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戦禍の大地に咲く百華  作者: 大洲やとこ
第二部 苦くて甘くて痛くて甘い
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第63話 連峰、晴れて



 紡紗廟。

 ニアミカルム山脈にあるという真白き清廊を模して造られたという建物。


 その奥には、白い石で囲われた大きめの水盆がある。

 ちょっとした泉のような大きさの。


 中心からは、山脈の地中深くから湧きだす水が溢れ、冬でも凍ることなくここから水が流れていく。

 流れる水はクジャの町の生活用水となっていて、滞らぬように各所に魔石を使って水流を増幅させていた。



 ルゥナ達が長老と話している間、エシュメノはこの辺りで待つように言われた。

 ラッケルタ達が外で待っているので、水盆の近くにいるのはエシュメノの他にはニーレ、ユウラ、トワ。


「……冷たくて美味しい」


 両手で掬って飲んでみると、真夏でもひんやりとした温度の澄んだ水だった。

 ソーシャと共に山で暮らしている頃は、こんな水を飲むことが多かった。

 まだそれほど昔のことではないのに、もうずいぶんと遠くのことに感じる。


「……」


 はら、と。

 一筋の涙が水盆に落ちた。



「エシュメノちゃん?」


 動きの止まったエシュメノに、どうかしたのかとユウラが声を掛けてくる。


「ううん、なんでもない」


 懐かしむには、まだ早すぎる。

 涙するのも、まだ後にしよう。

 ソーシャの仇を討ち、みんなが本当に心から穏やかに暮らせる日まで。



「なんかさぁ、ヤな感じだったよね」


 気分を変えるようにユウラが話を振る。


「偉そうに澄ましちゃって、馬鹿にしてさ」

「実際に偉いんだろう」

「セサーカ姉さんがガツンとやってくれて気持ち良かったぁ」


 ユウラの物言いにニーレが苦笑する。

 エシュメノも思い返してみると、にんまりと笑いが浮かんできた。

 意地悪なことを言ってきておいて、悔しそうな顔で去ったメメトハの姿を思い出せば、ちょっと気分が晴れる。



「……清い体って、なに?」


 そういえば彼女に言われた言葉の意味がわからなかった。

 ついでのように思い出して聞いてみると、それぞれが曖昧な表情で首をひねる。


「エシュメノは処女ですか?」

「ちょ、トワちゃん」

「処女ってなに?」

「そこからですか……」


 トワもユウラも言葉に迷い、まとめてニーレに視線を集めた。



「あー、その……男を知らないというか」

「男? 知ってるけど」

「そういう意味じゃなくて。エシュメノ、子作りの仕方とか知ってる?」


 馬鹿にしてる。口を尖らせて腰に手を当てた。


「交尾くらい知ってる。雪解けと一緒に枝の氷の粒から赤ちゃんが出来るだなんて思ってない」

「そっちの童話も知ってるんだ」


 むしろそれが意外、とユウラが目を丸くした。


「ソーシャが教えてくれた。清廊族ではそう信じてる者もいるって」

「ふふっ、いるんですかね」


 トワがおかしそうに笑う。



「エシュメノは、誰かと交尾したことがないんじゃないか?」

「うん」

「それが清い体ってことだよ。メメトハが言っていた意味は」


 そういうことなら、確かにエシュメノはそれだ。清い体。

 そもそも交尾するような同族が近くにいなかったし、発情期も来たことがない。


「交尾したことがあると、清くない体なの?」


 変なの、と思う。


「生き物なんだから子作りは当たり前なのに。交尾したら清くないなんて変なの」

「……普通なら、そうだな」

「私らはほら、人間にそんなことされちゃってたから……」


 人間を相手に、無理やり交尾されていたから。

 だから、清くない。



「それも……変。なんか変だ」


 エシュメノにはわからない。

 ユウラたちは自らの意思でそんなことをしていたわけじゃない。

 呪いの首輪や、暴力で、そうさせられていただけ。


 汚れているのは、そんなことを強いていた人間どもの方だ。

 彼女らが卑しい気持ちでそうしていたわけではないのに。



「エシュメノ、あいつら嫌い」


 エシュメノは、清い体。

 他の仲間は、汚い体だと言っていたんだとわかると、気持ちが落ち着かない。


「……エシュメノだけ違うのは、嫌だ」

「エシュメノ」


 ニーレの手が、エシュメノの頭に乗せられた。



「ありがとう、エシュメノ。だけど私は良かったと思っているよ」


 優しい微笑みだけれど、少し陰りもある。


「……なんで?」


 酷い目に遭って、つらい思いをしたと聞いている。

 何が良かったと言うのか、エシュメノにはわからない。


「エシュメノが、こんな私らと同じ目に遭わなくて良かったって」

「……」

「大丈夫。エシュメノの優しい気持ちで私らは助かっているから、大丈夫だ」


 あんな女の言葉に傷つく必要はない。

 心無い言葉に屈することはないのだと。


 セサーカが意地を張って戦った経緯は、ニーレ達も聞いている。

 全員の気持ちを代表してセサーカは勝利した。

 過去は変えられないけれど、何も知らぬ者が仲間の過去を辱めるような言動は許せない、と。


 エシュメノだけは事情が違う。

 人間と接触することがなく、人間の悪意に触れてきていない。


「エシュメノは、そのままでいいんだ。それで私らは救われるから」

「……わかんない」


 エシュメノには、ニーレ達がどういう気持ちでエシュメノを見ているのかわからない。

 それが不安にもなる。



「エシュメノちゃん」


 ユウラがエシュメノの手を取った。


 目の前に来たユウラの瞳を見つめる。

 ユウラの瞳の中にも、エシュメノが映っていた。


「私の手、汚いかな?」

「? ううん」

「薄汚い人間にいっぱい舐め回されたりしてたって聞いても?」

「その人間が汚いからって、ユウラが汚いことにならない」


 当たり前のことをエシュメノが答えると、ユウラは笑って頷いた。


「ありがとう。でも、あの氷乙女ちゃんはそう思ってくれないんだよ」

「なんで?」

「私の体に、今でも人間の唾液が染みついているんだって」


 体に染みついて?

 嫌な記憶は、心には染みついてしまうかもしれない。

 それを消し去ることはとても難しくて、出来ないかもしれないけれど。


 だけど、肌についた汚れなら、洗えば落とせる。

 うっかり踏んでしまった糞尿でも、べっとりとついた脂でも、洗えば落ちるのだから。

 そんなこともわからないのだろうか。



「メメトハは、バカなんだ」

「ぶっ」


 ユウラが噴き出した。

 トワもくすくすと、ニーレも口元を押さえて小さく震えた。


「ええ、あの女は馬鹿ですね」

「そうだな」


 そうとわかれば、馬鹿の言うことなのだから気にすることもない。


「エシュメノ、セサーカに教えてくる。メメトハはバカだって」

「勝手にどこかへ、ああ……」


 たたっと外へと駆けていくエシュメノを、ニーレが追った。

 よく知らない場所だ。迷子になられても困る。




 残されたユウラは、追わない。


「トワちゃん」


 ニーレの背中を見ながら、独白のように呟いた。

 水盆から流れる水音。



「私、決めたよ」


 一定のリズムで流れる水音と同じように、そこに迷いはない。


「そうですか」

「相談、聞いてくれてありがと」

「ユウラの悩みなら私の悩みと同じですから」


 揺れる水面に映る二つの影は、揺れない。

 意思を固めた。


「……手を貸してくれる?」

「ユウラが望むなら、もちろん」


 手と手が重ねられる。



「欲しいんだ、やっぱり。どんなことをしても」


 ユウラの瞳は真っ直ぐに、彼女の望みを映していた。



   ※   ※   ※ 



 つまらぬ。


 実力で負けたとは思わぬが、少なくともあの勝負では後れを取った。

 油断もあったにせよ、あのセサーカの実力は確かに予想以上で、戦い慣れていたのもわかる。


 しかし、もう一度やれば負けることなどない。

 このクジャでは妾を知らぬものはおらぬ。

 物を知らぬ余所者をからかってやろうと思ったのに、してやられて、そこを長老に見つかった。


 カチナは口うるさい。

 氷巫女としての自覚がどうとか、また説教が始まるだろうと思いあの場を離れた。

 つまらぬ。



「メメトハ様……」


 リィラが左から声を掛けてくる。


「お怪我は大丈夫ですか?」


 レニャが右から訊ねてきた。



「怪我などありはせぬわ」


 ふん、と鼻を鳴らしてから、左腕の赤い筋が目に入る。

 掠り傷。


(……妾の体に傷など)


 久しく記憶にない。

 確かに本物の氷乙女と呼ばれるほどまでの力はまだないが、他の戦士よりは頭いくつか抜けている。

 クジャの周辺の魔物駆除に出ても、怪我など負うことはほとんどなかった。



「……失礼を」


 リィラが手を取った。

 妾の手を取り、レニャに向ける。

 レニャが、腰の魔術杖を妾の手に翳した。


「……」


 癒えていく。

 レニャは治癒の魔法が使える。

 そんなものなくとも、この程度の傷など何でもないじゃろうに。


「……」


 違う。

 妾はこのクジャの守護者として、常に凛としていなければならぬ。

 掠り傷でも、見れば不安になる者もおるじゃろう。


 傷は消えるが、心中の鬱屈したものは消えぬ。

 クジャでは短い間しか訪れない夏の強い日差し。

 目に刺さるほど眩いそれも、妾の心の曇りを晴らすことはなかった。



「……戻るぞ」


 町を歩いていても仕方がない。

 夏のクジャの町は、働く者の姿ばかりだ。

 今のうちに多く働き、冬に備える為に。


 氷雪に閉ざされる冬は、ほとんど活動が出来ない。

 妾や一部の戦士は、冬に腹を減らして町に寄ってくる魔物を駆除する為に戦うが、一般の者は屋内で過ごす。

 妾とそれらとは役割が違うとは言え、皆が働いている時に散策に興じているように見られるのは、やや収まりが悪いように思う。



 紡紗廟の前まで戻ると、連中の連れていた魔物が見えた。


 片方は雪鱗舞。

 この北部にもいるが、臆病な気質で空を逃げるのじゃから、妾も近くで見たことはない。

 晴れた冬の空に、キラキラと日を反射させるあの鱗は美しく見えることは知っておるが。


 もう一体は、見たことがない。

 大型の蜥蜴のようじゃが、この辺りでは見ない種類の魔物。

 赤褐色の鱗に、雪鱗舞と違ってやや重厚な骨格を有している。

 どちらも騎乗できるほどの大きさで、それほどの大きさの魔物を飼い馴らす者は見たことがない。


「……」


 その魔物の周囲で笑う女たち。

 苦渋の生涯を送ってきた彼女らは楽し気にしているが、妾には見える。

 お互いに、お互いの傷痕に触れぬよう注意を払っている様子が。



 あれらの先に幸せなどあるのか。

 消せぬ痛みを抱えたまま過ごせば、いずれその歪みはまた傷口を広げるのではないか。

 妾なら、奴隷として陰惨で醜悪な行為に身を晒され続けたのなら、死を選ぶじゃろう。

 生きても幸せなどないと。


 誇りを踏み躙られた女たちが笑う。

 最初からあれらには誇りなどなかったと思えば不思議もない。

 ほんの少し運が悪かっただけで、生きて逃げ延びたからもう安心じゃと。

 誇りがなければ、そんな気持ちになれるものやもしれぬ。


 下賤な連中。

 同胞だとはいえ、やはり妾たちとは大きく違うものじゃ。




「……触ってみたいの?」


 気が付けば、小娘が妾を見ていた。

 魔物を眺めながら、いつのまにか近くまで来ている。


「わ、妾は、魔物などに興味はない」

「そうです。メメトハ様は魔物などに触れません」

「ふうん、そっか」


 リィラが突き放すように言っても、女は聞いたようで聞いていないようで、無遠慮に妾を観察した。

 短い黒髪で、部分だけ長く後ろに尻尾のように流している女。

 確か、ミアデとか呼ばれていた。


「……別に噛みついたりしないけど」

「ふん、挑発しても無駄じゃ」


 今日は既に挑発に乗って失敗をした。何度も繰り返すことはない。

 いや、挑発したのは妾の方じゃったか。



「ありゃ、あたしもやってみたかったのに」

「舐めるでないぞ、小娘」


 自分でも勝てると慢心したのか、愚かなことを言う。

 妾が睨むと、ミアデは慌てた様子で両手を振った。


「あ、違う違う。あたしじゃ勝てないと思うけど、鍛錬にはちょうどいいかなって」

「ちょうどいいとは、また大きく出たものじゃな」

「あー、それも……どうなんだろ。ちょうどいいと思うんだけど」


 今のクジャで最強の妾を、練習相手にちょうどいいとは言ってくれるものじゃ。


 セサーカも止めようとはしない。

 あれは妾の実力を肌身で知ったはずじゃが、止めない。

 だとすれば、実際にちょうどいい、のか。

 全く、不愉快な連中じゃ。



「……妾は忙しい。そなたらと遊んでいる暇などないのじゃ」


 実力だけでいえば、この連中は確かに普通の戦士よりも頭抜けているのは事実。

 幼い頃から戦士をやっていたわけでもないというのじゃから、その成長度合いは驚愕に値する。

 西部の戦いの力になるという話もわからんでもない。


「忙しいって……」


 半眼になるミアデじゃったが、リィラとレニャが眦を吊り上げて睨むと、口を噤んだ。

 遊んでいるようにしか見えない、と思ったのじゃろう。事実、そんなものじゃが。


「メメトハ様がお前たちなどの相手をして下さるなど、思い上がるでない」

「そうです。メメトハ様は真白き清廊の守護者となるお方。本来ならお前たちが口を利くことも叶わぬのです」


 幼い頃から、妾の傍仕えとして共に過ごしてきた少し年上のリィラとレニャ。

 彼女らは妾の役目を知っている。



「真白き清廊……」


 ミアデの視線がニアミカルムに向いた。


「そうです。清廊族の聖地です」


 皆の瞳が、同じように南に聳える峰々を映す。


 真夏の日差しの下、美しい陰影を織りなすニアミカルム山脈の連峰。

 白く、眩しい。



「いい天気だね」


「……」


 良い、天気?



「……なん、じゃと?」


 どういうことじゃ。

 妾の口から洩れた声は、震えていた。


 ミアデが、きょとんとした顔で振り返る。

 おかしなことを言ったかな、という表情で。


「だから、こんなにいい天気で、日差しが眩しいって……」

「バカな!」

「メメトハ様!」


 有り得ない。

 長老二名がこのクジャにいるのに、山頂が晴れ渡っているなど。

 お役目の代理をしている時期ではない。

 瞬間的に晴れたわけでもなく、そういえば今朝からずっと日差しは強かった。


 有り得ない。こうして言われるまで疑問すら浮かばないほど。

 長老たちもメメトハと同じく、考えもしていなかっただろう、。



「真なる清廊の魔法が、途絶えておる……」


 いつも山脈に吹き上げる風と共に、行き交う者の存在を許さぬはずの雷雲が、どこにもない。


 百年以上に亘り清廊族を守ってきた姉神の魔法。

 永遠に続くと思っていたそれが消えたなど、妾にも、クジャに生きる誰にも、信じられようはずがなかった。



 ニアミカルムは、静かで。

 息を潜めた山々とは立ち代わり、数多の獰猛な息遣いが聞こえてくるように感じたのは、気のせいではなかった。



  ※   ※   ※ 


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