第1話:目が覚めたら、神様が土下座していた
最初に見えたのは、白だった。
天井も、壁も、床も、よく分からない。ただ一面、白い。
境目がない。遠近感もない。目を開けているのに、まだ夢の中にいるような、妙なぼんやり感だけを感じていた。
その真っ白な空間の中で、ひとつだけ、はっきり形を持っているものがあった。
少女だ。
床に額を押しつけるようにして、ぺたりと土下座している。
淡いパステルカラーの、ひらひらした薄い着物。水色の長い髪。小柄な肩が細かく震えていた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」
声まで震えている。
何だよ、これ。誰だよ、これ。コスプレ会場にいたっけ、俺?
考えがまとまらないまま、ひとまず上体を起こした。起き上がってみて、少し驚いた。身体が軽い。妙に軽すぎる気がする。
「……なにこれ」
口から出たのは、それだけだった。
少女はびくっと肩を跳ねさせた。さらに勢いよく頭を下げる。
「本当に申し訳ありません……! 本当に、本当に、私の監督不行き届きで……!」
「え、そもそも、君は誰?」
その一言で、少女ははっとしたように顔を上げた。
やたら整った顔だった。目鼻立ちは綺麗で、紺碧の瞳には涙が溢れていた。年齢もかなり若く見える。姿勢の低さと顔面偏差値の高さが噛み合っていないせいで、余計に状況が意味不明になる。
「大変申し上げにくいのですが……」
少女はまた頭を下げた。
「あなた、死にました! ……私のミスで……」
数秒、固まった。
「……は?」
少女はそのまま動かない。
俺の脳内では、言葉が素直に処理されなかった。
死にました。
私のミスで。
いや、おかしいだろ。
「ちょっと待って」
「はい……!」
「何を言ってんのか分からない」
「はい……」
「てか、俺、死んでんの? だって今、生きているじゃん!?」
「いえ、残念ながら……」
少女はまた泣きそうになった。
俺は思わず、額を押さえた。落ち着け。落ち着けと言われて落ち着ける状況じゃないが、取り乱しても話が進まない。
「……お前、誰」
「わ、私は神です」
「は?」
「神界の、その……極東人界第三管理区、日本列島生命運行担当補佐神で……」
「長っ!」
「なのでもう、日本担当神でいいです……」
「雑だな」
「すみません……」
神。
神様。
どう見ても、白い空間で泣いている少女にしか見えない。
しかし、冗談にしては状況が妙だった。目覚めた場所の説明もつかない。夢にしては感覚が妙に鮮明だ。
「……で、日本担当の神様が、何したって?」
「死亡予定者の確認と、死神派遣の監督を誤りました」
少女が震える手を上げると、空中に薄い光の画面が現れた。
半透明の板みたいなものが、ふわりと浮かぶ。
そこには見たこともない書式の報告画面が並んでいた。やたら事務的だ。氏名、住所、時刻、処理状況。そんな項目が無機質に並び、その中の一箇所だけ、嫌に目立つ赤字があった。
『誤回収』
対象名:佐藤零(28歳)
「……待って」
「はい……」
「今の、俺の名前だよな」
「はい……」
「誤回収って何」
「本来、昨夜お迎えする予定だったのは、あなたではありませんでした」
「じゃあ誰だよ」
「あなたの隣室に住んでいる、五十二歳の男性です」
「隣の人ぉ?」
思わず変な声が出た。
「はい……睡眠中に大動脈解離を起こし、そのまま寿命を迎える予定でした……」
「……いや待て。ちょっと待て。隣の人が死ぬ予定だったなら、何で俺が死んでるんだよ」
神様は、目に見えて縮こまった。
「派遣した死神が……対象認識を誤りました……」
「そんなこと、あんの!?」
「済みません……!」
勢いよく返された。
そこだけ元気に言うな。
「どうやって間違えたんだよ」
「その……本来の対象者と、あなたは居住位置が近く……」
「雑すぎるだろ」
「それだけではなく……生存意欲の波形判定でも……」
「波形?」
「死神は、寿命の尽きかけた、魂特有の減衰を目印に接触するのですが……」
そこで神様は一度言い淀んだ。
言うかどうか迷っている顔だった。迷ったところで、結果なんて変わらないんだからさ。さっさと言ってくれよ。やがて神様は、小さな声で呟いた。
「あなたの方が、かなり生気が薄かったそうで……」
「……」
「……」
「それ、どういう事ぉ!?」
「あのっ、あのっ、つまり、あなたの生存意欲が、死亡予定者よりもかなり薄かったということで……」
というと、何か。俺は五十代のおっさんよりも、バイタリティーが低いってことか。
「ごっ……誤差で人を殺すなよぉ!」
「本当にその通りです……!」
最悪だ。
ただ巻き込まれたというだけでも腹が立つのに、神様判定で見ても自分の方が死にかけみたいな扱いをされていたということが、事実かどうか以前に、刺さる。普通に刺さる。
「……最悪」
「すみません……」
「いやもう、ほんと最悪なんだけど」
「はい……」
神様は泣きそうな顔のまま何度も頷いた。
俺は大きくため息をついて、しばらく考えた。
ここで怒鳴っても仕方がない。相手が神様だろうが何だろうが、現状や解決策を確認しないと話にならない。
「……で」
「は、はい」
「俺、戻れんの?」
神様の肩がぴたりと止まった。
数秒、沈黙。
その沈黙だけで、答えはだいたい分かった。
「……申し訳ありません」
「戻れないんだ……」
「肉体側の処理はもう完了してしまっていて……」
「処理って何だよ」
「その……生命活動停止の確定後は、魂と肉体の接続が……規定上……」
「要するに」
「蘇生は、できません……」
淡々と言われた。
俺は黙ったまま、白い空間を見た。
悲しいのか、怖いのか、自分でもよく分からない。現実感が薄すぎて、感情がうまく追いつかない。ただ、戻れない、という一点だけははっきりした。
戻れない。
じゃあ、この先どうなる。
思考はそこで止まらなかった。
泣き叫ぶより先に、損得勘定が働いた。
「……じゃあ、どうしてくれるんですか」
神様が、はっと顔を上げた。
待ってました、とまでは言わない。
けれど、どこかその問いを用意していたような顔だった。
「補償します……! できる限り、最大限に……!」
「ほ、ほう……最大限」
「本来なら、転生先で少し有利な能力を一つ二つ付ける程度なのですが……今回は史上稀に見るほどの、重大な過失ですので……」
空中に、また別の画面がいくつも開いた。
今度は報告書ではない。
項目の並び方が違う。どこか設定画面に近い。
異世界転生先選定。
肉体性能上限解放。
ステータス改変。
スキル全付与。
時間停止。
概念操作。
世界法則への干渉。
管理者代理権限。
俺は無言で一字一句、字面を追った。
最初は意味が分からなかったが、段々と理解した。
そして、分かってくるほどに、別の熱が胸の奥からじわじわ上がってきた。
「……これ、どこまでできるんですか」
「かなり……その……広範囲に……」
「広範囲って」
「理論上は、ほぼ何でも……」
「ほぼ何でも!?」
「……はい」
怒っていたはずだった。
隣人と間違えられて死んだ。ふざけるな、としか思っていなかった。
それは今も変わらない。変わらないのに、視線が画面から離れなかった。
ステータス改変。
スキル全付与。
管理者代理権限。
ゲームならチートどころの話じゃない。
最初から全部入りだ。しかも、ただ強くなるという程度ではない。世界そのものに触れられる側の権限にしか見えない。
そんなものを、こっちの過失なので渡します、と言われている。
断る理由あるか?
むしろ、ある方がおかしいな。おかしいよ、うん。
「もらいます」
「え」
「いや、だって」
俺は画面から目を離さないまま、興奮気味に言った。
「こんなの、断る理由なくないですか」
神様は一瞬だけ目を丸くした。
すぐに、ほっとしたような、でも少しだけ複雑そうな顔になる。
俺はその顔の意味までは読めなかった。
今の頭の中には、別の考えしかなかったからだ。
何でもできる。
ほぼ何でも。
それって、つまり。
今まで絶対に自分の手に入らなかったものが、全部手に入るってことじゃないのか。
「では、補償措置として、特例レベルの権限移譲を開始します……」
「特例レベル」
「普通は絶対にありません……」
「ますますいいな」
神様は、また少しだけためらった。
「……あの」
「何ですか」
「本当に、かなり広い範囲を渡しますので……その……」
「大丈夫ですよ」
俺はそこで、初めて少し笑った。
うまくいかないことを誤魔化すための笑いではなく、何かを手に入れる前の笑いだった。
「俺、そういうの、ちゃんと常識あるんで」
神様は、何か言いたげに口を開きかけた。
けれど結局、何も言わなかった。
「……そう、ですか」
白い空間が、急に明るくなる。
光が満ちる。
輪郭が溶ける。
視界のすべてが白に沈んでいく中で、俺は最後まで画面を見ていた。
これから何ができるのか。
何をやるのか。
そんなことばかり考えていた。
死んだ実感より先に、別の期待が膨らんでいく。
転生処理を開始します。
どこか事務的な声が、遠くでそう告げた。
俺は一つ、とっても大事なことに気づいた。
「いや、それより」
「は、はい」
「お前、来るの?」
「……え?」
「異世界に。俺と一緒に」
「その……零さんが権限を完全に習得できるようになるまで、同行します……」
「よっしゃ!」
「零さんが世界を壊しかけたら止めます……」
「……最初から信用ないな」
「はい。あっ……」
神様は、はっとしたように口元を押さえた。




