第64話 傷つき、傷つけて
山が、唸りを上げた。
木々が揺れ、鳥たちが我先にと争うように飛び去り、地響きがクジャの壁を震わせた。
町の外で農作業をしていた住民が、口々に不安を叫びながら町へと逃げ込む。
平穏な時は破れ、恐怖と狂乱がクジャの町に溢れた。
メメトハが気が付いたのとほぼ同時に、ニアミカルムの異変については長老の耳にも届く。
真なる清廊の魔法が途絶えた。
ニアミカルムの山頂付近には、常に上昇気流と雷雲が渦巻いている。
冷たい氷雪と共に、それは生き物の行き来を阻害する結界の役割を持っていた。
自然に発生しているものではない。
氷巫女と呼ばれる清廊族の選ばれし者が、真白き清廊でそれを維持していたのだ。
氷巫女パニケヤ。
メメトハの祖母になる。
年に二度ほど、他の長老がその役割を代行するが、力の不足から完全に維持することが出来ない。
途切れぬように代行している間は、雷雲が弱まり晴れ間が覗くこともあった。
だが、今はそうではない。
パニケヤに何かがあったのだとすれば、傍仕えの誰かが連絡にくるはずだが。
三日間。
山から押し寄せた魔物がクジャを襲った。
クジャを、というわけではない。
堰を切ったように山から魔物が溢れ出し、その通り道にクジャがあっただけのこと。
美しかった外壁は所々崩れ、また魔物の体液や臓腑、あるいは清廊族のそれらで赤黒く汚れていた。
被害は建物だけではない。清廊族の死者も、少なくはない。
「アヴィ、交代です」
「まだ平気」
アヴィの剣は根元から折れていた。
それも、もう何本目なのか。
戦い続けた。
朝も、昼も、夜も。
押し寄せる魔物を殺し続け、襲われる清廊族を助け続けて。
ぐちゃぐちゃで、泥塗れだ。
泥は、途中で雨が降ったからか。
水を飲む暇もまともになかったから、その雨で喉を潤した。
「エシュメノが戻りました。ネネランたちもいますから任せましょう。夜にはまた増えるかもしれません」
「……わかった」
柄だけになっていた剣を捨て、町の中に戻る。
魔物の屍の山が、夏の熱気で死臭を放つ。
既に慣れてしまった。
ニアミカルムの山から下ってきた魔物は、最初はそこまで多くはなかった。
時間が経つ事にその数を増やし、また見たことのないような種類の魔物も姿を現すようになる。
二日目、三日目と。
鼓動のように、その勢いを増したり弱めたりして、今はようやく大きな波を越えたところだ。
満足に休息を取れていない。
負傷して下がらせたエシュメノが手当を終えて戻った。今ならアヴィを休ませることが出来るだろう。
ルゥナも、限界が近い。
クジャの町の中は、血肉の臭いは絶えないものの、ひどい損壊は見えない。
空を飛ぶような種類の魔物を優先的に魔法や弓で倒して、町の入り口はアヴィを中心に守り抜いた。
メメトハとその従者たちも戦っていたし、長老たちも共に武器を取っていた。
「ルゥナ様、お怪我は?」
紡紗廟の横の広場は、緊急の野営地のようになっている。
炊き出しの粥を食べているルゥナ達を見つけて、トワが駆けてきた。
「私は平気です。アヴィの手を」
「はい」
刃を失くした剣柄で、魔物を殴り殺していた。
そのせいでアヴィの手の甲にいくらか傷が残っている。
「……」
右手をトワに癒されながら、左手に持った椀の粥を啜るアヴィ。
美しいアヴィの黒髪が、魔物の返り血などで乱れてしまっていた。
頬や額にも、黒ずんだ煤のような汚れが付着している。
「少し、休みましょう」
「……うん」
案外と素直に頷くアヴィの紅い瞳に、ルゥナの顔が映っていた。
自分も、アヴィと似たようなものか。
素直に頷いたのは、ルゥナに休息が必要だと思ったからなのだろう。
アヴィが休まないのなら、ルゥナも休まない。
お互いの瞳に映る姿に、どちらも同じことを思っただけ。
「ルゥナ様も、お怪我をされています」
見つめ合っていたら、トワが間に挟まった。
するりと、ルゥナの耳の下の辺りに顔を差し込み、舌を這わせる。
「ん、トワ……」
くすぐったい。
本当に傷などあったのか疑わしいけれど。
「……これで大丈夫、です」
微笑を浮かべるトワの肌は、いつも通り綺麗だった。
いつも以上に、艶を増しているようにさえ見える。
「……」
アヴィの視線が、いつも以上に冷たい。気がする。
「トワ、離れて……下さい」
「嫌です、ルゥナ様」
もう一度、甘えるように。
こんな時に何を考えているのか。
「……」
抱擁を交わしてから、トワが離れた。
「これで大丈夫、です」
充足したというように弾む声音のトワをどうしたらいいのか。
「私も頑張ってきます、ね」
「……気を付けて」
交代で休憩を取りながら、クジャを守り戦っている。トワとて疲れているだろうに。
ウヤルカとネネランは、それぞれラッケルタとユキリンに跨り期待以上の働きをしてくれていた。
目立つ彼女らの活躍が皆の支えになっているのは間違いない。
山の魔物とて無限にいるわけではない。
もう数日も耐えれば、ある程度の平静を取り戻せるのではないだろうか。
「……仲、良くなった」
炊き出しの粥を食べて、壁を背に座り込んでしばらくしたところで、アヴィがぽつりと漏らす。
「トワのこと、ですか?」
「……」
聞き返してみるが、アヴィは答えなかった。
否定しないのだから、そうなのだろう。
「……アヴィが嫌なら、やめさせます」
どうやって、か。
考えていない。
おそらくアヴィは、そうは言わないだろうと思って。
「別に……」
そう言うだろうと。
「あの子も頑張っていますから」
「知ってる」
話は終わりだというように、アヴィが目を閉じた。
ちゃんと話をしたい。
アヴィに隠し事をしたくない。
そう思うのに、どうにもタイミングが悪い。
「……」
これが片付いたら。
今までもそんな風に後に引きのばして、話す時期を逸している。
逃げていると言えなくもないけれど、今はそんな話をしている場合でもない。
アヴィとルゥナだけで一時の休息。
戦っている最中は無視できた疲れが一気に押し寄せてきて、眠ってしまった。
それほど長い時間ではなくても、睡眠はルゥナとアヴィの体力を多少は回復させてくれる。
周囲の喧騒も忘れて――
「リィラ!」
大きな声に目が覚めた。
※ ※ ※
「リィラ!」
呼びかけたのは他の清廊族の戦士。
ルゥナの目が覚めたのは、その大声が警告のように響いたからだ。
他の誰かではなく、ルゥナたちに向けて。
「……何か、ありましたか?」
目を覚ましたルゥナ達の目の前に立つ女。
メメトハの従者のうちの片割れ。
赤く腫れた瞼を見れば、何があったのかは察せられる。
「レニャが死んだ」
「……」
「お前たちのせいで、レニャが」
「やめるんだ、リィラ!」
一昨日の最初の大波で、彼女らは負傷していた。
メメトハの従者として共に戦う姿はかなりのものだったが、手に負えないほどの魔物の群れに手傷を負った。
ルゥナ達の支援が遅かったのには理由がある。
主であるメメトハがルゥナ達を嫌い、離れていたから。
孤立したメメトハ達に退路を作ったのはルゥナ達だったのだが。
「……彼女の方が、傷は浅かったと思いましたが」
誰がどんな傷を負ったのかなど、この三日間で覚えきれない。
ただ、今ルゥナを責めるこのリィラの方が重傷で、死んだレニャという女の方が軽傷だったような記憶がある。
治癒しようかと申し出たアヴィを拒絶したのは、このリィラだったはず。
アヴィの手など借りない。治癒ならレニャが出来ると。
「私を治癒した後、高熱を出して……お前たちのせいで」
「リィラ! いい加減にしろ!」
清廊族の男が、ルゥナを睨みつけて恨み言をぶつけるリィラを叱責するが、その瞳の怒りは消えない。
「……傷口から毒が入った」
襲い来る中には見たこともない魔物の姿もあった。
病毒と言われるようなものを持つ魔物がいたとしても不思議はない。
「体力を失い、毒に抗えなかったのよ」
「空々しいことを……お前たちがあの魔物を呼んだのでしょう!」
淡々としたアヴィに、リィラの語気がさらに強まる。
「リィラ、そんな馬鹿なことを……」
「こいつらが来た途端に魔物が押し寄せた。このクジャに魔物の群れなんて今までなかったのに!」
大声で喚くリィラに、他の者たちも何の騒ぎかと関心を向けてくる。
「そうだわ。こいつらが魔物を……真白き清廊に何かしたに決まっている」
「何をしたと言うのですか? いい加減なことを……」
ルゥナも立ち上がり、身勝手な言い分を捲し立てるリィラと睨み合った。
的外れで、不愉快極まりない。
「大体、私たちは真白き清廊の場所すら知らないのに、何を」
「そんなのわからないわ! 実際、お前たちを追うように魔物が襲ってきたのよ」
「なら、私たちが貴女達を守って戦う理由はなんですか。見ていないとは言わせません」
傷ついているのは彼女らだけではない。
アヴィだってルゥナだって、仲間たちだって、傷つきながら必死で戦っている。
近しい友を失くしたことには同情するが、それとてルゥナ達は守ろうとしたのだ。
こんな言いがかりで文句を言われる筋合いはない。
「……それよ」
リィラが、ルゥナの首を指差す。
首の、傷痕を。
「お前は、人間の奴隷だった」
「……」
「人間の手先になって、このクジャを落とそうと……」
ざわり、と。
聞いていた者が色めき立つ。
事情を知っていた者もいるだろうし、知らなかった者もいるだろう。
だが、人間と接触したルゥナ達が今この場にいるという事実に、空気が澱む。
「馬鹿なのね」
アヴィが進み出た。
「それなら、守って戦う理由がないわ」
ここにいる皆は見ている。ルゥナ達が前線に立ってクジャを守ろうと戦っているのを。
リィラが何を言おうが、多くの者がルゥナ達の戦いに助けられているのも事実だ。
見てきた事実と、人間の元奴隷という忌まわしい印象が、戸惑いを産む。
疲労が蓄積した上に住み慣れた町の惨状。
それらは、戸惑いを悪い方向に誘導し、猜疑心を植え付けた。
「……嫉み、だわ」
リィラが答えを見つけたように呟く。
呟いてから、確信を得たように声を上げた。
「自分たちが不幸だったからって、平和を守っている私たちを……クジャに嫉妬した! 幸せな皆にも不幸を味合わせてやろうって!」
よくもまあ。
言うに事欠いて、よくもまあそんな卑劣なことを思いつく。
愚にもつかないことを、真実であるかのように喧伝して、悪意を煽る。
まさか、とか、そういえば、とか、やはり、だとか。
(こんなものを守る為に、私たちは……)
拳を握り締めた。
この女の口を、二度とこんな愚かなことを口にできないように、言葉だけではなく息を吐くことさえ許せない。
殺す。
大切な仲間の努力を、卑俗で愚劣な言葉で汚したこの女を、殺す。
ルゥナの瞳が次に開かれた時が最後だ。
「ルゥナ」
アヴィが、ルゥナの肩を抱いた。
「……アヴィ、止めないで下さい」
「駄目よ、ルゥナ」
何が駄目だというのか。
この女は今、貴女の気持ちを踏み躙り、その献身に唾を吐いた。
絶対に許さない。
絶対に。絶対に。
「この女を殺したら、貴女が後悔するから」
「だけど――っ!」
「ルゥナ」
ぎゅっと抱き寄せられ、首に口づけを。
今ほどリィラが指さした傷痕に、優しい接吻を残す。
「……わからない者には、わからない。でも、貴女が本当に望むことはわかる。つもり」
それは、ここでこの女を殺すことではない。
だとしても。
「……アヴィ」
「やるなら、私がやるから」
ぎら、と。
鋭さを増したアヴィの目が、リィラに突き刺さった。
二歩、三歩。
リィラが後ろに歩を進める。
後ずさる。
「な、にを……下賤な痴れ者が……」
言葉だけは、前に出ようとするが。
「……」
足が震えている。
膝が笑い、腰が引けて。
それを見たら、ルゥナの心を焦がした感情が、すうっと冷めていく。
殺す価値などない。
仲間を失い、その責任を誰かに求めようとしただけの愚か者だ。
アヴィの一睨みだけで、その弱さが明らかになる。
「……レニャは、負傷と疲労困憊の中でお前を治癒した。だから死んだのです」
「な……」
「お前がアヴィの治癒を受けていればレニャは死ななかった。レニャを死なせたのはお前です」
事実を突きつけた。
殴ることは、殺すことはやめても、リィラの発言は許せない。
だから仕返しとして、彼女が目を逸らそうとしている現実を突きつけた。
「自分の愚かさを、私たちのせいにしないで下さい」
「……」
がちがちと、歯が当たる音がやけに大きく響く。
唇をわななかせて、ぶつけられたルゥナの言葉を理解したくないというかのように首を小刻みに振る。
「……」
大粒の涙が、両方の瞳から零れ落ちるのを見て、目を伏せる。
言ってから、後悔した。
ひどくリィラを傷つけた。
意趣返しとして言ったのだから、それが目的だったけれど。
だけど、リィラを傷つけた言葉は、ルゥナの心も傷つける。
人間の手先だとか、クジャの人々を羨み魔物をけしかけただとか。
ひどい言われようだった。
侮辱され、傷ついたのはルゥナも同じなのに。
なのに、仕返しに使った言葉は事実なのに。
だのに、なのに。
気が晴れるどころか、ひどくルゥナの心を苛み、傷を抉る。
「……」
口に出した言葉は戻らない。
後悔した。
ああ、だから。
だからアヴィは止めたのだ。ルゥナが後悔するだろうと。
この女の心無い言葉にやり返したら、ルゥナが後悔するだろうと。
「……ごめんなさい」
ルゥナの謝罪の言葉は、アヴィの耳にだけにしか届かぬほどにか細い。
わかっていなかった。
アヴィは最初からルゥナを守ろうとしてくれているのだと、わかっていなかった。
これ以上ルゥナが傷つかぬようにと、その心遣いがわからなかった。
この場で最も愚かなのは。アヴィの優しさをふいにしたルゥナに違いない。
――だってリィラが私たちを侮辱したんだから。だから言い返したの。
子供の言い分だ。
情けなくて、悔しくて。
泣きたい気分のルゥナだとしても、戦いは待ってくれない。
「山から地響きが――!」
南門から、続く危難を告げる声が響く。
「大長老です! パニケヤ様の御姿があったと!」
クジャを襲う事態が、ルゥナの心情に斟酌してくれるはずもなかった。
「パニケヤ様の救援に――」
「逃げて‼」
アヴィの声が、広場に響いた。
近くにいたリィラを蹴り飛ばして跳ぶアヴィと、別の清廊族を引っぱりながら跳ぶルゥナ。
重い音は、体の奥まで響く。
広場の地面に、焦げ茶色の塊が落ちてきて、大地を割った。
その音の響きに、頭の芯まで揺らされる。
くらっとするような振動だが、戦いの中だ。
すぐに切り替えて、その落ちて来たものを確認した。
「……ロックモール?」
洞窟などに住む、穴を掘って暮らす魔物。
その毛皮は刃を通しにくく、地面を掘る爪は半端な金属よりも硬い。そして強靭な筋力を持つ魔物。
だが、おかしい。
大きさが、大きすぎる。普通の倍はある。ルゥナの身長の三倍ほどの大きさ。
空から落ちてきたが、ロックモールは洞窟の魔物だ。空を飛ぶはずがない。
何より、なぜだか知らないが防具を纏っている。
腹周りを守るように、金属の防具を、黒い帯で体に巻き付けて。
魔物がこのような防具を纏うなど、聞いたことがない。
地面を貫き亀裂を走らせたその爪は、巨大ではあるがやはりロックモールの黒い爪に見える。
「……千年級の?」
ニアミカルム山脈であれば、そんなものがいてもおかしくないが。
「おぼぁぁぁぁぁぁっ!」
突き刺した爪をそのままに、地面を掻きむしるように太い腕を振り払った。
「っ!」
砕かれた大地が礫となって、周囲一帯に降り注ぐ。
打ち払うアヴィだが、武器がない。
拳で飛んでくる土塊を打ち払うが、他の清廊族は対処しきれずに身を固めるばかりだ。
「うだぁぁぁぁ!」
「あ、がぁ、っげふ……」
土礫を受け怯んだ清廊族が一名、貫かれた。
巨大なロックモールの黒い爪で串刺しに。
貫いた体を掲げ、滴り落ちる血を口に注ぐ魔物。
その顔は、魔物ではなく。
「……人間?」
「に……んげ、ん……」
がぶりと肉を食い千切り咀嚼した。
「にん……おらぁ、ろぉぉどぉぉだあああぁぁ」
かつてロドと呼ばれたその人間は、清廊族の血肉を啜りながら、己の境遇を嘆くように雄叫びを上げた。
※ ※ ※