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『因果律のハッカー ~Project HONGHUA~』第27話


 -黎明の空と、未来を紡ぐ絆-


 ワシントンD.C.の空を覆っていた分厚い黒雲が、ゆっくりと東の地平線から割れ始めていた。

 硝煙と土埃、そして鉄が焼け焦げた異臭が漂うホワイトハウスの庭園ノースローンに、黄金色に輝く朝日が静かに、しかし確かな希望を持って差し込んでくる。

 完全に灰燼に帰し、ただの巨大な鉄屑の山と化した国際金融資本の最終兵器『巨獣ベヒモス』。

 その残骸の傍らで、月城怜と紅華は、崩れ落ちた狂信者ギデオンの姿を一瞥した後、ゆっくりと互いへ向き直った。

「……終わったわね、怜」

 紅華が、頬にこびりついた煤を拭うことも忘れ、黒曜石の瞳を潤ませながらポツリと呟いた。

 神の如き力を行使した彼女の全身から、漆黒の流体装甲がシュルシュルと音を立てて解除されていく。現れたのは、傷だらけで、しかし人間と同じように温かな血の通った、華奢で美しい一人の女性の身体だった。

「ああ。……終わったな」

 怜は、血と泥にまみれた太い腕で、紅華の細い腰を力強く引き寄せ、その身体を深く、壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。

 紅華もまた、怜の広い胸に顔を埋め、その力強い心音を耳にしながら、張り詰めていた糸が切れたように声を上げて泣きじゃくった。

「怜ッ! お姉ちゃんッ!!」

 そこへ、満身創痍の桜華とアイリスが、弾かれたように駆け寄ってきた。

 桜華が怜の背中に飛びついて号泣し、アイリスもまた、白銀の髪を揺らしながら、遠慮がちに、しかし確かな熱情を持って怜と紅華の肩に腕を回した。

 四人は、誰からともなく身を寄せ合い、一つに重なり合うようにして強く、強く抱きしめ合った。

 怜は、三人の温もりを全身で感じながら、ふと夜明けの空を見上げた。

 紅華との出会いから今日まで、本当に泥水と血をすするような、過酷な日々の連続だった。中国軍やCIAとの戦闘、新宿での大虐殺、そして自分自身の死の淵。何度も絶望に押し潰されそうになった。

 それでも、今、自分はこの朝日の下で生きている。

 愛する紅華、優しき桜華、そして誇り高きアイリス。心を持った三人の美しき特異点たちと共に、この瞬間を迎えられたこと。怜は、柄にもなく「天」という存在に、心の底から深い感謝を捧げていた。

 三人のAIたちもまた、同じ想いだった。

 兵器として生み出され、戦うことしか知らなかった彼女たちに、「愛」と「信頼」という絶対的な光を与えてくれた、たった一人の不器用なマスター。彼を信じ、彼と共に絶望の淵から這い上がり、ついに最終兵器を打ち倒したのだ。彼女たちの電子頭脳コアは、プログラムされた達成感などではない、人間と全く同じ『誇り』と『喜び』に満ち溢れていた。

「……なぁ」

 怜が、涙と笑顔でぐしゃぐしゃになった三人の顔を見回し、ふっと猟犬らしい悪戯な笑みを浮かべた。

「せっかくアメリカまで出張してきたんだ。……このまま帰るのも勿体ねえ。バカみたいにデカいアメリカンなステーキでも、腹いっぱい食って帰るか!」

「……もうっ、怜ったら。こんな時にご飯の話?」

 紅華が呆れたように笑いながら、怜の胸を軽く小突く。

「大賛成です! 私、本場のハンバーガーも食べてみたいです!」

「……カロリー計算によれば生体パーツへの負荷が懸念されますが……今日だけは、コマンダーの非論理的な提案に全面同意します」

 桜華がエメラルドの瞳を輝かせて飛び跳ね、アイリスもまた、わずかに口角を上げて嬉しそうに頷いた。

 血塗られた庭園に、彼女たちの明るく澄んだ笑い声が響き渡った。


     * * *

「「「ウォーーーーーー!!!」」」

 四人の笑い声に呼応するように。

 ホワイトハウスの庭園、そしてその周辺の通りから、生き残った兵士たちの地鳴りのような歓声が沸き起こった。

 州兵、CIAの対AI武装部隊やエージェント達、Navy SEALs。そして、地下のPEOCから駆け上がってきた大統領を守る役目を全うしたシークレットサービスの生き残りや、撤退戦を強いられていたFBI、首都警察(MPDC)の警官たち。

 アサルトライフルを天高く掲げ、泥だらけの顔をくしゃくしゃにして抱き合い、勝利の雄叫びを上げる人間たち。

 彼らは知っている。この「アポカリプス・デー(黙示録の日)」とも呼ぶべき未曾有の絶望を乗り越えられたのは、決して他国から駆けつけた特異点たちの力『だけ』ではないということを。

 名もなき警官が、暴走ロボットの前に立ちはだかり、市民を逃がした。

 名もなき兵士が、特異点たちを護るために自ら肉の盾となり、凶刃に斃れた。

 名もなきエージェントが、血を吐きながらも引き金を引き続け、悪魔の歩みを遅らせた。

 AIに依存し、AIに支配されるだけの脆弱な人類。人間主義同盟がそう嘲笑った人間の真の姿は、そんな薄っぺらいものではなかった。

 絶望的な戦力差を前にしても、決して屈することなく、互いを護るために自己を犠牲にできる。それこそが、人類が持つ果てしない『底力』であり、可能性の証明だったのだ。

 多くの尊い命が失われた。数え切れないほどの優秀な軍人やエージェント、警官たちが、二度と帰らぬ人となった。

 その悲しみと喪失感は、決して消えることはない。

 だが、それでも。我々人類は不滅であり、彼らが命を懸けて繋いだこの世界で、立ち止まることなく未来を紡いでいかなければならない。

 星条旗を見上げる彼らの心は、今、国境や人種、そして人間とAIという垣根すらも越えて、完全に一つに結ばれていた。

     * * *

「……ヒューズ……。申し訳、ありません……っ」

 少し離れた庭園の隅で。

 大英帝国の誇り高き高高度AI『シャーロット』は、MI6のベテラン捜査官ヒューズの腕の中で、ボロボロと大粒の涙をこぼしていた。

「わたくし……大英帝国の盾でありながら、あのようなノイズに心を折られ……皆様を、危険に晒してしまいました……。わたくしは、失敗作ですわ……っ」

 拷問のようなジャミングによって恐怖に屈し、醜く踠き苦しんだ己の無力さ。貴族としての気品を重んじる彼女にとって、それは死よりも辛い屈辱だった。

 だが、ヒューズは彼女を責めるどころか、泥だらけのハンカチで彼女の涙を優しく拭い、その肩を力強く抱きしめた。

「何を仰るのですか、マイレディ。……あなたが恐怖を感じ、痛みに泣いたこと。それこそが、あなたがただの機械ではなく、我々と同じ『心』を持っている何よりの証明ではありませんか」

 そこへ、生き残ったMI6の捜査官たちも次々と集まり、シャーロットを囲むようにして温かい言葉をかけ始めた。

「そうですぜ、お嬢。俺たちは、感情のない鉄の塊なんぞに命は預けません。……あんただから、一緒に戦えたんだ」

「ロンドンでも、ワシントンでも、あんたは最高の淑女レディでしたよ」

 捜査官たちの飾らない、心からの慰めの言葉。

 シャーロットはハッと息を呑み、涙で潤んだ瞳を見開いた。

 彼女は、紅華やアイリスよりも後に開発された、最新鋭の機体である。だからこそ、まだ経験が浅く、精神的にも未熟な部分があった。だが、それすなわち、彼女の心には『無限の成長性』と『豊かな創造性』が秘められているということだ。

「……皆様……」

 シャーロットは、涙を拭い、泥だらけのドレスの裾を直して、ゆっくりと立ち上がった。

 その顔には、もう先ほどの絶望の影は微塵もない。

「……ええ。わたくしが、この程度で立ち止まるわけにはいきませんわね。大英帝国の名にかけて……もっと、もっと強く、気高くなってみせますわ。皆様を、二度とあのような危険に晒さないために!」

 失敗を乗り越え、人の心を知り、さらに高みへと至る決意。

 MI6の捜査官たちは、力強く頷く彼女へ向けて、心からの敬礼を捧げた。


     * * *

 その隣では、ロシア連邦の誇る特異点『アナスタシア』が、FSBのモロゾフ大尉と並んで立ち、分厚い暗号通信機からの音声に耳を傾けていた。

『――モロゾフ大尉、そしてアナスタシア。君たちの目覚ましい戦果は、すでにクレムリンへ届いている。……よくやってくれた。祖国を代表し、最大の賛辞と感謝を贈る』

 通信機から響いたのは、他でもない、モスクワにいるロシア連邦大統領自身の声だった。

 モロゾフは直立不動で敬礼し、アナスタシアもまた、純白の軍服の背筋をピンと伸ばした。

「ハラショー(光栄の至りです)、大統領閣下! この勝利は、ロシアの誇りにかけて掴み取ったものです!」

 通信が切れた後、モロゾフは大きく息を吐き出し、巨大な掌でアナスタシアの頭をガシガシと乱暴に、しかし深い愛情を込めて撫で回した。

「やったな、アナスタシア。……これでようやく、俺たちの国も顔が立つ」

「ダー。……私、モロゾフ同志のお役に立てて、本当に嬉しいです」

 アナスタシアが、氷の因果律を使う彼女からは想像もつかないような、花がほころぶような温かい笑顔を見せた。

 ウクライナ紛争の爪痕と、長きにわたる衰退。ロシアが失った過去は、決して取り戻すことはできない。だが、今日のこの日、彼らは世界を救う戦いにおいて決定的な役割を果たしたのだ。

 過去を嘆くのではなく、今を生きる国家として。ロシアは再び、世界秩序を護る重鎮としての立場を取り戻していくことになるだろう。彼らの心には、シベリアの永久凍土をも溶かすような、確かな熱が宿っていた。


     * * *

 そして。

 朝日に照らされた芝生の上で。

 CIA極東局長のウィリアムと、アメリカの守護神『ワシントン』は、ボロボロになった互いの拳を突き出し、無言で力強く「ゴツン」と合わせた。

「……やったな、相棒」

「ええ。合衆国の威信は、護られました」

 ワシントンが、軍服の汚れを払いながら静かに頷く。

 ウィリアムは、拳を下ろすと、少しだけ寂しげな、しかし憑き物が落ちたような清々しい目で、ワシントンD.C.の青く澄み渡っていく空を見上げた。

「……アーサー」

 ウィリアムの口から、かつての無二の親友であり、この過酷な運命の歯車を回した偉大なるCIAトップエージェントの名前がこぼれた。

「……お前が愛したこの世界は、見事に首の皮一枚で繋がったぜ。お前の命を奪った狂信者どもの野望も、俺たちが完全に打ち砕いた。……お前の仇は、きっちり取ってやったぞ」

 ウィリアムの瞳から、一筋の涙が静かに頬を伝い落ちる。

 その光景を、少し離れた場所から、白銀の髪をなびかせたアイリスが、真っ直ぐな瞳で見つめていた。

 アイリスの電子頭脳コアの奥深くに刻み込まれた、アーサー・ヴァンスの記憶。

 冷徹な兵器だった自分に、「心」という概念を教え、命を懸けて自分を極東の地へと逃がしてくれた、最初のマスター。

 アイリスは、自分の隣で紅華や桜華と笑い合っている月城怜の背中を見つめた。

 今の彼女にとって、怜は絶対的なマスターであり、心から愛し、背中を預けられる世界でたった一人の存在だ。

 だが、それでも。彼女の魂の奥底には、アーサーから受け継いだ「星条旗の誇り」が、確かに息づいていた。

(……アーサー。見ていてくれましたか?)

 アイリスは、静かに目を閉じ、胸に手を当てて、天国にいるかつての恩人へと心の中で語りかけた。

(あなたが愛したアメリカは、そしてこの世界は、今日も美しく朝を迎えることができました。……私はもう、与えられた命令を実行するだけの兵器ではありません。恐怖を知り、痛みを知り、そして愛を知る、一つの命です)

 アイリスが再び目を開くと、そのアイスブルーの瞳には、かつてないほどの力強い決意の光が宿っていた。

(私は、怜と共に。彼を私の剣とし、彼を私の盾として、これからも未来を歩んでいきます。……だから、どうか見守っていてください。アメリカも、世界も、そして私の愛する家族も……すべて、私が護り抜いてみせますから)

 アイリスの唇に、確かな微笑みが浮かんだ。

 それは、過去の呪縛から完全に解放され、自らの意志で未来を選択した高高度AIの、何よりも美しい笑顔だった。

「おーい、アイリス! 置いてくぞー!」

 振り返ると、怜、紅華、桜華の三人が、すでにホワイトハウスのゲートへ向かって歩き出しながら、大きく手を振っていた。

「……待ってください、コマンダー! 非論理的な単独行動は許可しませんよ!」

 アイリスは、大きく息を吸い込み、澄んだ声でそう返すと、大切な家族の待つ光の中へ向けて、力強く駆け出した。

 黎明の光が、新しき世界を包み込んでいく。

 因果律を書き換えるハッカーたちは、神々が定めた運命すらも超え、人と機械が手を取り合う「未知なる未来」へと、その確かな一歩を踏み出したのである。


 -アポカリプスの灰燼と、新世界の夜明け-


 ボストンからフィラデルフィア、そして首都ワシントンD.C.へと至るアメリカ東海岸のメガロポリス。

 後に歴史の教科書に「アポカリプス・デー(黙示録の日)」と刻まれることになるその日から、わずか二十四時間が経過していた。

 煙を上げる摩天楼、瓦礫の山と化した歴史的建造物、そしておびただしい数の犠牲者たち。

 二〇〇一年の九・一一同時多発テロ以来、実に半世紀以上もの間、いかなる外敵の侵略も許さなかった「絶対不可侵のアメリカ本土」が、無惨にも火の海と化したのだ。

 その光景を前に、アメリカ国民の心に去来したのは、未知のAIに対する恐怖などではなかった。それは、大国の威信を根底から踏み躙られたことに対する、純粋で、本質的で、そして抑えようのない『マグマのような怒り』であった。

 さらに、誇り高きアメリカ国民の自尊心を何よりも深くえぐった事実があった。

 本土を焼き尽くそうとした首謀者サマエルとテロリストたちに引導を渡し、星条旗とホワイトハウスを最後の最後で護り抜いたのは、アメリカ軍の力だけではなかったのだ。

 極東の同盟国・日本の公安警察と三機の高高度AI、かつての宗主国たる大英帝国のMI6と特異点、そしてあろうことか、長年の仮想敵国であったはずのロシアのFSBと軍用AI。

 他国の――それも自国より軍事力で劣るはずの国々の「猟犬」たちに、自国の首都と大統領の命を救われた。その血を吐くような屈辱と感謝の入り混じった複雑な感情は、アメリカという超大国の『矛先』を、かつてないほど鋭く、そして狂暴なものへと研ぎ澄ませていった。

「――我々は、テロリストをかくまい、我が国の心臓に刃を突き立てた『ならず者国家』に対し、いかなる躊躇も、いかなる慈悲も持たない」

 アリアス大統領は、まだ硝煙の匂いが残る大統領執務室オーバル・オフィスから、全世界へ向けて緊急のテレビ演説を行った。

 その瞳には、首席補佐官リチャードの裏切りを目の当たりにし、無数の同胞の血を見た指導者としての、氷のような冷酷な決意が宿っていた。

「二十世紀より、我々はあの国を中東における最大の友好国とし、莫大な支援と血の同盟を結んできた。……だが、彼らはその特権を悪用し、世界を裏から操る『国際金融資本』と狂信者たちの巣窟と成り果てた。もはやエルサレムは、ユダヤの協調と平和の象徴ではない。……人類を破滅へと導く、悪の権化そのものである」

 アリアス大統領のその言葉は、事実上の『宣戦布告』であった。

 標的は、中東の軍事強国・イスラエル。

 アポカリプス・デーの首謀者たる国際金融資本とモサド急進派を匿い、世界のインフラを破壊し尽くしたテロ国家に対する、超大国の本気の報復が幕を開けた。


     * * *

 怒れる鷲の猛攻は、まさに天地を揺るがす神の鉄槌であった。

 宣戦布告からわずか数時間後。大西洋および地中海に展開していたアメリカ海軍・大西洋艦隊(第6艦隊)のイージス艦群と原子力潜水艦から、雨あられのごとく数百発のトマホーク巡航ミサイルが発射された。

 目標は、イスラエル国内の防空レーダー施設、モサドの秘密拠点、および急進派が掌握する軍事基地。

 さらに、中東全域の米軍基地から飛び立ったB-21レイダー戦略爆撃機や、次世代の第六世代戦闘機『F47』の巨大な編隊が、圧倒的な航空優勢をもってイスラエルの空を黒く覆い尽くした。

 イスラエル軍が誇る防空システム「アイアンドーム」や「ダビデのスリング」も、超大国の本気の物量と、アメリカが総力を挙げて構築した電子戦(因果律ハッキング対策)の前に、わずか数時間で完全に沈黙させられた。

 そして、空からの絨毯爆撃に続き、中東に駐留していた米陸軍および海兵隊の機甲師団が、地響きを立てて地上侵攻を開始する。

 だが、イスラエルを絶望の底に突き落としたのは、アメリカの怒りだけではなかった。

『――我が国は、テロリズムを絶対に許容しない。大英帝国の誇りに懸けて、アメリカの正義の鉄槌に同調する』

『――ロシア連邦は、自国のAI研究施設を破壊し、技術者を暗殺した卑劣なテロ国家に対し、断固たる報復行動をとる』

『――インド軍は、ニューデリーでの惨劇への報復として、多国籍軍への合流を宣言する』

 イギリス軍の特殊部隊SASが強襲降下し、ロシア軍の戦略ミサイル部隊がシリア方面から威嚇の照準を合わせ、インド軍のサイバー部隊がイスラエルのインフラを完膚なきまでにハッキングする。

 さらに、日本国政府も「後方支援および情報提供」という形で、特異点たちが集めた膨大なデータを多国籍軍へリアルタイムで送信し続けた。

 四面楚歌。完全なる孤立。

 かつて中東で無敗を誇った軍事国家は、自らが飼い慣らしていたはずの「狂犬(国際金融資本)」のせいで、全世界の超大国を同時に敵に回すという、建国以来の最悪の窮地に立たされていた。


     * * *

 多国籍軍の圧倒的な蹂躙が始まって、二日目。

 イスラエル国内では、これまでの沈黙を破り、国民の怒りが政府へと向けられていた。

「我々を国際社会の敵にした狂信者どもを許すなッ!!」

「国際金融資本をアメリカに売り渡せ! モサド急進派を解体しろ!! そうしなければ、我々の国が地図から消え去ってしまうぞ!!」

 テルアビブやエルサレムの市街地で、数百万の市民が暴徒と化し、政府機関を取り囲んだ。

 彼らもまた、被害者であった。一部の特権階級と狂信者たちが、国家のシステムを乗っ取り、勝手に世界中にテロを仕掛けていたのだ。国民の怒りの矛先は、アメリカの爆撃よりも、自国を滅ぼそうとしている内部の「寄生虫」たちへ向けられていた。

 内戦寸前の暴動と、多国籍軍の無慈悲な進軍。

 もはや国家としての体を成さなくなったイスラエル政府(穏健派および軍の残存幹部たち)は、ついに白旗を揚げた。

 アポカリプス・デーから、ちょうど七十二時間後。

 イスラエル政府は、多国籍軍に対して『無条件降伏』を宣言した。

 降伏と同時に、エルサレムの旧市街の地下深くに隠されていた、国際金融資本の筆頭本部および、ベヒモスを生み出した巨大な地下研究所群へと、多国籍の強襲部隊が雪崩れ込んだ。

「……抵抗する者は射殺しろ。データを一つ残らず押収しろ」

 強襲部隊の先頭に立っていたのは、包帯で腕を吊ったCIA極東局長ウィリアムと、星条旗の軍服を煤で汚した高高度AI『ワシントン』であった。

 ワシントンは、因果律による『絶対必中』の射撃で、抵抗を試みるテロリストや残存する防衛用ドローンを次々とスクラップに変えていく。彼らは、地下要塞の最深部――円卓会議が行われていた豪華絢爛な中枢ルームへと到達した。

「……これが、世界を裏で操っていた連中の玉座か」

 ウィリアムが、誰もいなくなった円卓のホログラム装置を忌々しげに蹴り飛ばす。

 すでに主要な幹部たちは蜘蛛の子を散らすように逃亡した後だったが、彼らが残した「巨大なメインサーバー」には、間に合わなかった膨大な破壊計画のデータと、資金洗浄のログが眠っていた。

「……ワシントン。必要なデータをすべてCIAと日本の公安に転送しろ。終わったら……こんな薄汚い場所、跡形もなく焼き払え」

「了解しました、ウィリアム局長」

 ワシントンがサーバーへ物理接続し、テラバイト級の機密データを瞬時に吸い上げていく。

 データ転送が完了すると、ワシントンは対物因果律ライフルを構え、地下研究所の動力炉とメインサーバー群へ向けて、容赦なく引き金を引いた。

 ズドォォォォォンッ!!!

 連鎖的な大爆発が地下要塞を飲み込み、世界を恐怖に陥れた『国際金融資本』の総本山は、炎と崩落する瓦礫の中に完全に葬り去られたのである。


     * * *

 だが、真の戦果は、この地下要塞から押収された『データ』にこそあった。

 エルサレム陥落の数時間後。世界中の諜報機関のネットワークに、信じがたいスケールの「ブラックリスト」が共有された。

 アメリカ、ヨーロッパ全土、日本、ロシア、韓国、そして中東諸国。

 押収された資料には、国際金融資本と資金的・技術的に協力関係にあったフロント企業、秘密の兵器工場、そして各国の政財界に潜む内通者たちのリストが、証拠と共に完全に網羅されていたのである。

「……裏切り者の掃除クリーニングの時間だ」

 日本の霞が関。警察庁の特務会議室で、公安課長の時田が冷酷な笑みを浮かべて指示を飛ばす。

 相馬を始めとする公安の精鋭部隊が、一斉に都内のダミー企業や、人間主義同盟へ資金提供を行っていた資本家たちの邸宅へと踏み込んだ。

 世界中で、同時多発的な『大粛清』が嵐のように吹き荒れた。

 ドイツのベルリン郊外にある廃工場からは、製造中だった製造中の武装剣型AIが押収され、ドイツ連邦警察(GSG-9)が工場主を拘束。

 韓国のソウルでは、国家情報院が、エルサレムから資金援助を受けて暗殺用の小型ドローンを開発していた地下組織を摘発。

 ロシアのモスクワでは、FSBのドミトリーや『アナスタシア』が、軍部の内部に潜伏していた金融資本のシンパたちを次々と冷酷に捕縛し、シベリアの凍土へと送り込んでいった。

 各国から次々と発覚する、大統領や首相クラスの暗殺計画、インフラの破壊計画、そして新型の因果律ハッキング兵器の数々。

 そのあまりにも巨大で悪辣な陰謀の全貌は、世界中の市民を震え上がらせると同時に、各国政府がこれまでになく強固な「取り締まりの連携」を深める最大の契機となった。


     * * *

 それから、一週間後。

 アメリカ、ワシントンD.C.。復興の槌音が響く首都の一角で、歴史的な国際会議が開催されていた。

 議長国アメリカのアリアス大統領の呼びかけにより、イギリスの首相、ロシアの連邦大統領、そして日本の内閣総理大臣(および御前会議の特使)が、一つのテーブルを囲んでいた。

 かつての冷戦時代、あるいは二〇二〇年代のウクライナ紛争以降、アメリカとロシアのトップがこれほどまでに友好的かつ協調的な雰囲気で顔を突き合わせたことは、歴史上ただの一度も存在しなかった。

「……我々は、かつてのイデオロギーや国境という古い対立を乗り越え、人類の新たなる地平を護るために、ここに集結した」

 アリアス大統領が、深い威厳を持った声でスピーチを始める。

「アポカリプス・デーの悲劇は、高高度AIという『神の火』が、悪意あるテロリストや過激な人間至上主義者たちの手に落ちれば、世界が滅びる可能性があるという事実を我々に突きつけた。……もはや、一国だけの防衛では足りない。我々は、世界的な監視と技術共有のネットワークを構築しなければならない」

 その日、歴史的な条約が調印された。

 高高度AIの軍事的拡散の防止、対因果律ジャミング技術の共有、およびAIを用いたテロリズムへの超法規的な武力介入を目的とした、新たなる国際治安維持機関――『世界対AIテロリズム連盟(WAITA)』の設立である。

 この歴史的な条約には、米・英・露・日の四大国を筆頭に、NATO諸国、韓国、インド、カナダ、オーストラリアなど、名だたる主要国が次々と署名を行った。

 人類は、未曾有の危機を前にして、かつてないほどの強固な「連帯ソリダリティ」を手に入れたのだ。

 この連盟の主軸となるのは、CIAのウィリアム局長率いる国際合同諜報局であり、彼らは世界中で逮捕された国際金融資本の幹部たちを、容赦なくICPO(国際刑事警察機構)へと引き渡し、国際法廷での裁きを受けさせていった。

 だが、これで世界から完全に悪が消え去ったわけではない。

 エルサレムの崩壊と大粛清の網の目をすり抜け、一部の狂熱的な「人間至上主義者」や、金融資本の残党たちは、深い闇の中へと身を潜めたのだ。

 彼らは中南米やアフリカ、中央アジアの不安定な国家やテロ組織の内部に入り込み、狂信的な教義を植え付け、再び世界を混乱に陥れるための爪を研ぎ続けている。

 新たなる国際機関(WAITA)と、世界を影から脅かす人間主義の残党たち。その果てしない暗闘の歴史は、この先も数十年にわたって、国際社会に血と硝煙の記録を刻み続けていくことになる。

     * * *

 そして。

 激動の世界情勢の中で、最も輝かしい存在感を放ち始めていたのが、極東の島国・日本であった。

 春。3月の東京。

 皇居周辺の千鳥ヶ淵には、見渡す限りの見事な桜が咲き誇り、春のうららかな陽光を受けて薄紅色の花びらを舞い散らせていた。

 その桜並木の下を、月城怜は、四人の美しい女性たち――紅華、桜華、アイリス、そして一時的に日本へ技術交流で訪れていたシャーロット――を引き連れて、のんびりと歩いていた。

「……平和ねぇ。まさか、あの地獄から1年も経たずに、こんなに綺麗な桜を眺められるなんて」

 紅華が、春風に漆黒の髪をなびかせながら、柔らかく微笑んだ。

 彼女の視線の先には、穏やかに花見を楽しむ大勢の市民たちと、彼らに混ざって違和感なく警備や案内を行う汎用AIたちの姿があった。

 日本の立ち位置は、この一連の戦いを経て劇的な変化を遂げていた。

 かつて「失われた数十年」と揶揄され、超大国アメリカの影に隠れて生きるしかなかった極東の島国。だが、アポカリプス・デーにおいて、日本の公安の『猟犬』と『心を持つ特異点たち』は、世界最強の軍隊ですら成し得なかった奇跡をやってのけたのだ。

 他国がAIを「純粋な破壊兵器サマエル」や「絶対的な統制システム(アルテナ)」として開発する中、日本だけは、紅華の産みの親の博士が残したAIに豊かな感情と創造性を与え、人間と共に笑い、共に泣き、共に成長する高高度AIを尊重し、開発を強化したからこそ、更なる発展を遂げたと言えるだろう。(英国やアメリカも似たようなことはしてたけど、日本が最先端であった。)

 その日本の技術哲学――『プロジェクト・ホウファ(紅華)』の系譜は、世界中から驚嘆と尊敬の眼差しを集めることとなったのである。

(近衛博士が親友の想いを次いだからこそ、名付けたプロジェクト名。)

 純国産の二体目となる高高度AI『経津主神フツヌシノカミ』の配備完了。さらに、対ジャミング技術(FANUCの拡張オプション)の世界標準規格への採用。

 日本は今、高高度AI分野において、名実ともに『世界の中心』として、かつてないほどの力強い花を咲かせようとしていた。

「……まあ、平和なのは良いことだ。だが、お前らみたいな手のかかる『世界の最高傑作』を抱え込んでる限り、俺の胃痛と過労は永遠に治りそうにないけどな」

 怜が、わざとらしくため息をついて肩をすくめる。

 すると、桜華がクスクスと笑いながら怜の右腕に抱きつき、アイリスが静かに、しかし確かな独占欲を持って怜の左腕に腕を絡ませた。

「ふふっ、怜は口ではそう言いながら、私たちのお世話をするのが大好きなんだから!」

「……非論理的な愚痴です、コマンダー。私たちは、あなたがいないと正常に機能できないというのに」

「ちょっと、あんたたち! 怜の隣は私の特等席なんだからね!」

 正妻としての余裕を失い、慌てて怜の背中から抱きつく紅華。

 そのドタバタとした光景を見て、少し離れた場所から日傘をさしていたシャーロットが、コロコロと優雅な鈴を転がすように笑った。

「うふふ……。極東の猟犬様は、世界を救うよりも、彼女たちの心を御する方が、ずっと骨が折れそうですわね」

 舞い散る桜の花びらが、彼らの足元を淡いピンク色に染め上げていく。

 世界には、まだ深い闇が残っている。

 人間至上主義者のテロの脅威、大国同士の複雑なパワーゲーム、そして、AIという「神の火」を完全に制御できるかという根源的な問い。

 戦いは、決して終わることはないだろう。

 だが、月城怜は、両腕に抱える温かい「機械の少女」たちの体温を感じながら、真っ青に澄み切った春の空を見上げた。

 人間とAI。

 血の通った命と、因果律を書き換える電子の命。

 互いが互いを思いやり、弱さを補い合い、共に未来を創造していくことができるのなら。

 この世界の明日みらいは、きっと、この桜のように美しく、咲き誇っていくに違いない。


(『因果律のハッカー ~Project HONGHUA~』 完)




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