百花視点①
図書館で働き始めて半年。
石村紗奈さんの第一印象は、とにかく静かな人だった。
もちろん優しかった。
仕事も丁寧だった。
でも、どこか遠慮している人でもあった。
「石村さん、これお願いできますか?」
そう聞くと、
「うん、大丈夫」と笑う。
だけどその笑顔の奥に、少しだけ不安そうな色が見えることがあった。
利用者対応でもそうだ。
理不尽なことを言われても反論しない。
困っている人がいたら助ける。
でも、自分のことは後回し。
なんというか。
「いい人」だった。
いい人すぎた。
だから百花は時々心配だった。
この人、自分をすり減らしてないかなって。
百花が紗奈を「石村さん」から「紗奈さん」と呼ぶようになったのは、実ははっきりしたきっかけがあったわけではない。
ただ、少しずつだった。
優しい。 真面目。 頼めば手伝ってくれる。
でも、自分から前に出ることは少ない。
百花から見れば、どこか壁の向こうにいる人だった。
「石村さん、これお願いできますか?」
「はい」
「ありがとうございます」
そんなやり取りばかり。
距離が遠いわけではない。 でも近くもない。
職場の先輩と後輩。
それ以上でもそれ以下でもなかった。
だからずっと「石村さん」だった。
でも百花が困っていた時、仕事で失敗して落ち込んでいた時。
利用者対応で緊張していた時。
気付けば隣に石村さんがいた。
「大丈夫ですか?」
静かな声。
でも、不思議と安心する声だった。
それから少しずつ仕事の話だけじゃなくなった。
好きな本の話。休みの日の話。
家族の話。くだらない雑談。
気付けば話す時間が増えていた。
ある日の昼休み。
二人でお弁当を食べながら話していた時だった。
「そういえば石村さんって――」
そこまで言って、百花は止まる。
なんだろう。
急に違和感があった。
「橘さん?」
石村さんが首を傾げている。
石村さん。
確かにそうだ。間違ってない。でも。
(なんか違う気がする)
百花の中では、もう。
“職場の先輩”だけじゃなくなっていた。
もっと近い。もっと親しい。
もっと大事な人だった。
「……紗奈さんって」
言ってしまってから、自分で少し驚く。
石村さんも目をぱちぱちさせた。
「え?」
「あっ」
百花の顔が熱くなる。
「す、すみません!」
「いや、別に謝らなくていいけど」
石村さんは少し困ったように笑った。
「急だったからびっくりしただけ」
怒っていない。
それどころか少し嬉しそうだった。
その顔を見て百花もほっとする。
「その……嫌でした?」
「ううん」
石村さんは首を振った。
「百花ちゃん、が呼びやすいならそれでいいよ」
柔らかく笑う。
「っっ!」
百花の胸が急激に温かくなった。
「あ、じゃあ今後は紗奈さんで!」
「うん。私も百花ちゃんって呼ぶね」
「紗奈さん」
「なに?」
「えへへ、呼んでみただけです」
百花が笑うと、紗奈も小さく笑った。
その瞬間。なんとなく思った。
ああ。もうこの人は私にとってただの先輩じゃないんだな、と。
尊敬していて。頼りにしていて。
一緒にいると安心できる。
百花にとって特別な先輩。
だから自然と。
その日から「石村さん」は消えて「紗奈さん」になった。
変化に気づいたのは、いつ頃だっただろう。
はっきりとは覚えていない。
ただ。気づいたら紗奈さんは前より迷わなくなっていた。
利用者に質問された時。後輩が困っている時。
何か問題が起きた時。
以前なら立ち止まっていた場面で、今はすっと動く。
判断が早い。
しかも不思議なくらい外れない。
「紗奈さん、なんでそんなに上手く対応できるんですか?」
ある日、思わず聞いたことがある。
でも本人はきょとんとしていた。
「そうかな?」
そうかな、じゃない。
絶対変わった。
もっと驚いたのは。
紗奈さんが自分の意見を言うようになったことだった。
会議でも。職員同士の話し合いでも。
以前なら周囲に合わせていた人が、
「私はこう思います」
と言うようになった。
強く主張するわけじゃない。
でも。ちゃんと自分の考えを持っている。
そしてその意見が結構的確なのだ。
みんな自然と耳を傾ける。
百花もその一人だった。
ある日の帰り道。
ふと隣を歩く紗奈さんを見る。
以前と同じ。
穏やかな顔。柔らかい声。
でも何かが違う。
芯だ。
前よりずっと芯がある。
風に流されそうだった人がちゃんと自分の足で立っている。
そんな感じ。
「紗奈さん、最近変わりましたよね」
思わず口にすると。
「え?」
本人は本当に分かっていない顔をした。
「そう?」
「変わりました」
百花は即答する。
「前よりずっと頼りになります」
すると石村さんは困ったように笑った。
「それは褒めすぎだよ」
違う。褒めているんじゃない。
事実だ。
百花は知っている。
紗奈さんは今でも優しい。今でも穏やかだ。
でも、もうそれだけじゃない。
前は誰かに合わせていた人が。今は誰かを支えられる人になった。
気づけば、百花自身も困った時は紗奈を探している。
紗奈さんがいれば大丈夫。そう思えるからだ。
そして本人だけが、その変化の大きさに気づいていないのだった。




