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第1章《灰に宿る声 ― Voice in the Ash ―》1-5


 微睡みの底からクロを叩き起こしたのは、金属の軋みような音と、鼻を突く消毒液とタバコの混じった匂いだった。

 重い瞼を押し上げると、そこは剥き出しの鉄板と無骨な計器類に囲まれた、軍用ジープの車内だった。

 頭上を走るロールケージ、煩雑に積み上げられた通信機。窓の外には《灰域回廊》の重く、澱んだ灰色の空が広がっている。

 身体を突き上げるような硬い後部座席の感触。そこでようやく自分が何者かの車両に運び込まれたのだと気づいた。 

 

「起きたか。悪いな、うちの愛車はお転婆でね。お世辞にも寝心地は良くない」

「──っ!? 痛っ──!!」

 

 運転席からかけられた声に、クロは反射的に飛び退こうとした。だが、全身を駆け巡る電磁弾の残滓がそれを許さない。逃げようとする意志を鋭い激痛が力ずくでねじ伏せた。

 

「無理すんな。あの弾をまともに喰らって、立ち上がって反撃までしたんだ。普通立つことすら出来ない代物なのに。…小さいのに根性凄いな、君は」

「……あんたは、さっきの……」

 

 ルームミラー越しに自分を見つめる男。荒れ果てた路面を、片手で軽々と捌いていくその横顔は、地下通路で見た時よりもずっと飄々として見えた。

 

「……ここ、は……?」

「俺の部隊のジープの中さ。あいつらは撒いたから安心しな。向こうさんも、組織同士のドンパチに発展させてまで『浄化』を強行する余裕はなかったみたいでね。……まぁ、少しばかり『話』をして、お引き取り願ったよ」

 

 男は世間話のように言うが、あの狂信的な集団を「話」だけで退かせるなど、普通はありえない。クロは自分の手に巻かれた、清潔な包帯をじっと見つめた。

 

「応急処置だ。本格的な治療は落ち着いてから行う。…悪いがそれまで我慢してくれ」

「……なんで助けたの」


 クロは警戒を隠さず聞いた。わざわざピュリタスから奪い返すリスクを負ってまで奪うメリットが何なのか。

 満身創痍の小さな体から絞り出すような問いに、男はため息をつき、少しだけ声を落とした。

 

「……『なんで』、か。モク婆さんから聞いてた通りだな。自分の命を軽く見すぎている」 

「……!?…モク婆を知ってるの?」 

「知ってるも何も、あの人に頼まれた。──というか、半ば脅されてね。『助けてやっておくれ。もしあの子に何かあったら、あんたたちタダじゃ置かないからね』って。いやあ、怖かった…。本気だったよ、あの人は」

(……あのモク婆が?)

 

 困惑がクロの胸に広がる。優しくお茶を淹れてくれたあの老婆が、烈火の如く怒り、組織を相手に立ち回る姿が想像できなかった。


「……なら、もういい。モク婆には私から言っておくから、放っておいて」

「放っておけないから助けたんだろう。モク婆さんも、俺も」

「……あんたはモク婆に脅されたからでしょ」

「それもあるが助けられる奴を見殺しにする程、薄情者でもないさ」

 

 男の言葉には、不思議な暖かみがあった。それは憐れみというより、古い友人に接するような無造作な優しさだ。


「安心しな。悪いようにはしないから。共鳴庁ハルモニアが責任持って君を共栄市まで護送し、そこで保護する」

「……共栄市?」

共鳴庁ハルモニアが掲げる人と人との調和。それを目指す為に作られた自治都市だ。

 異能者と非異能者との共存を目指すことを理念としている」

「……綺麗事だね」

「…まぁな。でも綺麗事すら言えなくなったら人は人じゃなくなるさ」


 男は荒れ果てた路面を捌きながら言う。その言葉はどこか自分に言い聞かせているようなものだった。


 ◇


 どれくらい経っただろう。

 ジープは《灰域回廊》の荒れた路面を抜け、少しだけ平坦な旧街道の路肩に止まった。

 アイドリングの振動だけが車内に鳴り響いている。

 ふと窓の外を眺めれば、あれだけ重く垂れ込めていた灰色雲が薄れ、その切れ間に微かに青空が覗いていた。

 男は運転席から降り、後部座席のドアを開ける。吹き込んだ微かな風が、クロの頬を撫でた。

 

「……ここまでくれば安全だ。少し休むか」


 彼はそう言って車の外から手を差し出した。

 クロは呆然と、その手を見つめている。

 自分の手は先程まで先程まで紅蓮を纏い、全てを焼き払う為に『道具』として振る舞われたばかりだ。

 制御出来ていない全てを燃やし尽くす火種、それが自分だと。包帯の下で掌に刻まれた火傷がじくりと痛んだ。


「……どうした?」

「……モク婆から、聞いてるんでしょ。…制御出来てないって」

「ああ、聞いている。だから?」

「……だから」

  

 ──だから、またいつか、大切な人を燃やしてしまう。

 喉まで出かかった声を噛み殺し、クロは俯いた。

 誰かと関われば、いつかその熱が相手を焼いてしまう。それが怖くて、独りで生きていくことを決めたはずなのに。死に場所を探し求めていたはずなのに。

 ─なのに、繋がりを諦め切れない。許されないことなのに。

 クロが躊躇して身を引こうとすると、男は一切の迷いなく、さらに深く手を伸ばしてきた。


「君の炎に怯えるほど、俺は弱くない」


 その言葉は、クロの固い防壁を静かに溶かした。

 車外から差し込んだ光が、指先で淡く反射している。

 おずおずと差し出したクロの指先が、男の掌に触れる。

 ――温かい。 

 それは、自分の内側で燻る「破壊の熱」とは違う。生きている人間の、確かな鼓動と体温。

 クロが驚いて目を見開くと、男は彼女の指先を包み込むようにして、しっかりと握り込んだ。

 掌の火傷が痛む。しかしその痛みすら気にならなかった。


「な?燃えないだろう?」

「…っ、…うん」


 男は力を込め、クロの身体をふわりと引き上げる。

 地面に降り立ったクロの足が、アスファルトの硬さを噛み締めた。

 握られた手から伝わるその熱が、今まで閉じていた感覚を呼び覚ましていく。自分が今、確かにこの場所に立っているという実感が、じんわりと胸の奥に広がる。

  

「…あの時、死ぬつもりだったのか?」

「…わからない。そうなったら、そうなるだけ」

「そっか。じゃあ死ぬな。俺が困る」

「………は?」

「理屈じゃないんだよ、こういうのは。目の前で誰かが死ぬのは見たくない。それが初対面だろうと誰だろうと。…だから、死なれちゃ困る」


 その言葉に、クロは呆然として固まっていた。

 理解出来ない、この男は何を言っているんだろう。異能を制御出来ていない、いつ暴走するのかも分からない自分が死ぬのが『困る』なんて。

 

「……何それ。…あんた、バカってよく言われない?」

「ありがとう。褒め言葉として受け取っておく」

 

 男は可笑しそうに笑った。この地獄のような世界で、こんな風に笑う人間に初めて会った。

 

 空を見上げると、灰色の世界が完全に終わりを告げ、太陽の光がクロの黒髪を金色に染めていた。 

 世界を覆っていた灰色の雲が切れ、そこには鮮やかな青空が広がっていた。

 降り積もる灰ではなく、本物の太陽の光が、差し込んでくる。


「……凄い」

「絶景だろ?こんな地獄みたいな世界でもな、生きていてよかったと思える瞬間はある」


 カナメはそう言って、一度だけ彼女の手を強く握り直してから放した。

 解放された掌に残る微かな余韻が、クロを不思議と落ち着かせる。


「さてと、自己紹介がまだだったな。共鳴庁ハルモニア・調停官の神雨かみあめ かなめだ。君の名前は?」

「……クロ」

 

 太陽光の眩しさに目を細めながら、クロは自分の名前を、消え入りそうな声で口にした。


 この時彼女はまだ知らない。

 その胸の奥に、長く封じられた“もう一つの炎”が静かに燻り始めていることを。

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