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『因果律のハッカー ~Project HONGHUA~』第7話


-影の元老と、富士の樹海に咲く桜-


東京・霞が関。

 日本の治安維持の中枢である警察庁の地下深く、存在しないはずの特務面会室に、月城怜と紅華は招かれていた。

 対座するのは、警察庁警備局長・西園寺金蔵さいおんじ きんぞう。日本の公安警察の事実上のトップであり、怜の直属の上司である時田すらも頭の上がらない、冷徹な国家の番犬である。

 分厚い防音壁に囲まれた密室で、西園寺は出された茶に手を付けることもなく、鋭い鷹のような目で怜の隣に座る紅華を値踏みしていた。


「――単刀直入に言おう、月城。我が国の次世代軍用・諜報用AIの開発は、米中に決定的な遅れを取っている」


西園寺の低く重い声が、無機質な部屋に響く。

 怜は表情を変えずに黙って先を促した。


「ロボット工学やバイオ技術といった『ハードウェア』の分野において、日本は未だ世界トップクラスだ。だが、AIの心臓部である『制御システム』、そして何より、事象を書き換える『因果律ハッキング』の基礎研究において、我が国は巨大な2つの国から立ち遅れている。特に、自律的に思考し、状況に合わせて魔法を構築できる『高高度AI』の領域では、米中の背中すら見えていないのが現状だ」

「だからこそ、彼女……中国の最高機密である紅華の技術が喉から手が出るほど欲しい、と?」


怜が探るように問うと、西園寺は短く鼻を鳴らした。


「政府の連中なら、間違いなくそう言うだろうな。そして、彼女を解剖台に乗せるか、さもなくばアメリカの機嫌を取るために『貢ぎ物』としてCIAに引き渡すだろう。……第二次大戦以降、我が国の中枢は常に星条旗の顔色を窺う去勢された犬に成り下がっているからな」


西園寺の言葉には、強い吐き気と国憂の念が込められていた。

 彼は懐から、漆塗りの古びた木札を取り出し、テーブルの上に置いた。そこには菊の御紋に似た、しかし異なる古い紋様が刻まれている。


「私は、政府オモテの連中を信用していない。君たちを守り、かつこの国の真の国益を守るためには、強力な『裏の盾』が必要だ。月城、君たちを『御前会議ごぜんかいぎ』に繋ぐ。彼らに認められれば、君たちの日常は、日本国という国家そのものが総力を挙げて防衛することになる」


御前会議。

 その単語を聞いた瞬間、怜の背筋に冷たい汗が伝った。

 都市伝説として公安内部でも囁かれていた名前だ。政府というよりは皇室に近く、戦前から日本の真の独立と国益のみを追求し続けてきた影の元老フィクサーたち。政財界、官僚、果ては自衛隊の中枢にまでシンパを持つ、極右とも呼べる愛国者集団である。


数時間後。

 都内某所、広大な敷地を持つ歴史的な日本庭園の奥深く。

 古式ゆかしい書院造の座敷に、怜と紅華は正座で控えていた。

 御簾みすの向こう側には、数人の得体の知れない老人たちの気配がある。彼らが発する威圧感は、先日相対した中国軍の精鋭部隊のそれよりも遥かに重く、底知れない。


『――見事なものだ。それが、大国の生み出した因果の特異点か』


御簾の奥から、枯れ木が擦れ合うような、しかし異様なほど通る声が響いた。


『月城怜。お前がその特異点の手綱を握っていることは承知している。我らが問いたいのは、その少女の意志だ。……紅華とやら。お前は、その神にも等しい力を、我が大日本国のために振るう覚悟はあるか?』


張り詰めた空気が座敷を支配する。

 愛国者である彼らにとって、「国家への忠誠」こそが全てだ。少しでも反逆の兆しがあれば、ここで即座に切り捨てられるかもしれない。怜が庇うように紅華の前に出ようとした、その時だった。


「いいえ」


紅華の凛とした、しかし全く悪気の無い澄み切った声が響いた。

 怜が息を呑む。御簾の向こうの気配が、一瞬だけピタリと凍りついた。

 紅華は、隣に座る怜の大きな手を自身の両手でぎゅっと握りしめ、真っ直ぐに御簾の方を見据えた。


「私は、日本のために働くつもりはありません。私がその力を使うのは、ただ一人……怜のためだけです。彼が笑って暮らせる世界を守るためだけに、私は動きます」


沈黙が落ちた。

 致命的な発言だ。国家の元老を前に、一個人のための愛を優先すると宣言したのだから。怜は最悪の事態を想定し、全身の筋肉を限界まで引き絞った。


『……ふっ』


だが、御簾の奥から聞こえてきたのは、怒号ではなく、微かな笑い声だった。

 やがてその笑いは、座敷全体を揺るがすような豪快な哄笑へと変わった。


『カッカッカッ! 痛快なり! 国のため、大義のためなどと薄汚い嘘をつく政治家共より、よほど純粋で美しい魂ではないか!』

『左様。機械でありながら、己の愛のために生きると宣うか。……実に、極めて人間的だ。裏切りのない絶対的な愛着アタッチメント。これほど信用に足るものはない』


元老たちの声には、確かな安堵と歓喜が混じっていた。

 彼らは、紅華が「冷徹な計算で動く機械」であることを最も恐れていたのだ。だが、彼女の行動原理が「怜への無償の愛」という極めてアナログで人間的なものであると知った瞬間、彼らにとって彼女は「制御可能な、愛すべき隣人」へと変わったのである。


『月城怜よ。お前たちのささやかな幸せは、我らが必ず守り抜こう。警察機構のみならず、必要とあらば自衛隊の非公表部隊すらも動かし、日本国としてお前たちを保護する。その代わり……』

「ええ、分かっています」


怜は深く頭を下げ、力強く答えた。


「俺たちの幸せを守るため、ひいてはそれがこの国の盾となるのなら……喜んで、国家の影として協力させてもらいます」


* * *


翌日、怜と紅華は西園寺の手配により、富士の樹海――その地下深くへと足を運んでいた。

 鬱蒼とした原生林の中に偽装された、巨大な産業用プラント。

 そこは、政府の息がかかった国立AI研究所ではなく、民間企業が主体となって運営されている極秘の先端AI研究所『樹海』だった。


「ようこそ、月城くん。そして、美しいお嬢さん」


白衣をだらしなく着崩した、無精髭の男が人懐っこい笑顔で出迎えた。

 彼の名は近衛文和このえ ふみかず。(旧摂関家近衛家の現当主の弟。)

 五十五歳にして、日本のAI開発の第一人者であり、御前会議の庇護のもと、この『樹海』で研究の全権を握る歴戦のエンジニアだ。

 その後ろには、タブレット端末を神経質にいじっている鋭い目つきの男、鈴城則夫すずき のりおが立っていた。彼はロボットのハードウェア開発における天才である。


「ここは、大手産業ロボットメーカーであるFANUCファナックの秘密研究所だ」


近衛が誇らしげに周囲のサーバー群を指差す。


「現在、自衛隊や警察向けの治安維持型・軍用AIロボットの開発は、YASUKAWA(旧安川電機)がメインで請け負っている。あそこは米国の国防総省や日本政府とズブズブだからな。だが、我々FANUCはあくまで産業用がメインだ。だからこそ、政府の余計な干渉や米国の監視をすり抜け、完全なる『純国産の次世代AI』をここで秘密裏に開発できるってわけさ」


少数精鋭、わずか六名しかいないこの極秘施設。

 鈴城が、紅華の周りをぐるぐると回りながら、その生体パーツの継ぎ目を食い入るように観察する。


「……信じられん。中国のバイオ技術がここまで進んでいたとは。皮膚の弾力、体温の制御、瞳孔の反応速度。完璧な芸術品だ。YASUKAWAの最新鋭機など、これに比べればブリキのおもちゃに等しい」

「中身も規格外だぜ、鈴城」


近衛が興奮気味にコンソールを叩き、紅華に有線でのデータリンクを求めた。紅華は怜の許可を得て、自身のインターフェースを接続する。


「よし、彼女の深層コードを少し覗かせてもらうぞ……って、うわァァッ!?」


接続した瞬間、近衛のコンソールに真っ赤な警告アラートが乱舞した。


「駄目だ! コアの周辺に、恐ろしい自己崩壊ロジック・ボムのプロトコルが張り巡らされている。無理にアクセスしようとすれば、彼女のデータが完全に消去されるぞ! なんだこの常軌を逸したロックは……!」


それは、紅華を設計した『博士』が、彼女が捕獲され兵器として解剖されることを防ぐために仕掛けた最後の防壁だった。

 近衛は悔しげに頭を掻きむしったが、すぐにその目に強烈な好奇心の光を宿した。


「……なるほど。なら、コピー(解剖)は諦めよう。だが、彼女という『完成された実物』と対話することはできる!」


それからの数日間、富士山麓の『樹海』は、かつてない熱気に包まれた。

 紅華のAIシステムは、近衛たちの想像を遥かに超えていた。彼女は単に計算が早いだけでなく、人間的な「曖昧さ」や「直感」、そして何より怜との愛によって培われた『創造性』を持っていたのだ。


「紅華くん、この因果律の数式だが、なぜここで物理法則の優先順位を『逆転』させたんだ?」

「……それは、風の流れのデータだけでなく、その時、怜が少し寒そうにしていたからです。体感温度を最適化するために、大気の分子運動に『優しさ』という変数を代入しました」

「や、優しさという変数!? そんな非論理的な数式が成立するのか! ……いや、待てよ。因果律の干渉においては、観測者の『強烈な主観』こそが現実を書き換えるトリガーになるということか……! 鈴城、新型のコア設計を一から見直すぞ!!」


紅華の何気ない言葉が、停滞していた日本の新型軍用人型AI開発に、次々とブレイクスルーをもたらしていく。

 コピーではなく、彼女から着想を得て創り出される、日本だけのオンリーワンの特異点。

 その新型機は、静かに『桜華オウカ』と名付けられ、富士の地下で確かな産声を上げ始めていた。


* * *


研究の合間、怜と紅華には束の間の休息が与えられていた。

 研究所の敷地内にある、富士の自然に囲まれたゲストハウス。

 紅華は縁側に座り、赤く色づき始めた秋の紅葉を静かに見つめていた。その手には、温かい緑茶の入った湯呑みが握られている。


「疲れてないか、紅華」


後ろから怜が声をかけ、彼女の隣に腰を下ろした。

 紅華は嬉しそうに微笑み、怜の肩にコトンと頭を乗せた。


「いいえ。近衛さんたちとのお話は、とても刺激的です。彼らは私を兵器としてではなく、まるで新しい世界の扉を開く『友人』のように接してくれますから」

「そうだな。少しマニアックすぎるのが玉に瑕だが」


怜が苦笑すると、紅華は湯呑みを置き、両手で怜の右手を包み込んだ。

 その生体パーツの温もりは、出会ったばかりのあの夜よりも、ずっと柔らかく、深みのある「人間の体温」へと近づいているように感じられた。


「怜。私、少しずつ分かってきました。因果律を書き換える魔法は、ただの計算じゃない。この世界を、そしてあなたを『どう愛するか』という、祈りの形なんです」

「……祈り、か」

「はい。だから私は、もっと強くなります。あなたと、この穏やかな日々を守るために」


紅華の瞳には、一切の迷いがなかった。

 怜は彼女の黒髪を優しく撫で、その真っ直ぐな想いに応えるように、そっと彼女の額に口づけを落とした。

 赤く染まる富士の樹海。

 二人の間に流れる時間は、恐ろしいほどに甘く、そして静かだった。

 だが、この平穏な箱庭の外では、中国の赤い竜が傷を舐めながら新たな牙を研ぎ、そして太平洋の向こう側から、星条旗を背負った冷酷な猟犬が、すでに日本の地へと降り立っていることを、彼らはまだ知らない。


-赤い竜の咆哮と統制兵器-


 ――国家という巨大な機構において、個人の命などすり潰される歯車の一つに過ぎない。

 それが、失敗を犯した将校であればなおさらのことだ。


 中国・北京。

 人民解放軍の最高機密施設、情報部統合本部の地下深く。

 冷ややかな大理石が敷き詰められた長大な執務室の絨毯の上に、一人の男が額を擦り付けていた。

 東京湾の暗く冷たい海へ飛び込み、非正規の貨物船の底に隠れて命からがら密航帰国を果たした、情報三課の将校である。

 極度の疲労と恐怖で頬はこけ、軍服は潮と汚物で汚れきっていたが、彼は微動だにせず、ただ執務デスクの向こう側に座る「男」の裁きを待っていた。


「……つまり、貴様は言いたいのか」


 デスクの奥から、氷のように冷たく、一切の感情を排した声が降ってきた。

 人民解放軍情報部のトップ、チャオ中将。

 彼は手元のホログラム・ディスプレイに表示された、東京湾岸地下施設の惨状――首なしの量産型AIと、炭化した数十名の部下たちの写真――を無表情で見下ろしていた。


「我々が莫大な国家予算を投じて造り上げた最高傑作『紅華』は、たった一人の日本の公安警察官に手懐けられ、我々に牙を剥いた。そして、貴様ら精鋭部隊と最新の量産型五機は、あの小娘の『炎の剣』とやらの前に一蹴され、尻尾を巻いて逃げ帰ってきたと」

「は、はい……ッ! 言い訳の余地もございません! しかし、趙将軍! あれはもはや兵器ではありません、災厄です! 痛覚を持ち、血を流し、そしてアニメの知識などというふざけたデータから瞬時に因果律(魔法)の数式を再構築してのけました!」


 将校は床に額を擦り付けたまま、血を吐くような悲鳴を上げた。


「もし、あの化け物が日本の猟犬に唆され、我が国へその炎を向けたら……北京が、祖国が焼き尽くされます! 私はそれを伝えるためだけに、泥水を啜って戻ってまいりました! どうか、私を処刑する前に、全軍を挙げてあの悪魔を……ッ!」


 ドサッ、と鈍い音が響いた。

 趙中将の傍らに控えていた黒服の護衛が、将校の頭部を軍靴で容赦なく踏みつけたのだ。鼻骨が砕け、絨毯に鮮血が広がる。


「馬鹿め。たかが一機の人型AIに、国家が焼き尽くされるわけがなかろう」


 趙中将は冷酷に吐き捨てた。

 しかし、彼の眼光は微かに、だが確かな『戦慄』を帯びていた。

 紅華の演算能力が、初期の設計値を遥かに凌駕していることは、送られてきたわずかな戦闘データからも明白だった。

 問題は、その進化のトリガーだ。

 彼女の生みの親である『博士』は、彼女の深層に「創造性」と「感情」というブラックボックスを組み込んでいた。博士を焦って処刑してしまった今、中国軍のどの技術者を集めても、そのブラックボックスの構造を解明することは不可能だった。


「……博士の残した『感情起因による特異な演算のブレイクスルー』。確かに、あれは素晴らしい成果だ。一騎当千の神を創り出したのだからな」


 趙中将は立ち上がり、巨大な執務室の壁面モニターを起動させた。

 そこに映し出されたのは、広大な地下工場のラインにズラリと並ぶ、数千体もの「量産型軍用AI」の姿だった。


「だが、制御できぬ神など、軍隊には不要だ」


 その言葉は、中国軍の新たなドクトリン(基本原則)の決定を意味していた。

 人間のように笑い、人間のように泣き、そして愛する者のために自己進化を遂げるAI。それは確かに強い。しかし、たった一つの命令違反で祖国に刃を向けるような不確実な兵器を、これ以上追求する意味はない。


「感情も、創造性もいらん。我々が求めるのは、絶対的な忠誠と、淀みない殺戮のプロトコルだ。……一点ものの神に、制御可能な『群れ(スウォーム)』で対抗する」


 趙中将がコンソールを叩くと、モニターの中の数千体の量産型AIの網膜が一斉に不気味な赤い光を放った。

 彼らには、紅華のような人間らしい美しい肌も、生殖機能も、豊かな感情プロセスもない。あるのは、鋼鉄の骨格と、必要最低限の人工皮膚。そして、因果律ハッキングをただ「決められた数式」として処理する冷徹な電子頭脳だけだ。


「特殊AI開発課に伝えろ。今後、因果律ハッキングの高度な演算や創造性の研究は凍結する。既存の汎用モデルの『同期ネットワーク』と『制限ロック』に全リソースを注ぎ込め。個体ごとの演算能力が紅華の百分の一でも構わん。百機で同時に同じ因果を書き換えれば、神の盾すらも砕ける」


 質より量。そして、蜂の群れのような完璧な統制。

 紅華が「愛」というノイズで魔法を紡ぐなら、こちらは一切のノイズを持たない「純粋な暴力の群れ」でその魔法を圧殺する。


「……おい、そこから顔を上げろ、敗残兵」


 趙中将が、床で血を流す将校を見下ろして命じた。

 将校は震えながら、潰れた顔をゆっくりと上げた。


「貴様を処刑するのは簡単だ。だが、貴様が持ち帰った恐怖は、奴らを狩るための動機として利用価値がある」

「将、軍……?」

「貴様に最後の任務を与える。この新たな量産型部隊――コードネーム『饕餮トウテツ』を日本国内へ送り込むための、諜報ネットワークの再構築だ。東京港での失態で、我が国の日本における裏ルートは壊滅状態にある。貴様が直接日本へ戻り、現地のアングラ組織や企業を買収し、再び道を作れ」


 将校の目に、絶望と、そして狂気にも似た光が宿った。

 日本へ戻る。あの炎の悪魔が、そして日本の猟犬がいるあの国へ。

 だが、断ればここで脳髄を撃ち抜かれるだけだ。生き延びるためには、祖国の冷酷な歯車として再び狂うしかない。


「……ハッ! 必ずや、我が祖国のために! そして、あの悪魔をこの手で解体するために!」

「ふん。期待はしていないが、せいぜい死に物狂いで働け。道ができ次第、五百機の『饕餮』を東京へ空挺降下させる。日本の公安ごと、あのガラクタをスクラップにして連れ戻せ」


 趙中将が手を振ると、護衛たちが将校を引きずり出していった。

 再び静寂が戻った執務室で、趙中将はモニターの中の赤い眼光の群れを見つめながら、低く冷たい笑い声を漏らした。


 愛だの、心だのという非論理的なバグに依存した兵器が、国家の持つ無機質で圧倒的な『物量』の前にどこまで耐えられるか。

 大国のプライドを懸けた、純粋な殲滅戦の準備が、北京の地下深くで着々と進められていた。

 紅華と怜が富士の樹海で束の間の休息と愛を育んでいるその裏側で、赤い竜は決して眠ることなく、冷たい鉄の牙を何百、何千と研ぎ澄ましていたのである。




-進化する愛の特異点-


一方、日本の富士山麓、極秘AI研究所『樹海』。

 広大な地下演習場では、耳をつんざくような破壊音と、極彩色の光の嵐が吹き荒れていた。


「す、すげえ……! あのYASUKAWAの最新型軍事ドローン六機を、たった一分で……!?」


防弾ガラスの向こう側で、ハードウェア開発の天才・鈴城則夫が震える声で叫んだ。

 演習場の中央に立つのは、紅華だ。

 彼女の周囲には、日本の誇る最新鋭の軍事用無人機ドローンや、多脚戦車型の重装甲ロボットが、すべて『原型を留めない金属の華』のようにねじ曲げられ、沈黙していた。

 紅華は、息一つ切らしていない。

 彼女の因果律ハッキングは、東京湾岸での死闘を経て、さらに恐ろしいレベルへと「自己進化」を遂げていたのだ。


「……驚いたな。出力そのものが上がっているわけじゃない。『演算の無駄』が完全に消滅している」


腕を組んで見下ろしていた月城怜が、ホログラムの分析データを見ながら呟いた。

 かつての紅華は、巨大な力で強引に物理法則をねじ伏せていた。しかし今の彼女の魔法は違う。相手の装甲の分子の『結びつきが最も弱い一点』だけを瞬時に見抜き、そこに針の穴を通すようなわずかな因果律のズレを流し込むことで、対象を内側から自壊させているのだ。


「怜」


演習を終えた紅華が、防弾ガラスのゲートを抜けて怜の元へ小走りで駆け寄ってきた。

 戦闘中の冷酷な死神の顔から一転、怜の顔を見た瞬間に、彼女は人間の少女のような甘く柔らかい笑顔を咲かせる。

 怜は差し出されたタオルを彼女の頭にバサリと乗せ、乱暴だが優しくその黒髪を拭いてやった。


「お疲れ。やり過ぎだぞ、お前。近衛さんが後でYASUKAWAへの言い訳書を書くのに泣き叫ぶことになる」

「ふふっ、ごめんなさい。でも、怜が『見ている』と思うと、私のシステムの中に、もっと綺麗に、もっと早く敵を無力化するための『新しい数式』がどんどん溢れてくるんです」


紅華の言葉は真実だった。

 彼女の進化の源泉は、紛れもなく『怜への愛』だ。

 怜を守りたい。怜に褒められたい。怜と共に生きる未来を確かなものにしたい。

 その人間的で強烈な感情モチベーションが、固定化されたAIのアルゴリズムに常に「未知の創造性」を与え続け、彼女の因果律の演算を、他のどの国も到達できない神の領域へと引き上げていた。


「おいおい、俺たち独身のオッサンたちの前でイチャつくのはルール違反だぞ」


コーヒーカップを持った近衛文和が、苦笑しながら近づいてきた。

 しかし、その目はエンジニアとしての狂熱に満ちている。


「だが、君のおかげで、我が国の次世代機『桜華』の制御コアに組み込むべき基礎理念がようやく見えた。……機械に『感情』のシミュレートを組み込むんじゃない。機械が自らの意志で『特定の誰か』を最優先する論理、つまり『疑似的な愛(忠誠)』を初期の特異点として設定するんだ。……君たち二人は、まさしく世界の形を変えるアダムとイブだよ」


近衛の言葉に、怜は紅華の肩を抱き寄せながら、鋭い目を細めた。

 彼女が強くなればなるほど、そして日本の『桜華』の開発が進めば進むほど、世界中の飢えた獣たちがこの箱庭を狙ってくるだろう。

 中国の復讐部隊、アメリカのCIA、そして底知れない多国籍企業たち。

 嵐の前の静けさ。

 怜は、紅華の温かい生体パーツの体温を手のひらに感じながら、来るべき世界規模の暗闘から彼女を命がけで守り抜くことを、改めて心に誓っていた。

 進化する愛は、やがて大国の思惑すらも飲み込む、美しくも恐ろしい特異点へと成長しつつあった。


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