良くはならない。仲の悪い者同士でも、同じ組織で働ける仕組みを作るしかない。
三成も同じだ。この男を丸くすることが目的ではない。この男が正しいことを正しいと言っても、組織が割れないようにする。
「みつなり。あとで、はなしたいです」
三成の眉が、ほんの少し動いた。
「承知いたしました」
笑わない。驚かない。五歳児の予定も、正式な予定として受け取ったらしい。嫌われる理由が、少しだけ分かった。
三成の先導で奥へ進む途中、小さな騒ぎが起きた。
薬湯を運んでいた若い小姓が、曲がり角で女房とぶつかりかけたのだ。盆が傾き、蓋が鳴る。落ちはしなかった。だが次の瞬間、三方向から声が飛んだ。
「そのまま急げ!」
「待て、温め直せ!」
「先に御医師へ確かめよ!」
小姓は固まった。右を見て、左を見て、後ろを見る。命じた三人は、全員が身なりよく、全員が命じる権限を持っていそうに見える。
数秒、小姓は薬湯を持ったまま立ち尽くした。やがて一番身分の高そうな男の「急げ」に従い、頭を下げて走った。
温度の確認はどうなった。医師の確認はどうなった。誰も知らない。
最初の会社で何度も見た光景だった。社長、専務、事業部長から別々の指示が飛ぶ。現場は仕事ではなく、誰が一番偉いかを判断し始める。
「ははうえ。いまのひとは、だれのいうことを、きけばいいのですか」
淀殿が止まった。ほんの一瞬だったが、それで答えは分かった。
「その場を預かる者が決めます」
「そのひとは、だれですか」
淀殿は答えなかった。
秀吉が生きているうちは、迷ったら太閤殿下へ、割れたら太閤殿下へ上げればいい。だから下の責任者が曖昧でも、組織は動いてしまう。だが、秀吉が死んだら誰へ上げるのか。
【豊臣政権 組織診断】
財政基盤 S
軍事資産 SS
権威 SS
意思決定系統 判定不能
創業者依存度 九十八
金がある。城がある。兵も人材もある。ないのは、秀吉がいなくなったあと誰が何を決めるのか、という答えだけだった。
廊下の先で、三成が足を止めていた。さっきの小姓が、空の盆を抱えて戻ってくるところだった。薬湯は無事に届けたらしい。
三成は、その小姓の前に立った。小姓の顔が青くなる。叱られると思ったのだろう。
「……よう、零さなんだ」
三成はそれだけ言った。表情は少しも変わらない。声も平らだった。
小姓は訳が分からないまま平伏し、逃げるように去っていった。褒められたとは、たぶん最後まで気づかなかった。
三成は、去っていく背中をしばらく見ていた。それから、何事もなかったように前を向いた。
俺は淀殿の腕の中で、その横顔を見た。
この男は、人を褒めるときでさえ、褒めたと伝わらないのだ。正しいことを言い、正しいことをして、それでも誤解される。関ヶ原のずっと前から、この男は一人だったのかもしれない。
感情翻訳十二。数字で見るより、実物の方がずっと寂しかった。
「拾? 顔色が悪うございます」
淀殿が覗き込んだ。
「……すこし、こわいです」
五歳児として、正直に言った。淀殿の目が揺れ、俺を抱く腕が強くなった。
「母が、おります」
その声は、天下人の側室のものでも、浅井の姫のものでもなかった。ただの母親の声だった。
この人は敵ではない。今、俺を抱いているのは、息子を失いたくない一人の人間だ。制度も数字も大事だが、それだけで人は動かない。光秀として二十年を生きて、ようやくそこまで学んだ。ここを間違えてはいけない。
「参りましょう」
三成の声がした。廊下の先に襖がある。その向こうに、豊臣秀吉がいる。死後の世界で俺に頭を下げた男。この世界では、まだ生きている男。
五歳児CEO。資産は日本最大級。競合は徳川家康。創業者は余命わずか。豊臣家滅亡まで、残り十七年。
視界に最後の一行が浮かんだ。
【難易度 SSS】
【本日の豊臣家滅亡確率】
98.0% → 98.0%(変化なし)
見ているだけでは、何も変わらない。当たり前のことを、数字は律儀に教えてくれた。
襖が開いた。薬と香の匂いが流れてくる。その奥から、かすれた声が聞こえた。
「拾……来たか」




