香水
百花ちゃんと駅前で別れる。
「今日、すっごく楽しかったですー!」
「うん、私も楽しかった。気をつけて帰ってね」
手を振る百花ちゃんを見送り、私も帰路につく。
夕方の駅前は、人通りが多い。
買い物帰りの主婦。学生の集団。
急ぎ足の会社員。
少し前方で、人の流れが不自然に揺れる。
視線を向けると、白杖ではなく、盲導犬を連れた男性が立ち止まっていた。
黒いラブラドール。 賢そうに主人の隣で待機している。
けれど。
「……すみません」
男性が心細そうに声を出す。
駅構内の一部が工事中らしく、普段の導線と変わっている。
案内板も仮設で見づらく、人の流れが複雑になっていた。
周囲も男性を気にかけながらも、ただ通り過ぎていく。
【周囲状況解析】
【案内支援可能】
【混雑ルート回避推奨】
視界の端に文字が浮かぶ。
私は少しだけ息を吸って、男性へ近づいた。
「あの、何かお困りですか?」
男性が顔を上げる。
「あ、すみません。東口へ行きたいんですが、工事中みたいで」
「進路変更の案内が出ているので、よかったらお連れしますよ」
「あぁ助かります。ありがとうございます」
隣の盲導犬が顔を上げ、こちらを見た。
「かわいい」
思わず小さく呟くと、男性が柔らかく笑う。
「ありがとうございます。仕事中なので、触るのは無理なんですが」
「あ、はい。大丈夫です」
「すみません、よく言われるもので」
穏やかな声だった。
私は人混みを見ながら歩く速度を調整する。
急ぎすぎない。 けれど流れを止めない。
【対人補助:歩行ペース】
【接触回避ルート表示】
(便利)
以前なら、 “どう声をかければ自然か” “変に思われないか”
そんなことばかり気になって、こんな風には出来なかった。
でも今は、“必要なこと”へ意識を向けられる。
「この先、少し狭くなります」
「はい」
「右側に段差があります」
「ありがとうございます」
盲導犬も落ち着いて歩いている。
人混みの中を抜け、工事エリアを越えると、男性が少し安心したように息を吐いた。
「東口に着きました」
「本当に助かりました、ありがとうございました」
「いえ」
その時。
後ろから前を見ずに走ってきた子どもが、勢いよく男性にぶつかりそうになる。
「あっ――」
反射的に私は半歩前へ出る。
だが、それより早く。
隣の盲導犬がすっと位置を調整し、自然に男性を庇った。
「わっ、わんちゃんだ」
「すみませんっ大丈夫でしたか!?」
ひとしきり頭を下げた母親に連れられ、親子が去っていく。
私は目を丸くした。
「すごいですね」
「優秀なパートナーなんです」
男性が少し誇らしそうに笑う。
盲導犬は何事もなかったように静かに座っている。
“支える”って、こういうことなのかもしれない。
必要以上に踏み込み過ぎず。
でも、ちゃんと隣にいる。
ふと、あの男性のことが頭をよぎる。
雨の日も。
電車でも。
困った時、自然に手を差し伸べてくれる人。
(似てるな)
そう思ってしまって、少しだけ笑ってしまった。
「本当にありがとうございました。では」
「はい。お気をつけて」
軽く会釈をして別れる。
帰りのホームへ向かう途中。
手首に残る柔らかな香りと、 さっき胸に感じた小さな温かさが重なった。
帰宅した頃には、外はすっかり薄暗くなっていた。
「ただいまー」
玄関で靴を脱ぐ。
歩き回ったせいか足がじんわり疲れている。
「おかえりー。楽しかった?」
リビングから母の声。
「うん。楽しかった」
そう返しながら、自室へ戻る。
鞄を机へ置き、スマホを取り出す。
『今日はありがとうございました!』
『付き合ってもらえて本当に楽しかったです』
百花ちゃんからメッセージが届いていた。
思わず笑みがこぼれる。
『こちらこそ。久しぶりの買い物で楽しかった』
返事を送ると、すぐ既読がつく。
続けて画像が送られてきた。
「……ん?」
表示されたのは写真。
香水だった。
『紗奈さん、あれ絶対好きだと思って、実はこっそり買ってたんです。日頃の感謝のお礼に』
『サンプルサイズですけど、よかったらどうぞ!』
『鞄、左外ポケットにこっそり入れてます!』
「えぇっ」
急いで鞄を開く。
すると本当にポケットの奥に、小さな紙袋。
全然気づかなかった。
「ちょ、百花ちゃん……」
取り出して開ける。
中には、小さな蒼いガラス瓶。
蓋を開けた瞬間。
ふわり、と柔らかな香りが広がる。
石鹸みたいに清潔で。 少しだけウッド系の落ち着いた香り。
――電車で、感じた匂い。
「……」
スマホが震える。
『どうでした?』
私は少し迷ってから返信を打つ。
『すごく好きな香りだった。ありがとう』
送信してから、ベッドへ倒れ込む。
するとすぐに、
『よかったー!』
『紗奈さんあれからずっと手首気にしてましたもんね!』
「見られてた……目敏すぎるでしょ」
思わず顔を覆う。
【感情状態:動揺】
【“恋愛自覚度”微上昇】
「うーー……」
誰もいない部屋で、小さく唸る。
手首へほんの少しだけ香水をつける。
ふわりと優しい香りが広がった。
夕食後。
リビングではテレビのバラエティ番組が流れていた。
父はラグに寝転がりスマホを眺め、 母はキッチンで食器を片付けている。
私はマグカップを両手で持ちながら、ぼんやりソファへ座っていた。
手首から、ふわりと柔らかな香りが漂う。
つけたのは本当に少しだけ。
それなのに。
(……落ち着くな、この匂い)
そんなことを考えていると。
「ん?」
濡れた手をを拭いた母が、隣に腰かけてきた。
「紗奈、なんかつけてる?」
「んんっ」
危うく飲みかけのココアを吹きそうになる。
父がスマホから顔を上げた。
「香水?」
「うん」
母が顔を寄せてくる。
「ちょ、近い近い」
「えー」
くん、と嗅がれて、私は思わず身を引いた。
「珍しいじゃない、香水なんて」
「……後輩にもらっただけ」
「へぇ~?」
母の目がにやにやし始める。
嫌な予感がした。
「なによ、今日遊びに行った後輩ってもしかして男の人だったの?」
「いやいや、女の子だよ。百花ちゃんていう」
「ふぅーん」
何か察したように笑う母は見ないふりで。
そっとマグカップへ口をつけた。
湯気の向こうで、 清涼な香りが静かに揺れていた。




