第2話 残せ
【豊臣家滅亡まで 残り6,120日】
暗闇の奥から、一人の男が歩いてきた。
後光はなかった。金色でもない。黒い小袖に、細い身体。そして、人を待たせることを当然だと思っている歩き方。
「……上様」
織田信長が立っていた。
「久しいな。日向守」
「はっ」
答えてから、しまったと思った。さっきまで黒瀬直人だったのに、一秒で明智光秀の返事をさせられた。最悪の上司である。死後まで強い。
信長は口元だけで笑った。
「黒瀬、と申すのであろう」
「……お聞きになっておられたのですか」
「最初からな」
「でしたら、最初からお出ましください」
「面白かったゆえ」
二十年かけてかなり改善したはずなのだが、根本は信長である。
「……上様。なぜ、こちらに」
上様は、生きておられるはずだった。俺が死んだ文禄五年、上様は、まだ、安土にいた。
「死んだゆえ」
さっきの秀吉と、同じ答えだった。
「慶長三年、六月二日。安土の城で、畳の上でな」
六月二日。本能寺の日だった。あの世界では燃えなかった寺の、その日付に、この人は、畳の上で死んだのだ。
「おぬしに、伝えよと、言い置いてきた。……届かなんだゆえ、自分で来た」
「何を」
信長は、少しだけ、顔を背けた。
「十六年、遅れた」
本来の本能寺の年から、十六年。この人は、十六年、遅れて、死んだ。俺が、遅らせた十六年だった。
秀吉が慌てて平伏した。
「上様」
「筑前。黙っておれ」
「はっ」
一言で黙った。天下人になった男でも、この人の前では草履取りの顔に戻るらしい。
信長は俺の前まで来た。
「断ったそうだな」
「お断りいたしました」
「なぜだ」
「さすがに、疲れました」
「そうか」
信長は即答した。否定しなかった。
俺は少し驚いた。かつてなら「働け」で終わっていた男だ。
「ならば、休め」
言葉を失った。
「……何日、お休みをいただけるのでしょうか」
「好きなだけだ」
「まさか、三日ではございませんよね」
信長が顔をしかめた。
「まだ言うか」
俺は笑った。あの日、安土で、熱を出した俺にこの男は言った。休め、三日でな。全部は、そこから始まった。休むことを知らない主君に、休ませる仕組みを作らせるまでに、何年かかったことか。
信長は、しばらく黙って俺を見ていた。それから、珍しく視線を外した。
「日向」
「はい」
「二十年、大儀であった」
耳を疑った。
この人の口から、その言葉を聞いたことは一度もなかった。褒めることはあった。「で、あるか」と頷くこともあった。だが、労う言葉だけは、最後まで出てこなかった人だ。
「わしは、おぬしを一度も休ませなんだな」
「……三日は、いただきました。いえ、二日でした。減らされましたので」
「……二日だけだ」
信長は、自分の手を見た。桶狭間で槍を握り、比叡山を焼き、天下の半分を掴んだ手だった。
「本能寺で死ぬはずだったわしを、おぬしは死なせなかった。死ななかったわしは、それから十六年、生きた。勘九郎が家を継ぐのを見た。孫の顔も見た。あれは、おぬしがくれた十六年だ」
俺は何も言えなかった。
主君に礼を言われたかったわけではない。そう思っていた。だが、胸の奥で何かがほどけていくのが分かった。二十年間、心のどこかでずっと待っていたのかもしれない。この人の、この一言を。
「上様」
「何だ」
「……もったいのうございます」
光秀の言葉で答えてしまった。今度は、しまったとは思わなかった。
信長は鼻を鳴らした。照れているのだ、と分かるまでに、二十年かかった。
「わしは、勘九郎に、十年前に、渡した。……渡せたのは、おぬしが、渡し方を書いたからだ」
死の床で、上様がそう言ったと、この人自身の口から、初めて聞いた。
「なぜ、あれほど、勘九郎に肩入れした」
「後継者だったからではございませぬ」
「では」
「まだ、ご自分で何も選んでいなかったからにございます」
信長が頷いた。
「ならば、同じだ」
俺は黙った。
「筑前のために行けとは言わぬ。豊臣の天下を守れとも言わぬ。徳川を倒せとも言わぬ」
信長は、平伏したままの秀吉を一度だけ見た。その目に、昔のような冷たさはなかった。
「猿」
「はっ」
「おぬしの倅は、おぬしに似ておるか」
秀吉は平伏したまま、少し考えた。
「……母親似にござる。ようござった」
信長が短く笑った。秀吉も、額を地につけたまま、肩を小さく揺らした。
草履取りと主君。天下を継いだ家臣と、天下を取り損ねた主君。この二人の間にも、俺の知らない何十年があるのだ。俺が生きた世界の信長と、秀吉が生きた世界の信長は、たぶん同じ人ではない。それでも、この二人は笑い方だけで話が通じていた。
信長は、ふっと笑みを消した。
「五歳の子が、親の失敗だけを理由に死ぬのは、気に入らぬ」
そこで、信長は、少しだけ、黙った。
「……それに、あの子の母は、市の娘じゃ」
声が、低くなっていた。
市。お市の方。この人の、妹。
「わしは、小谷を、焼いた」
信長は、自分の手を、見たまま、言った。
「長政を、死なせた。市の産んだ男子も、生かしてはおかなんだ。……市は、三人の娘を連れて、城を出た。娘ゆえ、連れて出られた」
光秀だった頃、安土で、お市の方に、三度、会った。一度、万福丸の名を口にしかけて、止められた。《申しませぬ》。膝の上の手だけが、わずかに、動いた。
「わしの世の市は、それでも、安土で、生きた。茶々は、長じて、自分で、嫁ぎ先を選んだ」
信長は、平伏したままの秀吉を、見た。
「猿の世では、違う」
秀吉の背中が、小さくなった。
「猿の世のわしは、本能寺で、死んだ。市を守る者が、おらなんだ。市は、北ノ庄で、死んだ。茶々は、父を焼かれた城から、一度。母を焼かれた城から、もう一度。……二度、逃げた」
信長は、目を閉じた。
「そして、この先、三度目の城で、息子と、死ぬ」
誰も、何も、言わなかった。
「どちらの世でも。……あの娘の最初の城を焼いたのは、わしじゃ」
信長は、目を開けた。
「わしは、市に、何一つ、返しておらぬ。……せめて、市の孫くらいは、残してやりたい」
天下人の声では、なかった。兄の声だった。
五歳の子は、この人の、妹の孫だった。天下の話を、しているのではなかった。この人は、自分が焼いた城から始まった一家の、最後の一人の話を、していた。
目を閉じた。ずるい。秀吉より、はるかにずるい。この人は、俺が何を断れないか知っている。
「もう一度だけ、やれ」
「……」
「今度は、天下を取らせるな。勝たせる必要もない」
そして、短く言った。
「残せ」
蜀では、天下統一を捨てて国を残した。織田では、信長個人ではなく、信長がいなくても動く組織を残した。そして今度は、天下人の息子から天下を取り上げてでも、家と人を残せと言う。
三度の人生で学んだものが、一本の線につながった気がした。
俺は秀吉を見た。
「筑前殿。誤解なさらないでください。筑前殿の天下を取り戻すための仕事はいたしません。必要であれば、豊臣の領地も減らします。権威も手放していただきます。徳川にも頭を下げていただきます」
「……下げます」
早い。さすが秀吉だった。
「筑前殿の成功体験も、すべて疑わせていただきます」
秀吉は、今度はゆっくりと頷いた。それから、仏の顔のまま、ぽつりと言った。
「拾に、会うてやってくだされ。あれは、よう笑う子にござる」
依頼ではなかった。自慢だった。死んでもなお、息子の話をするときだけ顔が崩れる。俺は、この男を少しだけ好きになりかけ、慌ててやめた。情が移る。
視界に、もう一度表示が出た。
【緊急再建案件を引き受けますか】
対象 豊臣秀頼
年齢 五歳
豊臣家滅亡まで 残り十七年
はい / いいえ
「いいえ」は魅力的だった。非常に魅力的だった。
その横から、信長が言った。
「押せ」
「亡くなられてまで、ご命令なさらないでいただきたく存じます」
「最後だ」
「上様の『最後』は、申し訳ありませんが信用しておりません」
信長が笑った。秀吉も笑った。
俺はため息をついた。
「……本当に、ろくな上司に恵まれませんな」
そして、「はい」を押した。
暗闇が割れた。金色が消えた。落ちていく途中で、信長の声だけが聞こえた。
「黒瀬」
「何でございましょう」
少し間があった。
「今度は、ちゃんと休め」
答える前に、俺は落ちた。
香の匂いがした。畳の感触。絹の衣擦れ。遠くで、女が泣いている。
身体が異様に軽い。手を上げると、小さかった。丸い。五本の指。幼児の指だった。
見上げた天井には、金箔の雲が広がっていた。松が枝を伸ばし、鳥が飛んでいる。趣味がいいかどうかは意見が分かれるだろうが、途方もなく金がかかっていることだけは分かった。
「拾」
女の声がした。
横を向くと、白い顔の女がいた。美しい。だが、目の下に薄い影がある。眠っていない目だった。
淀殿。浅井長政とお市の方の娘。豊臣秀吉の側室。豊臣秀頼の母。そして別の歴史では、大坂城で息子とともに死ぬ女。
彼女は俺を抱き上げた。腕が震えていた。
「お目覚めでございますか。よかった。長う眠っておられたゆえ、母は……」
そこで言葉が途切れた。
泣いていたのは、この人だったのだと気づいた。俺が眠っていた間、この人はずっと傍で、息子の寝息を数えていたのだ。夫が死にかけている城で、息子まで目を覚まさないかもしれないと怯えながら。
「……ははうえ」
口から出たのは、驚くほど自然な声だった。
淀殿が俺を強く抱いた。香の奥に、微かに汗の匂いがした。何日も着替える暇もなかった人の匂いだった。
部屋の隅で、年かさの女が袖を目に当てていた。乳母だろう。その横で、若い侍女が震える手で白湯の椀を差し出した。淀殿はそれを受け取り、自分で一度息を吹きかけてから、俺の唇へ当てた。
「少しずつ。少しずつですよ」
白湯はぬるかった。この人は、俺が目を覚ましたらすぐ飲めるように、何度も冷ましては取り替えさせていたのかもしれない。椀の縁に、口紅の跡はなかった。化粧をする暇もなかったのだ。
「熱は、下がりましたね」
淀殿の掌が、俺の額に当てられた。冷たい手だった。眠っていない人の手だった。
さっきまで、俺はこの人のことを「歴史上の人物」として知っていた。豊臣家を滅ぼした女、と書く本もあった。
だが今、俺を抱いているのは、息子を失うことに怯えている一人の母親だった。
――淀を。
秀吉の声が耳の奥によみがえった。俺は、その頼みも断ったはずだった。
「父上に、お会いしましょう」
淀殿が言った。
父上。さっきまで仏になって頭を下げていた男が、この世界ではまだ生きている。死去まで、残りわずか。関ヶ原まで、二年。大坂の陣まで、十七年。
その前に、別の板が一枚、勝手に開いた。自分の顔は鏡がなければ見えないのに、自分の数字だけは見えるらしい。
【人物評価:豊臣秀頼(拾)】
統率 43 | 戦術 18 | 政務実務 63 | 兵站財務 59
交渉外交 65 | 人望 70 | 学習適応 99 | 制度理解 73
固定スキル:未来史記憶/組織診断/制度設計/権限移譲
特殊スキル:五歳児特権(号泣)[使用回数 0]
封印スキル:???[解放条件:――――]
弱点:体力 5/長文発話 不可/一人で抱え込むと主人公依存が再発
戦術十八。光秀のころから正直に低い。本能寺を止めたのは、槍ではなく段取りだったのだから仕方がない。体力五。五歳児である。長文発話、不可。権限規程の説明は、当分できないということだ。
そして、特殊スキルの欄。五歳児特権(号泣)。国家運営に使える技能として、真顔で表示されている。三度の人生で、泣き落としが技能として数えられたのは初めてだった。
一番気になったのは、その下の一行だった。封印スキル。名前も、解放条件も、黒く塗りつぶされている。触れようとしても、何も起きない。三度の人生で、一度も見たことのない表示だった。
視界の隅に、見慣れた半透明の板が浮かんだ。
【豊臣家 事業承継診断】
創業者依存度 98
後継者自立度 3
家臣団分裂リスク 91
徳川代替可能性 94
豊臣家滅亡確率 ――
一拍。数字が出た。
九十八パーセント。
俺は五歳児の喉で、心の中の信長へ叫んだ。
――お話が違いますぞ、上様。




