命を感じる瞬間
ある日、虫を一匹殺した。
そこから始まる、虫の一生への興味。
何をして、どうやって生きて、何を考えて生きているのだろうか。
そして不思議なことに、私は虫と中身が入れ替わってしまったようだ。
人類に恐怖をもたらす黒光りの物体になった私は、元の身体に戻ることはできるのか。
圧倒的な力を感じると同時に、ふと命の重みを感じる時がある。あるだろ?自室の机で作業をしていると姿を見せる瞬間は多い。それは大きな暗闇に隠された時間、窓の外に分厚い熱を感じる季節、片付いていないダンボールで壁を作ってから。奴らは一人で行動しているが、大きくはない。だから私も生き生きと、力の偉大さを見せつけるように挑む。
大きさにして最大3センチ、小さい者は1センチぐらいで活発に動いている。右に動けば自動的に左に動く。それが面白くて行先を予想して目でたどれば、ほとんど的中してしまう。これは花の周りを羽ばたくあの方たちにも共通している。何か気になったものがあれば、気を取られて方向転換をしつつ、また元の目的地の方を向いて羽ばたいている。華やかであるし、子供たちにも人気である。差し出した指に止まってくれるだけで、まるで選ばれた人間のように感じさせてくれるのだ。
しかし、彼らは違う。紙魚という存在は、紙を食う。触覚を頭と尻に携えて、うようよと動いている。それをティッシュで潰してみると、虫が持つ最大の臭みをじっくりと味わうことができる。こうやって、ハエや蚊や蜘蛛も潰してはゴミ箱に捨てる日々。できる限り殺したくはないから、息を吹いて遠ざけてあげて、チャンスを与える。もし、もう一度前に現れたのなら殺すしかない。これだけたくさんの虫を殺してきたけれど、虫に襲われて殺されるような夢を一度も見たことがない、ということは虫に恨まれていないと言って良いのだろうか。
「あ、いる。」
なんと小さな蜘蛛の子であろうか。触れなくとも失われてしまいそうな命である。その足は本当に体を支え、動かすだけの役割を果たしているのか。この小さな虫にさえ、私は一枚のティッシュを使うのだ。命を奪う強者としてのせめてもの礼儀である。その命としっかりと向き合うということが、私にとってはティッシュを使って丸めること。ごみ箱に捨てれば、一礼をし手を合わせる。
「ちゃんとあの世に行けますように。」
中二病でも精神がおかしくなってもいない。ただ、こんなにも命に差があるのだ。
彼らは人の手によって裁かれるとき、何を思うのだろうか。痛みを感じることはあるのだろうか。地面に強く叩きつけられ、片足と片腕を失ったカマキリが必死に動いている。それは、悲しいことだろうか。生きるという機能的な行動、繁殖という本能が彼らに命を与えている。必死に立ち上がろうと強く生きている姿、という風に我々が見ているだけでしかない。それを見て、その場から立ち去ることしかしてこなかっただろう。
こう夏の暑い時期だったら、地面に虫が落ちていることがある。ひっくり返って空にお腹を見せている。からっからに乾いて、水を与えれば排水溝に流れて行ってしまう。それほど軽くて脆い体で、私たちを脅かすことさえできるのだ。最も驚異的なスズメバチでさえ、死に伏せた状態なら触ることもできる。命を落とした虫をつつくことは、ある種夏の風物詩であり、その殻を持ち上げて顔を覗けば、生命の終わりを観察できる。これは貴重な体験だけれど、命の重さを感じるだけの実際の重さがない。
今まで何匹殺してきただろうか。それが命を軽くさせてしまっている。それを死体として認識することができない。いつも忌むべき存在として相対し、確実に排除しようとして殺してきた。一度だって心が解けるような経験も思いもない。その過程が、命を命として認識させないようにしているのだろう。その虫にちゃんとした固有名詞があろうと、それを知ることもない。それを知らなかったとしても殺せてしまうのだ。広義的な虫として捉え、ゴミと認識され、忌むべきものとしてゴミ箱に入れる。
「なぜ生きるんだろうか。この虫は何のために生まれて、何を食べて、何のために生きたのか。」
生きていくのに生きる意味は必要ない、と心を軽くしようともやはり必要である。虫に心はないから意味を持たなくとも生きていける。ここだけを見れば、心によって生きにくい者たちにとっては理想的ではあるが、虫になりたいと思うものはとても少ない。虫がどのように扱われて、どのような言葉や想いを向けられて、どのように始末されるのかを知っているからだ。
それらは全て、人間に対しても当てはめられるだろう。強い者には弱く、弱い者にはとことん強く、弱すぎるものには意識すらしない。であればこそ、我々が日々の生活の中でルサンチマンにならざるを得ない状況で、虫たちは何を考えて生きているのだろう。もしも、虫が考えたり悩んだりすることができれば、命乞いをするのだろうか。
「意思疎通ができないから、相手を知ることも相手の立場になってみることもできない、か。」
これこそ、命の授業である。
しかし、人間の絶対的な自身と覆りようのない立場があってこそ、こうした妄想の一つや二つができるのであって、地に伏せるばかりの虫にとっては理解しようのない耄碌である。
それは夢の中であってほしい。しかし考える力もない私は、夢であってほしいという意識をただ受け取っているだけである。これは私自身の想いや意識ではない。ひどくか細い足を見ても、細いという感想を持つことはできない。それらが普遍的であるからではなく、感想を持つことを許されていないからだ。ただ過ぎる寿命になんの抵抗もできず、巨大な影が空を包めば、光のない世界に飛ばされてしまう。あの煌めく光の放射線を浴びながら、飛べない同族たちを見下ろすことは素晴らしいだろう。しかし圧倒的にか弱くて、圧倒的に非力で、圧倒的に無の私が、こうして人間を脅かしているのだ。野に帰るすべはなく、一生を彼らの住処の中で終える。我々も、元は一つの兄弟だっただろう。なぜそこまで、力を誇示するのか。
「おい!俺の身体!気づいてくれ。」
口を大きく開けて横たわる私は、これほどまでに無防備で襲いやすいのか。少し血を頂きたくなるのもよくわかる。スムーズに体が動くから腕のところまではいけそうだが、殺されるかもしれない。焦っていたばかりに音をたてて動きすぎた。
「カサカサ、カサカサ。」
ああ、よりにもよってこいつか。ということは、部屋にいたんだな。理由は分からないが、側に仲間がいるような気配がする。おそらくテレビの後ろ辺り。考えたくもないけれど、そういえば自分も同じ姿をしているんだった。心がないはずなのに、私という自己だけですべてを完結している気がする。
しかし、いっこうに起きる気配がない。いつもなら飛び上がってあちこちを探し回るはずだが、俺の中身があいつ自身ならば夜行性で動き回っているはず。もしかして、意志そのものがないから体を動かせないのか。
「あ、あ。」
ゆっくりと目を開けている。手を使ってグッと持ち上げ、もう片方の手で口を開けている。しだいに慣れて、手を使わずとも動かせることを学んだようだ。大の大人であるはずなのに、まるで赤ちゃんの一挙手一投足を観察しているようだ。かわいいと思う反面、中身はゴキブリなんだなぁと。そうしみじみと感動している暇もなく、体を急に起こしてはこちらに顔を向けて目が合ってしまった。私はゴキブリの目がどこにあるのかを知らないが、あいつは良く知っているらしい。自分の姿をまじまじと観察し、そのまま悠久のような時が流れる。どちらかがアクションを起こさねば、このまま世界だけが進んでいくように思われる。こういう場合、大抵はゴキブリである自分が動いていたはずだから、その伝統に則って
「カサカサカサ。」
と方向転換をして一回転してみた。
それでも奴の集中が切れることはなく、元からそこに鎮座していたように固まっている。夢ならばよかったのだが、どうやら私も本気になって解決しようと考えているらしい。ようは、入れ替わってしまった私とゴキブリをどうやって元に戻すか、である。彼に私と同じような自己や意思のようなものがあるかはわからないが、この際彼らへの認識を改めて虫の一生を体験してみようではないか。いつ訪れるかわからない死の恐怖の中で、どうやって相手を怒らせないようにするべきか考えつつも、常識が通じる相手ではないことは確かである。
思えば、これも人間社会と同じようなものである。意思疎通のできない末人を見れば、それは猿というよりも虫に見えてしまうのだろうか。




