第1話 電脳世界で肉を喰らう
朝の食卓に並ぶのは、今日も灰色がかったペースト状のレトルト食だった。
レトルトのパッケージ裏、擦り切れるほど眺めた成分表には、卵・小麦・乳・甲殻類の文字に赤い注意書きが並んでいる。
一つでも紛れ込めば、喉が腫れ、息ができなくなる――物心つく前から、草山丹花の身体に刻まれた掟だ。
外食の思い出なんて一つもないし、学校の給食も一人だけ別のプラスチック容器に入った無臭の弁当を、隅の方で黙々とつつくだけだった。
スプーンですくって口に運ぶ。
広がるのは砂を噛むようなザラザラとした舌触りだけだ。匂いもない。ただ生きるためだけに調整された、栄養素の塊。喉を通るたびに「もしアレルゲンが混ざっていたら」という恐怖が背中を薄く冷やす。
テレビのニュースキャスターがどこか遠い世界の出来事のように喋っていた。
『――本日サービス開始となるVRMMO《Fragment of Myth》。味覚や嗅覚、触覚まで完全再現したこの仮想世界は……』
ゲームの中なら。
画面に映る、じくじくと肉汁を滲ませて焼ける塊を見つめながら、丹花はそっと自分の喉を指先でなぞった。あっちなら、呼吸が苦しくなったりしないんだろうか。
「……食べてみたいなぁ」
それは彼が生まれて初めて抱いた、むき出しの欲求だった。
画面の下に表示されたデバイスとソフトの価格は決して安くない。貯金を叩くことになる。それでも、手元のスマートフォンを操作する丹花の指先は迷わずに購入ボタンを押していた。
一回だけでもいい。普通に、まともなものを食べてみたかった。
ログインした瞬間、肺を満たした空気の冷たさに、ペンタス――草山丹花は鋭く息を呑んだ。
湿った土の匂いと、微かに混ざる草の青臭さ。
肌を撫でる風が、ちゃんと冷たい。鼻の奥がツンとするほど、世界に匂いがある。
「よっしゃ、剣士で行くぞ!」
「魔法使い一択だわ。初日から無双してやる」
「俺は盗賊かな」
始まりの街の広場は初期装備の武器を掲げて走り出すプレイヤーたちでごった返していた。その熱気から少し離れた案内所で、ペンタスは白髪のNPCの前に立っていた。
「珍しい職業を選ばれるのですね。料理人は戦闘向きではありませんが、よろしいですか?」
窓口のNPCが怪訝そうにこちらを覗き込んでくる。ペンタスは少しだけ照れくさそうに笑った。
「はい。強くなるより、美味しいものを食べたいんです」
すれ違うプレイヤーが「初日から生産職かよ」「地雷ビルド乙」と笑いながら通り過ぎていく。けれど、そんな言葉も、目の前にある匂う空気の圧倒的なリアルさに比べれば、ただの雑音に過ぎなかった。
【初期職業:料理人】
【初期スキル:食材鑑定 / 簡易調理 / 解体】
【初期装備:調理包丁】
※効果:小型動物へのダメージ補正・大
説明書きはそっけないほど短い。
――なるほど、獲物を美味しく仕留めろということか。
ペンタスは包丁を軽く握り直した。重みが、しっくりと手のひらに馴染む。
若葉の草原。
そこに、最初の標的がいた。
【角兎】
討伐推奨Lv1
──────
▼食材情報
肉質:★★★★★
臭み:★☆☆☆☆
脂 :★★☆☆☆
推奨調理:炭火焼き、串焼き
料理人の鑑定スキルを使ったペンタスの視界に、敵のHPやレベルではなく、まるで専門書のような詳細な文字列が浮かび上がった。肉質、最高値の星五つ。
「……うまそう」
ごくり、と喉が鳴った。
調理包丁を握る手が、微かに震えていることに気づく。人生で、生き物の命を奪おうとしたことなんて一度もない。
けれど、目の前にあるのはエネミーではなく、極上の食材だ。
(食べたい)
震えていた指先が、いつの間にか止まっていた。ペンタスは包丁を握り直し、角兎へと一歩踏み出す。
「グルルッ!」
角兎が、頭部の鋭い角をこちらに向けて突っ込んでくる。
ペンタスは、現実の自分からは想像もつかないほどの集中力で、その軌道を見据えた。肉の部位を傷つけないように、けれど確実に一撃で仕留める。
すれ違いざま、首筋の急所に向けて調理包丁を真っ直ぐに滑らせた。
サクッ。
肉の繊維が綺麗に断ち切られる確かな手応え。刃が吸い込まれるように入り、角兎はその場にぽてんと横たわって動かなくなった。
『角兎の討伐に成功しました』
ペンタスはすぐにしゃがみ込み、まだ温かい体に手を当てて【解体】を発動した。手際よく皮と肉が切り分けられていく感覚が手元に伝わってきた。
『解体に成功しました。技術評価:極上』
『アイテム:【ホーンラビットの肉(品質★★★★☆)】、【ホーンラビットの角】、【初級獣皮】を獲得しました』
手元に残ったのはほんのりと温かい、見事なピンク色の肉の塊。思っていたよりも、身体が自然に動いた。ペンタスはそれを両手で大事そうに抱え、草原の物陰へと急いだ。
――夕暮れ時。
小さな焚き火の炎がパチパチと乾いた音を立てて爆ぜている。
ペンタスは初期支給の岩塩を肉に少しだけ揉み込み、近くで拾った手頃な木の串に刺して、その火へとかざした。
『簡易調理を開始します』
ジィ……ジィ……。
静かな草原に、肉の焼ける音が響き始める。
熱が入るにつれて、ピンク色だった肉の表面から、ぷつぷつと透明な肉汁が浮き上がってきた。きゅっと繊維が縮み、溢れ出た脂がじゅわりと火に落ちて、小さな煙が上がる。
その瞬間、圧倒的な匂いのグラデーションが鼻腔を突き抜けた。
最初は熱せられた脂が焦げる香ばしさ。その奥から、かすかな野性味のある匂いが漂い、それが岩塩の塩気によってきゅっと引き締められる。
(これが……本物の肉の匂い……)
焼ける音と匂いだけで、目の奥がツンと熱くなった。レトルトの灰色の世界にはなかった、命の匂いだ。
表面に良い焼き色がついたのを確認して、串を持ち上げる。
「……いただきます」
ボソッと呟き、肉を口元へ運んだ。
まず唇に、熱い脂のテカリが触れた。
前歯を立てると、ザクッという快音とともに、肉の強い弾力が押し返してくる。けれど構わずに噛み締めると――ジュワッ、と繊維の奥から閉じ込められていた熱い肉汁が一気に溢れ出した。
濃厚な旨味と、ほんのりとした肉の甘み。それを岩塩のシンプルな塩気がこれでもかと引き立て、ダイレクトに脳へ美味しいという情報を叩き込んでくる。
噛むたびに、ジュブ、ジュブと、口の中が極上のスープで満たされていくようだった。
ゆっくりと飲み込む。喉の粘膜を温かく焼くように、けれど確かな満足感とともに、肉の塊が胃へと落ちていく。
喉は腫れない。
息も苦しくならない。
「あ……」
気がつけば、涙が顎のラインを伝って、ポタポタと落ちていた。
ガツガツと、夢中で肉を貪る。口の周りを脂まみれにしながら、ただひたすらに噛み締め、飲み込んだ。
何を食べてもいい。
ここでは、自分の身体を呪わなくていいんだ。
「美味い……美味いなぁ……!」
【未解析食材:ホーンラビットの肉 の調理・実食に成功しました】
【料理人スキル熟練度が0→1に上昇しました】
【料理品質:★★★★☆(補正込み)が記録されました】
【Unknown Parameter... 条件を満たしました】
【隠し称号:――】
いくつかのシステムメッセージが視界の端で点滅していたが、ペンタスは気にも留めていなかった。ただ目の前にある奇跡に、震える手で最後の肉片を口に放り込む。
長い余韻の後、彼は袖で乱暴に涙を拭った。
「……次は魚を食べよう」
【フラミス】サービス初日 雑談スレ Part1
0001:名無しのバーバリアン
初日終わったけど、やっぱ前衛安定だな。
0002:名無しのバーバリアン
魔法職、MP足りなくて泣いてる。
0003:名無しのバーバリアン
生産職選んだやついる?
0004:名無しのバーバリアン
鍛冶は見た。
0005:名無しのバーバリアン
裁縫もいた。
0006:名無しのバーバリアン
料理人は見たぞ。
0007:名無しのバーバリアン
ああ、東の草原でウサギ焼いてた奴?
0008:名無しのバーバリアン
あいつヤバかった。
ウサギ見つけるたびに全力ダッシュしてた。
0009:名無しのバーバリアン
しかも泣きながら食ってた。
0010:名無しのバーバリアン
ロールプレイ勢だろ。
料理人とか完全地雷職だし好きに遊べばいい。
0011:名無しのバーバリアン
いや、あいつの焼いた肉……
近く通ったけど、めちゃくちゃいい匂いだったんだよな。
0012:名無しのバーバリアン
腹減ってきた。
0013:名無しのバーバリアン
明日ちょっと料理人やってみるか。
0014:名無しのバーバリアン
そういやあいつ、ホーンラビット倒したあと解体してたぞ。
普通、ドロップ拾って終わりじゃね?
0015:名無しのバーバリアン
>>0014
解体?
そんなコマンドあったか?
0016:名無しのバーバリアン
知らん。料理人限定の専用スキルか何かじゃね?
0017:名無しのバーバリアン
料理人って肉焼くだけであんな匂い出るの?
俺が焼いたの焦げ肉だったぞ。
0018:名無しのバーバリアン
料理にも品質あるんじゃね?
クイッククック……クが多すぎるな……クククッ奴は四天王の中でも最弱……じゃなかった。




