なんか出た
「ご返却ありがとうございました」
返却カウンターに置かれた本を受け取り、バーコードを読み込む。
梅雨の時期の図書館は静かだ。
窓を叩く雨音。遠くで紙をめくる音。時折聞こえる小さな咳払い。
利用者も少なく、館内にはゆっくりした空気が流れている。
「石村さん、お先に休憩どうぞ」
控えめな声。
顔を上げると、後輩の百花ちゃんが頷きながら微笑んでいた。
「ありがと。じゃあ行ってくるね」
「はい、ごゆっくりどうぞ」
小さく手を振る姿に軽く笑い返し、足音に気をつけながらスタッフルームへ向かう。
「ん~……」
一人なのをいいことに思いきり背伸びをする。
エプロンを外して椅子へ座ると、一気に力が抜けた。
(眠い……)
ここしばらく、忙しかった。
新年度の利用者対応。 企画展示の準備。返却遅延の電話対応。
忙しなく、細かい気疲れも積もっていた。
午前中の利用者の質問に、こう応えてたら良かったなと反芻しながらぼんやり窓の外を見る。
灰色の空。流れ落ちる雨粒。
その時だった。
「……え?」
視界の端に、何かが浮かんだ。
半透明の、小さなウィンドウ。
【空気読み補助を獲得しました】
「は?」
思わず声が漏れる。
瞬きをする。
けれど消えない。
「なにこれ」
手を伸ばしてみる。触れられない。
ホログラムみたいに、指がすり抜ける。
……疲れてるのかな。
数秒の後、ウィンドウはすっと消えた。
「…………」
静かな控室。
聞こえるのは雨音だけ。
私はしばし固まったあと、ゆっくりスマホを取り出した。
『幻覚 疲労』
検索欄へ入力し、ありきたりな説明文をいくつか読む。
結局、よく分からないまま休憩時間は終わった。
午後。
「貸し出しは六月二日までになります」
いつも通りの業務。
利用カードを受け取り、本を読み取る。
常連のおじいさん。勉強中の学生。雨宿りついでに立ち寄った親子。
その時。
「あの……将棋の初心者向けの本って、どの辺にありますか?」
三十代くらいの女性利用者が、遠慮がちに声をかけてきた。
「あ、はい。えっと……」
答えようとすると、ふっと頭の中に図書館の全体図が浮かんだ。まるで俯瞰しているように。
(え?)
文学。海外書籍。新刊。実用書。郷土資料。
大まかな記憶だった位置関係が、詳細な地図みたいに浮かんでくる。棚番号まで、妙にはっきり分かる。
昨日まで、こんなに覚えていなかった。もちろん大まかな位置は把握している。
でも、“迷わず断言できるほど”じゃない。
なのに今は、頭の中へ全体図が直接流れ込んでくるみたいだった。
「将棋コーナーはあちら、第二閲覧室の左奥になります。こちらから向かって左方向です」
気づけば、答えていた。
「ありがとうございます」
女性が嬉しそうに頭を下げて去っていく。
私はその背中を見送りながら、ゆっくり瞬きをした。
(いやいやいや)
胸の奥がざわつく。
(なんだ、今の)
試すみたいに視線を巡らせる。
文庫コーナー。郷土資料。新書。児童書。
見るだけで、詳細な情報が頭へ入ってくる。
まるで館内全体を把握しているみたいに。
(ちょっと待って。怖いんだけど)
背筋が少し寒くなる。
けれど同時に、それからの午後の仕事は不思議なくらいやりやすかった。
閉館後。
外へ出ると、雨は少し弱まっていて。
傘を開き、駅までの道を歩く。
水たまりを避けながら歩いていると。
【推奨行動、少し早足】
「だから何なのこれ……」
ぼやきつつ、歩く速度を上げる。
するとちょうど信号が青に変わった。
通り過ぎた少し後を、車の水しぶきが舞う。
「……」
さらに、駅へ着いた瞬間。
電車到着のアナウンス。
「え」
いつもの時間よりだいぶ早い。
雨によるダイヤの乱れがあったようだ。
人の流れに逆らわず、滑り込むように車内へ入る。
静かにドアが閉まった。
空いている席へ腰を下ろし、ようやく小さく息を吐く。
窓の外では、雨粒が流れていた。
車内アナウンス。揺れるつり革。濡れた傘の匂い。
いつもの帰り道。なのに今日は、妙に現実感が薄い。
ふと視線を落とす。
もちろん、あの半透明のウィンドウはもう出ていない。
けれど。
(……なんなんだろ、これ)
電車はゆっくり動いている。
窓へ映った自分の顔は、少しだけ疲れていて。でも、それ以上に戸惑って見えた。




