第9章
あんな怪しげな話とは距離を置いた方が良いのは分かっていたが、とりあえずこの業界に身を置いているのだから、そういった闇の部分があるならば、それも知ってみたい。
もっともそれを利用して稼ごうなんて気はなかった。ただ単なる好奇心だと横川は思っていた。
しかし案外早く、武藤から連絡してきた。
「今日会えないかな? ちょっとした情報があるので」
「ええ、良いですよ」
横川は、どんなからくりがあるのかを知りたいと考え、その
話に乗ることにした。
武藤が指定した店も、泉水のお父さんと行った店とそん色ない、高級クラブだった。
「ヘネシーを」
武藤が注文する。こういう店ではヘネシーが定番なんだろうかと思った。でもいくらぐらいするのかは見当がつかない。
「前にお話ししていた件、いかがですか?」
「前の話って?」
横川はとぼけた。
「医学部を志望している優秀な学生さんがいないかっていう話ですよ」
武藤は遠回しな言い方をして笑った。
「まあ、いるにはいるんですけれどね」
横川もあいまいに答える。
「ご紹介していただけませんでしょうか」
武藤が踏み込んできた。
「先日そのお父さんとお話ししたんですが、もう一年頑張らせても良いとおっしゃっていました。あと一年頑張れば、実力で合格できる子だと思いますし」
「もったいない」
武藤は横川のグラスにヘネシーを注ぎ足す。
「そんな優秀な生徒だったら、少しでも早く大学に丹生gくした方が、世のためになるとは思いませんか?」
武藤は自分のグラスにもヘネシーを注ぎ足して口をつける。
「まあ当然、今度の試験で合格を目指しますが」
「それはそうでしょうね。でもいざという場合の保険ということは考えませんか。その優秀な生徒さんのために」
武藤は僕のグラスにさらにヘネシーを注ぎ足そうとする。僕はそれを手で制して言った。
「僕じゃなくて、北村先生にお願いしたらどうですか。僕より北村先生の方が、そういった生徒さんや父母に影響が大きいですから」
一体何故北村が、僕を武藤に合わせたのか、不明である。金銭がらみであれば、自分がかかわった方が明らかに得であるのに。
「北村先生は、今回の件は是非とも横川先生に頼みたいとおっしゃっていましたよ」
「どうしてですかね」
話はそれ以上続かず、ありきたりな話題に移り、お開きとなった。
「お勘定は?」
「いやいや、こちらが誘ったんですから、今夜はご心配されないでください」
少々負い目はあったが、実際ヘネシーがいくらぐらいするか見当がつかなかったから、横川はその言葉に甘えた。
「その武藤と言うおっさんは、横川に金銭的な提供を申し出なかったんだね」
英語の中田と国語の宮本と久々に居酒屋に繰り出して、横川は二人に正直に話したときに、中田が尋ねた。
「ああ、これは本当だぜ。でもヘネシーをごちそうになってしまったから、まあ負い目はあるけどな」
「まあ、それは気にするな。僕らは公務員でもないからな」と
宮本。
「公務だったらヤバイ?」
「そりゃヤバいだろう」
久々の飲み会で、横川も気楽になった。
「でもどうしてお前に押し付けるんだろうね」
中田が疑問を口にする。
「もし本当に謝礼が受け取れるならば、北村が自分でやるだろう」
宮本も疑問を投げかける。
「本当に、どうして今回は僕なんだ」
当事者の横川が、一番疑問に感じている。
「ところで……」
宮本がチューハイを飲み干してお代わりを注文してから言った。
「四予備のことで、妙な噂を聞いた」
「どんな? 宮本の大学の同級生の高木ってやつがいたよな。その関係からか?」
中田が早速興味を示す。
「まあ、そんなところだ」
宮本も冷酒を、横川もビールを追加注文する。
「で、どんな?」
中田が話の続きを催促する。宮本はチューハイを半分ほど飲んでから、おもむろに話を始めた。
「威勢よくここに進出してきたが、あまりうまくいっていないみたいだ」
「確かにパッとした噂は耳にしないよな」
中田が頷く。
「予備校何て、うちも含めてそんなところじゃないのか」
横川がビールを飲みながら嘆く。
「斜陽産業なんだよ、予備校何て。だって、選びさえしなければ、どこかの大学に入れる時代なんだから」
宮本が反論する。
「そりゃ選びさえしなければね。でも旧帝大とかなら、医学科
とかを選んだなら、浪人するやつも必ずいて、予備校はそれなりに受け皿の地位を占めるはずだ」
「予備校は、そういった層しか需要がなくなるよね」
中田が頷く、
「その割には、秀岳館には出来の悪い奴が多いけれどもね」
横川が言うと、二人も爆笑した。
「この県では、選ばなくても入れないやつがたくさん残っているんだね。そんな地域に四予備が入って来ても上手くいかないかもな」
宮本が苦笑いしながら述べる。
「しかし本当に、将来のことを考えるべきだね」
中田がしみじみと言う。
「それで、俺に考えがある」
宮本が冷酒を飲み干してから話し始めた。
「どんな?」
中田が尋ねる。
「まず、北村の思惑を探ろう」
「なぜ?」
横川が疑問を呈する。
「なぜ、ある意味で金が関係するこの事案に、北村本人ではなく、横川を巻き込んだかを調べよう。きっと何か裏があるんだろう」
「確かに」
横川も頷く。
「でも、全然予想がつかないな」
横川は正直検討を着けようと思っても、無理だった。
「だったらこの話、もう少し進めて行けばどうだろうか」
宮本が提案する。
「古館のお父さんに取り次いでみる、ってこと?」
「ああ」
横で聞いていた中田も首を縦に振っている。
「面白そうじゃないか。横川、やってみたら」
中田が無責任なことを言う。
「でも、犯罪に巻き込まれるんじゃないかな。詐欺とか」
横川は躊躇している。
「金さえ受け取らなければ大丈夫だろう。善意の仲介者というスタンスを保てば」
「でも、ヘネシーを飲んじゃった」
中田と宮本は爆笑した。
「本当に小心者なんだな、横川は。まあ、だからこういう関係が続いているんだろうけれどもね」
宮本が言う。
「それってどういう意味? 結構傷ついたけれども」
横川はビールを飲みながら、勤めて冗談っぽく言った。
宮本が話を続ける。
「だってこの業界、何校も転々と転職したり、生徒とのトラブルで辞めさせられたりと、本当にヤクザな職業じゃないか。そんな環境の中で、とりあえず仕事を全うし、家も建て、妻子を養っているなんて、予備校講師としては稀有な存在だろう」
「おいおい、俺だって妻子はいるぞ」
三人の中で独身なのは、確かに宮本だけだった。
「横川は、教務副主任という肩書も得ている」
宮本が説明を継ぎ足す。
「教務副主任なんて、大した肩書でもないし、その手当だって、月に一万円ちょっとにしかならないんだよ」
「一応手当は付いていたんだ」
「そりゃそうさ」
「まあ就学館はオーナー企業だから、給与規定何てないからね」
「だから昔儲かっていたころは、北村なんかは、年収一千万円以上だったらしい」と嘆く。
「まあそれは、日本全体でバブルを矜持していた事態とも重なるから、仕方ないだろう。その後のリーマンショックから始まった就職氷河期に僕らは放り込まれてしまったんだから」
横川は実際、そう思っている。そして、何とかこの時代を生き抜いてきたことに、それほどの抵抗はない。
「まあ、それなりに生きてこられたよね」
「確かに」
他の二人も頷く。
「しかし、この先はちょっと問題だぜ」
中田が再び話を蒸し返す。それほど将来のことが気になっているのだろう。
とにかく、武藤とかいう怪しげな人物に、横川は関係を保った方が良いという結論で、飲み会は終了した。




