終電の一つ前
飲み会帰り。
夜風が少し冷たい。
駅前のロータリーを抜けながら、私は小さく息を吐いた。
西野さんが麻生さんと話していた時の顔を思い出す。
楽しそうだった。
嬉しそうだった。
緊張していた。
見ているだけで分かるくらい。
荒川さんも……見ていた。
「……切ないな」
ぽつりと零れた。
自分の恋じゃない。
自分が失恋したわけでもない。
なのに胸が痛い。
ホームへ降りる階段。
終電一本前。
金曜夜の駅は、酔った会社員や学生でそこそこ混んでいた。
その時。
「ぁ」
階段の先。
自販機の横に見覚えのある姿が立っていた。
(あの人だ)
向こうもこちらに気づいた。
軽く目を見開き、それから会釈する。
「こんばんは」
「こんばんは……」
私も会釈を返した。
以前ならここで終わっていたと思う。
でも今日は少しだけ違った。
男性が私の顔を見て、わずかに笑う。
「飲み会帰りですか?」
「えっ、あ、分かります?」
「雰囲気で」
お酒は一杯しか飲んでないが、顔が赤いんだろうか。
沈黙。
でも不思議と気まずくない。
アナウンスが鳴り響く。
ホームに電車が滑り込む。
扉が開き、人が流れ込んでいく。
金曜夜特有の、少し気だるく浮ついた空気。
男性が軽く扉側へ手を向けた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
私は小さく頭を下げて先に乗り込む。
車内はそこそこ混んでいた。
真ん中あたりで止まり、吊り革を持つ。
真隣ではなく少しだけ間を空けて彼も。
発車ベル。
電車がゆっくり動き出した。
窓に夜景が流れる。 ガタン、という一定の揺れ。
誰かの笑い声。
遠くで鳴る通知音。
吊り革の擦れる小さな音。
それなのに、不思議と静かだった。
(……会話、続けなくていいんだな)
以前の私なら一人焦っていたと思う。
何か話題を探さなきゃ。沈黙は気まずい。
相手を退屈させてるかも。
頭の中はネガティブだらけで。
でも今は違った。
男性はスマホを見るでもなく、 無理に話しかけるでもなく、 ただ静かに窓の外を眺めている。
私も。
空気が楽だった。
視界の端。
【“無言共有”状態】
【会話必要:なし】
(便利だなぁ、これ……)
思わず心の中で笑う。
電車が揺れ、減速していく。
アナウンスが流れ、途中駅に到着した。
ドアが開いた瞬間。
「うぇーい! まだ終電余裕じゃーん!」
「次カラオケ行こー!」
酔った若者グループがどっと乗り込んでくる。
アルコールの匂い。大きな笑い声。
ふらつく足取り。
私は反射的に肩をすくめた。
(う、わ。苦手なタイプ)
視界の端にウィンドウ。
【注意:酩酊状態の集団接近】
【接触リスク:中】
(えぇ……)
若者の一人が吊革につかまり損ね、大きくバランスを崩す。
その進行方向。
――私。
「っ」
避けようとした瞬間だった。
ぐい、と軽く肩を引かれる。
同時に、目の前へすっと伸びる腕。
「危ないですよ」
低い声。
次の瞬間、酔った男性が彼の腕にぶつかった。
「おっと、すんませーん……」
「気を付けて」
男性は淡々と返す。
怒るでもなく、威圧するでもなく。
ただ自然に、壁を作るみたいに私を庇ってくれていた。
顔を上げる。
近い。
スーツ越しに伝わってきそうな体温。
微かに香る石鹸の匂い。
【心拍数:上昇】
【“異性耐性”に軽微な負荷】
(表示しなくていいから……!)
若者たちはそのまま車両の奥へ流れていった。
静けさが戻る。
男性は確認するみたいにこちらを見た。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい。ありがとうございます」
「いえ」
それだけ言って、彼は自然に一歩離れる。
距離感が絶妙だった。
助けたことを必要以上に引っ張らない。
恩着せがましくもしない。
小さく息を吐く。
電車の揺れ。窓に映る夜の街。
隣に立つ彼は、また何事もなかったみたいに吊革を持っていた。
けれど。
【対象人物への信頼度:上昇】
そんな表示が、視界の端で静かに点滅していた。
『――次は、○○~』
降りる駅だった。
電車が減速していく。 窓の外に見慣れた駅前の灯り。
扉が開き、人の流れに合わせてホームへ降りる。
彼もやはり最寄り駅のようで、少し後ろを歩く。
夜風がひんやり頬に触れる。
改札へ向かいながら、ちょうど鳴ったスマホを取り出した。
メッセージ通知を見る。
『着いた。ロータリー』
迎えを頼んだ父からだった。
「お迎えですか?」
隣に並んだ彼からの落ち着いた声。
「あ、はい。父が車で」
「そうなんですね」
それだけの短いやり取り。
けれど次の瞬間、彼がほんの少しだけ表情を緩めた。
「じゃあ安心ですね」
「え?」
思わず聞き返す。
彼は改札へ視線を向けたまま続けた。
「金曜の夜ですし。酔ってる人も多いので」
その言い方があまりにも自然で。
少しだけ胸の奥がくすぐったくなる。
「確かに、そうですね」
「ええ」
短く笑う声。
改札を抜ける。
ロータリーには数台の車が停まっていて、その中に見慣れた白い車を見つけた。
運転席からこちらを見ている父。
「あの、今日はありがとうございました」
私より背の高い彼の目を見てもう一度お礼を言う。
男性は静かに会釈した。
「気をつけて帰ってください」
「はい」
それだけ。
小走りで車へと向かう。
乗り込んだあとも、不思議と心が温かかった。
シートベルトを締める私を見て、父がちらりと外へ視線を向けた。
「知り合いか?」
「ううん、電車でたまに会う人」
「ふーん」
父はそれ以上聞かなかった。
エンジン音が静かに響く。
車がロータリーを離れる。
窓の外。
駅前の灯りの中で、彼の後ろ姿が見えなくなるまで見ていた。




