遅延
仕事終わり。 改札を抜け、ホームへ降りる。
その瞬間。
【列車運行情報】 【人流滞留率:上昇】
【ホーム混雑予測:高】
「……あ」
電光掲示板を見る。
『人身事故の影響で運転見合わせ』
ホームにはざわめきが広がっていた。
ため息。 スマホを確認する人。 駅員へ詰め寄る声。
深呼吸して、意識を絞る。
怒鳴り声は流す。 苛立ちも拾いすぎない。
代わりに、ぶつかりそうな人の動きや、流れの変化だけを見る。
その時。
「……っと」
横から流れてきた人波に押され、身体がぐらつく。 反射的に一歩下がった瞬間、後ろの人へ軽く肩が触れた。
「あ、すみません」
謝りながら振り返り――少し目を見開く。
「あ」
狸の栞の男性だった。
男性もこちらに気づいたらしく、わずかに驚いたように瞬きをする。
「す、すみません」 「いえ。大丈夫ですよ」
穏やかな声。
軽く会釈を交わし、そのまま並んで掲示板を見上げる。
沈黙。
けれど、不思議と居心地は悪くなかった。
周囲は騒がしいのに、この一角だけ少し空気が静かな気がする。
【対象感情推定】 【緊張:低】
【会話負荷:低】 【“無理に話さなくていい相手”判定】
(……そんな判定あるんだ)
思わず心の中でツッコミを入れる。
ホームの混雑はさらに増していく。 人が動くたび、空気がざわつく。
そんな中、男性が小さく息を吐いた。
「しばらく動かなそうですね」
「みたいですねぇ……」
自然に返事が出た。
以前の私なら、何を返せばいいか考えすぎて、変に間が空いていたと思う。
でも今は、必要以上に相手を読み取らない。
だから、ただ隣に立っていられた。
少しして、アナウンスが流れる。
『運転再開見込みは三時間後です』
ホームに重たい空気が広がった。
「えぇ……」 「マジか……」
あちこちでため息が漏れ、人が一斉に動き始める。
振替輸送の案内板へ向かう人。 別路線を検索する人。 改札へ戻る人。
私もスマホを取り出した。
(どうしよう……)
路線図を開く。
けれど、人が多すぎてうまく頭に入ってこない。
【周辺混雑率:上昇】
【情報処理負荷:微増】
視界の文字に、小さく眉を寄せたその時。
隣から落ち着いた声がした。
「この路線なら、たぶん早いですよ」 「え?」
顔を上げる。
男性が、自分のスマホ画面を軽く示していた。
「地下鉄経由になりますけど、振替使えるみたいです」 「あ……」
示されたルートを見る。
普段使わない路線だった。 自分だけなら、たぶん気づかなかったと思う。
「ありがとうございます」
「いえ」
男性は小さく笑う。
押しつけがましくない。 “教えてあげた”感じがまるでない。
それが妙に、その人らしかった。
「じゃあ、自分はこっちなんで」
軽く会釈。
「あ、はい。ありがとうございました」
「お気をつけて」
それだけ言って、男性は人の流れの中へ消えていく。
呼び止める理由はない。 連絡先を聞くような空気でもない。
ただ、去っていく背中を見送りながら、ぼんやりと思う。
(……優しい)
視界の端に文字が浮かぶ。
【感情変化を検知】
【心拍数:微上昇】
「……もう」
小さく呟いて、私はスマホを握り直した。
騒がしい駅。 慌ただしく動く人波。
その中で、ほんの数分だけ交わした静かなやり取りが、記憶に残った。
夕飯を食べ終えたあと。
「あいたたた」
母がソファへ腰を下ろし、肩を叩く。
「どしたの?」
「んー、今日ちょっと張り切ってお風呂掃除したからねぇ」
そう言って肩を回す。 確かに、動きが少し重そうだった。
その瞬間、視界の端に文字が浮かぶ。
【身体状態を簡易分析】
【肩部筋緊張:中】 【腰部疲労:軽】
【推奨:肩周辺の血流補助】
(そんなのまで分かるんだ……)
最近、本当に能力の範囲が広がってきている気がする。
母は「あー」と言いながら肩を揉んでいる。
「……ちょっと揉もうか?」 「え、珍し」
母がぱちぱち瞬く。
「なによ急に」 「いや……なんとなくね」
「ふふ、じゃあお願いしようかな」
ソファの後ろへ回る。
肩へそっと手を置いた瞬間、また文字。
【力加減推奨:弱〜中】
【右肩優先】 【押圧位置を補正】
(このくらいかな?)
右肩を意識して指に力を入れる。
「あー」
母が小さく声を漏らした。
「そこそこ」 「ここ?」 「そう〜……」
表示に従って少し位置をずらすと、肩の硬さが驚くほど分かりやすく伝わってくる。
硬い場所。 熱を持っている場所。 逆に、強く押さない方がいい場所。
以前の私なら絶対分からなかった。
「紗奈、上手いわ~」 「そう?」
「なんかプロにしてもらってるみたい」
そんな大げさな。
そう思いながらも、能力の補助はかなり正確だった。
【反応良好】 【筋緊張:微減】
表示が更新される。
「はぁ……上手」 「ほんと?」
「うん。すごく」
母は素直に感心した顔をしたあと、少し笑った。
「なんか最近、余裕出てきたわねぇ」 「……そうかな」
「前は仕事から帰ると、もう無理ぃ……って顔してたわよ」
言われて、少しだけ考える。
確かに前は、人に気を遣いすぎて家へ帰る頃にはヘトヘトだった。
でも今は違う。
全部を拾わない。 必要なものだけ見る。
それだけで、こんなに楽になるなんて思わなかった。
「まあ、いいことよ」
母は目を細めながら言う。
「紗奈、最近楽しそうだし」 「……そう?」 「うん」
その言葉に、ふと今日の駅を思い出す。
騒がしいホーム。 静かな声。 自然に隣へ立てた時間。
【感情ログを参照】
【対象想起による心拍変化:微上昇】
(参照しなくていいから……!)
内心でツッコミを入れながら、肩を揉む力を少し強める。
「いたたた」 「あ、ごめん」 「ふふっ」
母が笑う。
その笑い声を聞きながら、私は小さく息を吐いた。
家の中は静かで、あたたかかった。




