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名もなきエリーゼのために  作者: 秋月アムリ


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第10話

 季節が、巡った。

 王都を彩っていた春の華やかさはとうに過ぎ去り、初夏の湿った風が石畳を撫でている。

 かつて栄華を極めたヴァレンシア公爵家の屋敷は、今や抜け殻のように静まり返っていた。

 主を失い、家財を差し押さえられ、紋章の刻まれた門扉は鎖で固く閉ざされている。


 王都の街角では、人々が声を潜めて噂話を交わしていた。

 公爵家の没落。

 国王の怒りと、王太子の冷徹な決断。

 そして何より、その没落の引き金を引いたとされる二人の娘について。


「聞いたか? あの公爵家を滅ぼしたのは、隠されていた双子の娘たちだそうだ」

「ああ。不吉の象徴とされる双子を、十九年も隠し持っていたなんて」

「恐ろしい話だ。その呪いが公爵家を食い尽くしたに違いない」


 人々は口元を覆い、忌まわしげに、けれど好奇の熱を帯びた目で囁き合う。

 真実はどうあれ、大衆が好むのは分かりやすい物語だ。

 十九年間の虐待と搾取という陰惨な事実よりも、「不吉な双子が家を祟り殺した」という怪談のほうが、彼らの娯楽としては上等だったのだ。


 そんな無責任な喧騒を遠くに聞きながら、王宮の裏門――あの日、アルテが潜入した場所とは反対側の、罪人や追放者が通る静かな門の前に、一台の質素な馬車が停まっていた。


 重い扉が開く。

 出てきたのは、二人の少女だった。

 豪奢なドレスではない。旅路に耐えうる厚手の生地で仕立てられた、紺色のワンピース。装飾品は一切なく、ただその銀色の髪だけが、曇り空の下でも冷ややかな輝きを放っていた。


 アルテと、エリーゼ。

 かつて公爵令嬢とその影だった二人は、今はただの双子の姉妹として並んで歩いていた。


「……誰も、寄ってこないわね」


 エリーゼが小さく呟き、周囲を見渡した。

 門の遠巻きには、野次馬たちが集まっている。けれど、誰一人として石を投げることも、罵声を浴びせることもしない。

 ただ、遠くから怯えたような目で見つめているだけだ。


 まるで、触れれば呪われる疫病神を見るかのように。


「ええ。都合がいいわ」


 アルテは顎を少し上げ、毅然と前を見据えた。


「これからを考えたら、可哀想な被害者として同情されるよりも、恐れられているほうがずっと生きやすいわ」


 アルテの言葉に、エリーゼは少しだけ寂しげに、けれど納得したように頷いた。

 この数ヶ月の取り調べと、処分が決まるまでの軟禁生活。

 その間も、二人は常に一緒だった。

 家令の証言とアルテが提出した証拠により、二人に罪はないと認められた。だが、王太子との婚約を白紙に戻し、国中を騒がせた「不吉な存在」を、王都に留めておくわけにはいかなかった。


 結果として下されたのは、辺境への追放に近い措置だった。

 遠縁にあたる、北の国境近くに領地を持つ老伯爵が、身元引受人として名乗りを上げてくれたのだ。

 かつて祖父に恩義があったというその老伯爵は、手紙の中でただ一言、『静かな余生を送るには良い土地だ』と記していた。


「行きましょう、エリーゼ」

「……うん」


 御者が無言で扉を開ける。

 アルテが先に乗り込み、手を差し伸べる。エリーゼがその手を握り返す。

 華奢な指先同士が触れ合い、体温が伝わる。

 ただそれだけのことが、今の二人には何よりも確かな命綱だった。


 馬車が動き出す。

 ガタゴトと車輪が回り、王都の景色がゆっくりと後ろへ流れていく。

 見慣れた街並み。

 煌びやかな商店街、聳え立つ王城の尖塔、そして遠くに見えるヴァレンシア公爵家の屋根。


 エリーゼが窓枠に手をかけ、食い入るようにそれらを見つめていた。

 その瞳が潤んでいるのを見て、アルテは声をかけた。


「未練がある?」

「ううん」


 エリーゼは首を振った。


「ただ……不思議なの。十九年間、あんなに憧れていた世界が、今はただの絵画みたいに思える。あそこで笑っている人たちも、着飾っている人たちも、みんな私たちとは違う世界の住人だったんだなって」

「そうね。私たちは、舞台から降りたのよ」


 アルテは背もたれに深く身体を預けた。

 肩の力が抜けていく。

 常に完璧であることを強いられ、背筋を伸ばし続けてきた十九年間の緊張が、ようやく解けようとしていた。


 公爵夫妻――父と母は、爵位を剥奪され、全財産を没収された上で、王都の地下牢に収監された。

 皮肉な話だ。

 かつて娘を閉じ込めていた暗闇に、今度は自分たちが永遠に閉じ込められることになったのだから。


 彼らがこれから味わう絶望がどのような味か、アルテは誰よりもよく知っている。

 けれど、もう彼らに対して激情は湧かなかった。

 復讐は終わった。

 彼らはもう、憎むべき敵ですらない。ただの過去の残骸だ。


「ねえ、お姉様」


 不意に、エリーゼが視線を戻した。


「王太子殿下……アレクシス様のこと、心残りはある?」


 その問いに、アルテは一瞬だけ目を細めた。

 夜会の去り際、あの男が耳元で囁いた言葉。

 あの声音に含まれていたのは、愛でも恋でもなく、有能な道具を惜しむ所有者の響きだった。


「いいえ。思い出す価値もないわ」


 アルテは冷淡に切り捨てた。


「あの男は、公爵家を切り捨てることで自分の名声を守った。私たちを被害者として認定したのも、その方が自分の慈悲深さを演出できるからよ。……どこまでも合理的で、つまらない男」

「ふふ、お姉様ったら手厳しい」


 エリーゼが小さく笑った。


「でも、私ね、少しだけ感謝しているの」

「感謝?」

「うん。殿下が冷たい人だったおかげで、私は夢から覚めることができた。もし彼が少しでも優しかったら、私、まだお父様たちの人形のままでいたいと願ってしまったかもしれないから」


 エリーゼの言葉に、強さが宿っている。

 何も知らず、ただ守られていただけの妹は、もういない。

 彼女もまた、この修羅場を潜り抜け、自分の足で立つことを選んだ共犯者なのだ。


 馬車は王都の門をくぐり抜けた。

 石畳の道が終わり、乾いた土の道へと変わる。


 車輪の音が変わり、振動が少し大きくなる。

 窓の外には、見渡す限りの草原と、遠く霞む山脈が広がっていた。


 それは、二人が初めて目にする外の世界だった。

 壁も、天井も、監視の目もない。

 ただ広大で、どこまでも続く自由な空間。


「これから、どうなるのかしら」


 エリーゼがぽつりと零す。

 その声には、未知への不安と、隠しきれない期待が入り混じっていた。


「北の伯爵家に行けば、衣食住は保証されるわ。でも、贅沢はできないでしょうね。ドレスも、宝石も、夜会もない。もしかしたら、畑を耕したり、家畜の世話をすることになるかもしれない」

「私、やってみたい」


 エリーゼが即答した。


「土に触れて、自分の手で何かを育てるの。誰かの代わりじゃなくて、私が育てた花や野菜。……素敵だと思わない?」

「ええ。そうね」

「それに、もう誰も私たちを公爵令嬢だなんて呼ばない。間違えても叱られない。好きな時に笑って、好きな時に泣けるのよね」


 そう。

 それこそが、二人が手に入れたものだ。


 地位も名誉も失った。

 公爵家という後ろ盾もなくなり、世間からは「家を潰した不吉な双子」と指差される。


 まともな縁談など二度と来ないだろう。

 社交界の華やかな光には、一生縁がないだろう。


 けれど、それは同時に自由でもあった。

 家のために政略結婚を強いられることもない。

 跡継ぎを産むための母体として扱われることもない。

 誰かの理想を演じる必要もない。


 誰からも期待されず、誰からも愛されないかわりに、誰にも支配されない。

 それは、とても静かで、冷たくて、そして心地よい自由だった。


「私たちは、もう誰の代わりでもない」


 アルテは、隣に座るエリーゼの手をもう一度強く握りしめた。


「私はアルテ。あなたはエリーゼ。ただの、私たち」


 エリーゼが、アルテの方を向く。

 その瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。


 それは悲しみの涙ではない。

 長い、長い冬が終わり、雪解け水が流れるような雫だった。


「うん……私、この名前が好き。お姉様が守ってくれた名前だもの……お姉様の名前を奪ってしまったみたいで、それだけが引っかかるのだけど」

「いいのよ。私も、未練はないわ。それに」

「それに?」

アルテって(この)名前も、案外気に入ってるのよ」


 エリーゼはアルテの肩に頭を預けた。

 温かい重み。

 アルテは妹の銀髪を、愛おしげに撫でた。


(私は勝った)


 揺れる馬車のリズムに身を任せながら、アルテは心の中で独りごちた。

 公爵家を潰した。両親を断罪した。妹を救い出した。

 目的はすべて達成された。

 完全な勝利だ。


 ……それでも。


(十九年間は、戻ってこない)


 胸の奥に、消えない空洞がある。

 青春のすべてを費やして磨き上げた技術、教養、身のこなし。それらは北の辺境では何の役にも立たないだろう。

 王太子妃になるために捧げた情熱も、努力も、すべては虚空へ消えた。


 私が「アルテ」として自我を持って生きた時間は、この数ヶ月だけ。

 それ以前の時間は、名前のない代用品として消費された、死んだ時間だ。


 その喪失感は、きっと一生消えない。

 ふとした瞬間に、もし普通に生まれていたら、もし両親に愛されていたら、という仮定の夢を見るかもしれない。

 傷跡は残る。

 地下牢の身体の傷はいずれ癒える。でも、心に刻まれた傷は、きっと消えない。


(それでも、いい)


 アルテは視線を下げ、穏やかな寝息を立て始めたエリーゼを見た。

 この寝顔を守れたなら。

 自分の半身が、こうして安心して眠れる場所を作れたなら。

 それで十分だ。


 私たちが背負った「不吉な双子」という汚名は、私たちを守る鎧になる。

 人々は恐れ、遠ざかり、関わろうとしないだろう。

 それでいい。

 孤独は、干渉されないという特権だ。


 これからは二人きり。

 世界の片隅で、誰にも知られず、誰にも脅かされず。

 ひっそりと、しぶとく、根を張って生きていく。


 馬車は進む。

 王都はもう、遥か後方へ遠ざかり、蜃気楼のように霞んで見えなくなっていた。

 前方に広がるのは、荒涼とした大地と、どこまでも続く一本道。


 輝かしい未来なんて約束されていない。

 祝福の鐘も鳴らない。

 けれど、この道は確かに、自分たちの足で選んだ道だった。


 アルテは小さく息を吐き、窓の外へ視線を投げた。

 空には、一羽の鳥が風に乗って北へと飛んでいくのが見えた。


 名もなき鳥。

 けれど、その翼は誰のものよりも自由に見えた。


「行きましょう、エリーゼ」


 眠る妹に、もう一度囁く。

 それは勝利宣言でもあり、新しい人生への静かな宣誓でもあった。


 名前を奪われた少女たちの物語は、ここで終わる。

 そして、アルテとエリーゼという、二人の人間の人生が、今ここから始まるのだ。


 馬車の車輪が、乾いた音を立てて回り続ける。

 誰も知らない地平の先へ。

 二人だけの、静寂な楽園へと向かって。



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