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過去

 「清野おおおお!」


 野太い声が空気を震わせる。


「びっくりしたなあ!」


 振り返ると校内一の巨漢が駆け寄って来る。


「驚かせちゃったか? すまん、すまん」


 短く刈り込んだ髪型はあの頃の私のベリーショートに似ていなくもない。ちなみに現在の私はショートボブだ。


「また身体大きくなってない?」


「おう! 毎日、米だけでも一升は食べてるからな」


 そう言って豪快に笑う姿はあの頃とは似ても似つかない。クソ野郎と罵られ、大きな背中をできるだけ小さく丸め、下ばかり見ていたあの頃の草井と私は地獄の底を這いずり回っていた。


 此処に存在してはいけない生き物のように、隠れようのない教室という檻の中で、机の上の長方形の中に必死に留まろうとしていた。だけど私と草井はいつもその小さな世界から引き摺り出されていた。


「身長は?」


「182は越えてたと思うな。縦も横も成長が止まらんよ」


「中三であんたより大きくて重いヤツいるの?」


「一人だけ俺よりデカいのいたけど横は俺の圧勝だったぜ」


「そりゃそうだよね。向かう所敵なしって感じだよね。ほんと凄いよ。尊敬するよ。草井」


 草井はその巨体を活かして柔道を始めた。もちろん勤勉さと努力もあっただろうが、非凡な才能を発揮した。全校朝礼で何度表彰されたことだろう。今では常勝不敗の戦績を誇る。そして柔道部ともあって声は大きくなり、声変わりもして日に日に凄味を増している。自信に満ち溢れるこの男に、あの頃の面影は微塵も感じない。


「清野だって、この前の大会で入賞してたじゃないか」


「私は4位よお。一度でいいから、あんたみたいに表彰台の真ん中に立ってどデカいトロフィーを掲げたいもんだわ」


 私は陸上部で3000mの選手になっていた。特段に足が速いわけでもなく、高く遠く飛べるわけでもなかった私に残されたのは長距離走だった。


「まだまだ終わった訳じゃないし、高等部でも続けるんだろ? それに入賞しただけでも立派なもんだ」


「そうなのかなあ。でも、あんたに言われると素直に受け入れられる気がするよ。しかし、あんたみたいな才能の塊が、こんな時間まで練習して努力されちゃ、才能のない私なんかはお手上げだよ」


「買い被りだ。俺の才能は親から貰った、この身体だけだよ。飯をたくさん食べるのも身体を大きくする努力の一環だし、辞めようと思ったことだって何度もある。でもよ、こいつだけには負けられねえなって思って、今まで頑張ってこれたんだよな」


「えっ! 誰よ! 最強のあんたにライバルなんていないでしょ?」


「練習キツくてさ。もう嫌だ。って思う度に窓の外を見ると、清野……、お前が走ってたんだ。一心不乱に、なんの迷いもなく、ただただ前だけを見て走っていたんだ。それ見たら、なにへこたれてんだって気持ちになって、いつも勇気を貰ってたんだ」


 草井は遠くを見て言った。


「清野は俺の恩人なんだ。清野がいなければ俺は死んでたかもしれない。大袈裟でもなんでもない。大学まで一貫制のこの学校じゃ、ずっとあの日々が続いてたかもしれない。だけど、髪を短く切ったあの時の女の子に俺は救われたんだ。そして柔道に出会い、来週からは全国大会だ。……見に来ないか? 必ず優勝するよ。……見に来てほしい」


 そう言って日時と試合会場が記されたプリントを私に差し出した。何も言えない私の手に強引にそれを握らせ、草井は走り出した。


「待ってるからなあ!」


 振り返ってまた走り出した草井はつまずいて転びそうになる。


「ダサいな草井。慣れないことするからだよ」


 小さくなる背中にそう言った後、私は自分が泣いていることに気がついた。


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