第61話 恐怖よりも食欲が勝つ
「ふぅ……美味しかったな……」
満足感に浸りながら、今日出会った食材たちを思い返す。
アスタータウンを出てほんの少し歩いただけの場所だというのに、アスター川の魚たち、大木にぶら下がっていた甘く芳醇なハチミツ、そして夜の暗闇に青白く輝くカガヤキノコ。
この世界には、俺のまだ知らない食材がこんなにも溢れているんだ。
(……もっと奥へ行けば、もっと知らない食材があるんじゃないか)
俺は使い終えた道具を手早く片付けると、リュックを背負い直して立ち上がった。
(……もっと奥なら、見たことのない食材が見つかるかもしれない)
そんなことを考えながら、俺は森の奥へ歩いていった。
◇
森が徐々に深くなっていく。
木々は太さを増し、足元には昼間の明るい草原では見かけなかった背の高い草木や、淡い色の胞子を飛ばす不思議な低木が増えてきた。立ち並ぶ巨木の陰が増え、人の気配もすっかり途絶えている。
(……見たことのない植物が増えてきたな)
足を止めて足元を覗き込んでいると、ガサッ、と前方の茂みが激しく揺れた。
「――っ!?」
咄嗟に身をすくませる。
茂みの奥から低い唸り声と共につややかな漆黒の毛皮を纏った一頭の獣が姿を現した。
月明かりを浴びて青白く光る牙と、鋭い黄金色の瞳。狼型のモンスターだ。
反射的に視界へ食材鑑定を向ける。
【月牙狼】
肉質:★★★★★
臭み:★★☆☆☆
脂:★★★★☆
推奨料理:炭火焼き、燻製、直火の煮込み
脂の乗りが非常に良く、野性味溢れる濃厚な旨味を持つ。特定の香草と合わせることで臭みが消え、極上の肉料理となる。
(う、うまそう……!)
表示された星5つの肉質と極上の肉料理という文字を見た瞬間、口の中に唾が溜まった。
月牙狼が「グルゥア……!」と地響きのような唸り声を上げ、鋭い爪を地面に食い込ませた。
「いや……待って、普通にめちゃくちゃ怖い……!」
剥き出された刃物のような牙と殺気を孕んだ黄金の瞳。俺は戦闘職ではない、ただの料理人だ。まともに戦った経験も数えるほどしかない。
(でも……あの肉、絶対に食べてみたい……!)
「逃げろ」と頭では分かっている。
それなのに、肉料理が頭から離れない。
月牙狼が前脚にぐっと力を込め、弾丸のような速度で飛びかかってきた。
「ひやっ!?」
俺は咄嗟に横へ転がり、ギリギリのところで突進を回避する。
ドスンと背後の大木に月牙狼の爪が突き刺さり、深い傷跡が刻まれた。
(速い……! 正面から打ち合ったら一瞬で倒される……!)
息を荒らげながら、必死に頭を回転させた。
ガランのように武器で受け流すなんて芸当は絶対に無理だ。俺にあるのは包丁の扱いと食材を見る目だけ。
月牙狼の毛皮、筋肉の付き方、そして鑑定結果を頭の中で重ね合わせる。
(背中は毛皮が分厚い。お腹の側なら、柔らかそうだ)
月牙狼が再び体勢を整え、俺を睨みつける。
爪を鳴らして突進する直前、右の後脚にぐっと体重を乗せる癖。そして跳躍した瞬間、無防備に晒される柔らかい腹部。
「どう戦うか」ではない。「どうすれば肉を一番綺麗な状態で手に入れられるか」。
観察眼が月牙狼の動きを必死に捉えさせていた。
「グルアッ!」
二度目の跳躍。まっすぐに俺の首元を狙って飛びかかってくる!
俺は恐怖で足が竦みそうになるのを必死に耐え、極限まで引きつけて横へ滑り込んだ。
頭上を通り過ぎる月牙狼の身体。その隙だらけの腹部へ向けて、俺は包丁を必死に突き出した。
「ここだ……っ!」
サクッ……!!
手応えが手に伝わる。
日々何百回と肉を切り裂いてきた手首の引きと包丁の角度が、ぴたりと噛み合った。刃先が腹の柔らかな部分を捉え、そのまま肉の繊維に沿って滑っていく。
「ガ、ア……ッ!?」
空中でのけぞった月牙狼は地面へ叩きつけられ、そのまま数度痙攣したあと、動かなくなった。
「当たった……はぁ……はぁ……」
その場にへたり込み、包丁を握りしめたまま激しく息を切らす。
「……っ、怖かったぁぁぁ……!」
本音が漏れ出た。心臓がバクバクと鳴り響き、全身の力が抜けていく。
本当に運が良かっただけだ。冷や汗をぐっしょりと拭いながら、目の前に横たわる月牙狼の巨体にそっと手を伸ばす。
さっきまで震えていた手が不思議なくらい落ち着いた。
腹部から綺麗に刃を入れ、上質な肉塊と毛皮、そして鋭い牙を傷つけないよう手際よく切り分けていった。
【解体の熟練度が上昇しました】
手元に残ったのは、つやつやとした綺麗なピンク色の月牙狼の肉と、つややかな毛皮、そして鋭い牙。
「はぁ……よかった……。牙も……何かに使えるかな」
武器や防具の素材かもしれないが、俺は「これも何か料理の道具や飾りに使えないかな」と考えつつ、大切にリュックへ仕舞い込んだ。
◇
少し離れた安全な場所へ移動し、小さく焚き火を起こした。
手に入れた月牙狼の肉をナイフで厚切りにスライスする。
包丁を入れた瞬間、刃を押し返すような力強い弾力と、断面から溢れ出す透明な脂。綺麗なピンク色の生肉は、見るからに旨味が凝縮されていた。
串に刺し、パチパチと爆ぜる焚火にかざす。
ジュウウウゥゥッ……!!
熱が通るにつれ、キュッと肉が縮み、表面にブツブツと透明な肉汁が浮き上がってくる。
ポタリ、ポタリと脂が炭火の上に落ちるたび、ジィジィと脂が爆ぜる音と共に、野性味溢れる肉の焦げる香ばしい匂いが立ち上った。
パラパラとシンプルに塩だけを振りかけ、全体が良い焼き色に染まったところで火から遠ざける。
「よし……食べてみよう」
フーフーと息を吹きかけて軽く冷まし、熱々の肉にかぶりついた。
ガツッ、サクッ……!!
前歯を押し返すような圧倒的な弾力!
肉の繊維が断ち切られた瞬間に、口の中一杯に熱い肉汁と豊かな脂の甘みが弾け飛んだ。
「――っ、うまい……!!」
ホーンラビットのあっさりとした肉とはまるで違う。
しっかりとした歯ごたえと、噛めば噛むほど溢れ出てくる濃密な旨味。塩気によって引き締められた極上の肉の味が、喉を通っていく瞬間まで満足感で満たしてくれた。
「これ……今まで食べた肉と全然違うぞ……!」
夢中で肉をかじり取り、あっという間に串一本分を平らげてしまった。
新しい食材を手に入れた感動と、自分の手で掴み取ったという確かな手応え。
胸の奥から湧き上がるワクワク感が、さっきまでの恐怖を完全に塗りつぶしていく。
ふと、月牙狼の鑑定結果を思い出す。
『特定の香草と合わせることで、極上の肉料理となる』という一文。
(その香草も、きっとこの森のどこかにあるはずだ……)
(その香草、探してみたいな)
――グオォォォオオオン……!!
森林のさらに奥、深い暗闇の向こうから、先ほどの狼とは明らかに異なる重く低い鳴き声が響き渡った。
地鳴りのように静寂を揺らすその声に、俺はびくっと肩を跳ねさせる。
「……今の、なんだ?」
怖い。今の声は、絶対にヤバいやつだ。
でも――
(あの奥、何がいるんだ?)
俺は暗闇の奥を見つめた。




