第74話 瞳の奥で
「私が幼い頃、このカナンラダに人間はいませんでした」
失われた日々を語る大長老。
その瞼の裏には、ルゥナ達が望む理想郷があるのか。
人間のいない世界が。
「伝承には聞いても人間など見たことがない。清廊族より短い寿命の種族だと知っていただけで」
短命であるために短慮な生き物だと、そう思われていた。
それらが清廊族を脅かすなどと誰も考えず。
「……私の祝言の前夜のことです」
声が沈む。
本来ならそれは喜び迎えられるはずの日。
「あの男が……ダァバが、当時の氷巫女だった私の祖母を殺したのは」
「……」
「同族殺しなどずっとありませんでした。祖母も、私への祝いのことで気が緩んでいたのでしょう」
氷巫女だったというのなら、簡単に殺されたりするはずがない。
同族を殺すような蛮行を予想もしなかった。
孫の晴れの日に気が浮かれていた。
そこで凶行に及んだ裏切り者ダァバ。
「……清廊族の歴史でも稀有な、氷乙女と同等の力を持つ男でした」
「氷乙女と……」
繰り返したルゥナに、パニケヤが小さく頷く。
「その力が、ダァバを狂わせたのでしょう。全てが己の思い通りになると」
我欲に走り、大長老を殺した。
「あの卑劣な裏切り者は祖母を殺し、真なる清廊の魔法を消し去りました。本来の真なる清廊の魔法は、この大陸全てを守っていたのです」
「ソーシャもそのようなことを。ニアミカルムの三角鬼馬です」
「伝説の魔物ですね。知っていても不思議はありません」
千年を生きる魔物であれば、人間がこの大地に来る前のことも知っている。
ソーシャはパニケヤ以上に長く生きていたのだから。
清廊の魔法の守りがあって、清廊族はずっと平穏に暮らすことが出来ていた。
長い時間の中で、外の世界に存在する人間の存在など忘れていたかもしれない。
「ダァバは祖母と我が夫を殺しましたが、無事ではありませんでした。深手を負いつつ追手から逃れ、ついにその足取りは掴めませんでした」
パニケヤの手には、クジャを襲った人間と魔物の混じりものが残した赤い欠片がある。
「我が母たちは、真なる清廊の魔法を再現しようと苦慮していましたが、残念ながら」
出来たのはニアミカルムの一部だけ。
裏切り者ダァバによりカナンラダの守りは失われ、その後人間が姿を現した。
そうして今に至る。
「とうに死んだものと思っていましたが」
手の中の赤い欠片を見て確信した。
「これは加工も活用も出来ない怨魔石と呼ばれる希少な魔石を、ある手法を用いて加工したものです」
苦々しく言いながら、瞳の奥にはやりきれない懐かしさも窺える。
遥か昔に同じような物を見ているのだろう。
「この怨魔石の加工方法を見出したのもダァバです。まさか人間との混じりものを作るとは……」
「何者なのじゃ、そのダァバとやらは」
メメトハが漏らしたのは疑問ではない。
強大な力を持つと同時に新たな技術を生み出す、その才覚に対しての……口惜しさか。
なぜそれだけの才能がありながら清廊族を裏切ったのか。
「メメトハ……」
パニケヤは、メメトハの言葉を質問と受け止めたようだ。
名を呼び、唇をわずかに震わせ、目を閉じた。
「婆様?」
言葉を途切れさせたパニケヤにメメトハが呼びかける。
「……ダァバは、我が夫の弟でした。今までにない新たな技術を生み出す異色の魔法使いだと」
パニケヤの夫の弟。
だとすれば、メメトハとも血縁があるということになる。
だから言いにくかった。
「当時は誰もがダァバを賞賛していました。元服前にニアミカルム深くまで潜り、姉神の遺産を見つけて来たことに始まり」
カチナが後を受けるように続ける。
義理の弟に裏切られ、肉親や夫を殺されたパニケヤには特につらい過去だろうと。
「氷巫女を殺し、祝言前の兄を殺して真なる清廊の魔法を消して逃げるなど、誰も想像もしなかったでしょう」
「なぜダァバはそのようなことを?」
「それは……わかりません。あやつの考えなど」
返答の隙間、刹那の時だったが、パニケヤに目を向けたカチナには迷いがあった。
その表情に憐憫が見えたのは、ルゥナの気のせいだったのか。
本当に何もわからないのか、言いたくないことなのかもしれない。
「……そうですか。怨魔石のことですが」
質問を変えて、先ほどの話でわからないことを聞く。
「私の育ったイザットでは、祈り所に納めて十数年置くのだと。活用できぬので、そうして自然に還すと聞いていました」
加工も何も出来ない魔石が稀にある。
それは深く恨みを残した魔物の魔石だということで、祈り所に置いて自然に還すのだと。
「忌まわしい裏切り者の術でしたから、禁じたのです。それに」
今度は淀みなく答えて、カチナもまたその赤い欠片を瞳に映す。
「危険な力です。貴女達も知ったでしょう」
禁じられ、秘術とされていた怨魔石を使った道具。
それを手にした人間がクジャを襲い、今再び真なる清廊の魔法が失われた。
遥か昔にあった事実と合わせて、その時の裏切り者が関わっていると長老たちは判断したのだと言う。
ルゥナ達にも聞かせたのは、これまでにそれに該当する男を見ていないのかと聞きたかったのかもしれない。
清廊族の裏切り者ダァバ。
生きているのなら、長老たちと変わらぬ年齢になるはずだ。
特殊な力を持って生まれた為か、白銀の髪色をしていたと。瞳は清廊族らしく血のような赤だと言うが。
それらしい者は記憶にない。
年齢も重ねて白髪に見えたとしても不思議はない。そもそも見た目は変えている可能性も高い。
人間の中で生きているのだとしたら。
「そやつさえいなければ、誰も……清廊族は誰も苦しまなかったのじゃな」
「……そうかも、しれません」
絞り出すように呻くメメトハに対して、パニケヤの返事は歯切れが悪い。
仮にダァバがいなかったとしても、他の要因で人間の襲来はあったのかもしれない。
今この時でなくとも、いつかは。
「妾が、そやつを討つ」
「……」
「必ずやその裏切り者に、血の報いを受けさせようぞ」
そう宣言するメメトハに、パニケヤの表情は暗い。
自ら命じたこととはいえ、孫娘に同族殺しをさせることを憂いて。
※ ※ ※
「向かうのは次の春です」
気持ちの逸るメメトハを窘めるようにカチナが時期を告げた。
「貴女達も」
「なぜ?」
それまで黙っていたアヴィだが、半年以上も待たされると聞いて口を開く。
悠長なことを言っていられるのか、と。
「弱すぎるからです」
取り繕うことがない言葉。
「……」
「貴女達は自らの力を使いきれていない。力任せで勝てるほど甘いものではありません」
戦闘技術の稚拙さ。
アヴィにしろルゥナにしても、力は増していても技を磨く機会はなかった。
基本的に我流で、見様見真似で戦ってきた。
「私が指導しましょう。メメトハ、貴女もです」
「う、や……その、大叔母よ……」
「貴女もです」
嫌そうな顔をするメメトハを見ればわかる。
厳しいのだろう。カチナの指導は。
「カチナの言う通りですが、それだけではありませんよ」
少し空気を和らげるように、パニケヤの声音は優しい。
「クジャはひどく荒れてしまいました。この復旧も手伝っていただきたいのです」
魔物の襲撃で町はひどく荒れた。
町の外の田畑も、戦いでかなりの損害を受けている。
このままでは、厳しいカナンラダ北部の冬を越えることが出来ないかもしれない。
戦いの準備と、クジャの復旧を兼ねての時間。
そう考えれば半年などあっという間かもしれない。だけど。
「西部は大丈夫?」
ルゥナの不安をアヴィが言葉にしてくれた。
ここで時を過ごせば、それだけ西部が厳しくなるのではないかと。
「数十年、持ちこたえた西部です。ここで急に崩れるとも思いませんが……いくらか応援は出しましょう」
「湿地と沼地。溜腑峠に挟まれたサジュは天嶮の要塞です。そこにオルガーラとティアッテがいますから」
地形的に数で攻め立てることに向かない場所で、氷乙女が並び立つ湖の町サジュ。
数十年の守りが、この時に落とされるというのも心配しすぎか。
(応援を出すというのなら……)
少し考えて、頷く。
「アヴィ……長老の言葉に従いましょう。私たちはともかく、ミアデたちにはもっと技術が必要です」
「……」
「人間も、まだ他にニアミカルムを越えてくるかもしれません。今、クジャを空けるのも不安です」
戦い続けてここまできた。
何とか生き抜いてきたものの、それは極限の状況で、運もあったと思う。
もし十分な力があれば、あの呪術師にアヴィの力を奪われることも、ソーシャを死なせることもなかったかもしれない。
ここで一度、自らの力を研ぎ澄ます時間は決して無駄ではない。
「ネネラン達も、急に力を得て振り回されているところもあります。どこかで指導が必要だと」
「……それは、人間を滅ぼす為?」
真っ直ぐにルゥナを見るアヴィの瞳は――
今まで、気づかなかった。
考えたこともなかった。
ルゥナを見つめて訊ねるアヴィの瞳に、ルゥナが映っている気がしない。
いつからだったのか。
最初からだったのだろうか。
アヴィの瞳は、どこか遠くの一点だけしか見ていないようで。
「――っ」
怖くて、息を飲んだ。
ウヤルカの集落で同じような質問をされた時に、ルゥナは嘘をついた。
あの時もアヴィは同じ目をしていたのだろうか。
もしそうだとして、それに気が付いていたら、とてもあんな嘘は言えない。
「……そうです、アヴィ」
もう一度名前を呼ぶ。
呼びかけて、その瞳を戻そうと。
「全ての人間を殺すためには、私たちはもっと学ばなければ出来ません」
「……わかったわ」
目を閉じて、再び開かれた瞳にルゥナが映る。
「ルゥナがそう言うなら、そうする」
いつものように。
ルゥナは特別だ。
特別なはずだ。
アヴィはそう言った。ルゥナは特別だと。
つまらぬ物のように扱われるなど、そんなはずはない。
「アヴィ……」
最初に、ミアデとセサーカを仲間にした時に考えた。
――私も、その子たちと同じなのですか?
そんな不満に対してアヴィは、ルゥナは特別だと言ってくれたのに。
なのに今は、同じ質問をするのが怖い。
状況が変わって、時が経って、変わってしまったのではないか。
アヴィとルゥナだけだった時とは違う。
あの時には確かにルゥナは特別な存在だったかもしれないが、今は他にいくらでも代わりが。
(惰性で、私を……)
哀れんで、捨てずにいてくれるだけなのでは。
そんなことを考えてしまい、ただそんな余計なことを考えられるのも、今がとりあえず安全だからだ。
戦いの渦中でなら、そんなことを考える余裕もなかった。
しばらくクジャで過ごすというのなら、こんなことで思い悩む時間も増えるのかもしれない。
考える時間がなかった方が良かったと思うこともあり得る。
人間に勝利し、この大地から戦禍を消し去る。
その目的の為になら、ルゥナは命を捨ててもいいと思っていた。
今でもそれは変わらない。
けれど、どうしても。
アヴィの瞳が自分を映してくれないことに、言いようのない苦しさを覚える。
――私は、貴女のなんですか?
言葉にしたら、下らないことだと一蹴されてしまうような、つまらない色恋話。
大きな目的とはまるで違う、私的で小さな想いが、同じくらいの重さでルゥナの心を捕える。
枷のように、重く。
※ ※ ※