5 黄金色の飴
その晩。サリスはおずおずと師の部屋に入った。
もらったスケート靴を抱きしめて。しかし、首をわずかに傾けて。
「日が暮れたら、氷の女王が消えました……。夜なのに湖が溶け始めてるって、大食堂でみんな騒いでました……」
神妙な顔で言う弟子に、師はにっこりうなずいた。
「夕刻の風編みで、導師たちがいつになく総力をあげた。湖上に居座るものを吹き飛ばしたんだよ」
「はい。でも朝とは打って変わって、抵抗がなく、実にあっけなく……消えてしまったと。あの……」
サリスはしばし躊躇したあと、囁き声で訊ねた。
「もしかしてお師さまが……氷の女王を喚んでくれたのですか?」
金の髪輝く師の、蒼い双眸が、じっとこちらを見つめてくる。
サリスは言葉を呑んでうつむいた。
「氷の女王が降りてくることは予知できた。だからスケート靴を、護符船で取り寄せたのだ。でも、女王を喚んだのは、私ではないよ」
くつくつ、師の口から忍び笑いが漏れた。
「喚んだのは……」
師のまなざしが貫いてくる。深く深く、こちらを。
サリスは真っ青な深淵のなかに、「犯人」を見つけた。
みるみる血の気を失い、まさかとつぶやいて一歩あとずさる、金髪の子を。
「うそ……でしょう? だって僕は……」
ごとりと、うろたえるサリスの腕から、スケート靴が落ちた。
「ラデルが君に言っていただろう? 望みが叶ってよかったねと。あの子はしっかり気づいていて、君に感心したようだ。私も、君が何を望んでいるか、うすうす感づいていたよ」
「ぼ、僕は、透視できませんし、予知だって。なのに……」
「氷の女王を喚ぶには、相当な魔力が要る。引き換えに何かができなくなるのは当然だろう。君の望みは、風編みの結界を打ち負かした。まさか君が、これほどの意志と魔力を持っているとは思わなかったよ。周囲にばれたら、かなり面倒くさいことになるだろうが……」
「う……」
心配はいらぬと、セイリエンは青ざめる子をなだめた。
「まあでも、心配はいらぬ。力の波動をたどられないよう、君の足跡は完璧に消したし。私は風邪を引いて、ここ数日、力を出せなかったことにしたからね」
風編みの結界は、魔力ある歌を数十人で歌い上げて作り出す。
ゆえに、ほんの少しでも和合が乱れれば、まともに機能しないといわれている。
「がらがら声の私が風編みから外れたら、たちまちこの通り。結界が正常に編み上げられて、氷の女王はいつものように追い出された、というわけさ。そんなわけだから、私はこれから熱を出して寝込むことにする。救護室から、薬湯をもらってきてくれ。ああでも頼むから、」
師はにやりと口の端を引き上げた。
「毒は、入れないでほしいな」
「は、はい……! いえ! あの、そんな……い、入れ……られま、せん……」
サリスはしどろもどろ、ますます顔を蒼くしてうなずいた。
この人に勝つなんて、とてもできそうにない。
黒き衣のセイリエンは、偉大な導師。
すべてを見通し、おのが弟子をひそかに守る――
「お師さまは、最長老さまよりすごいかも……。でも本当に、僕が女王を……?」
喚んだのだろうか?
とても信じられないけれど、たしかに、望んだかもしれない。シルフィリエに会いたいと願ったかもしれない。心の底で、無意識に求めていたのかも……
「風編みを乱しただけじゃない。お師さまは僕の望みを感じて、一緒に喚んでくれた? ああ、たぶんきっと。きっとそうなんだ……」
だってどんなに強い魔力であろうが、強い望みであろうが、未熟な自分一人だけでは、風編みの結界を壊すことなんて無理だろう。
セイリエンの末の子はそう結論づけて、長い回廊に降りた。
廊下に面している共同部屋から、誰かが飛び出してきそうな気がした。
頭の中にパッと豹の頭をかぶった子の姿が浮かぶ。
これはもしやと思ったら、案の定――
「おうサリス! 実験はいつやるんだ?」
ジェリがひょっこり顔を出してきた。あっ、とサリスは声をあげて驚いた。
ジェリの蒼き衣のたもとに、色とりどりの飴玉が入っている。缶の中にそれがきらきらひしめいて入っているのが、みえる……
「お菓子……隠してるんですね」
「ん? そうだよ。この衣って、隠せるところいっぱいあって便利だよな。ってそれより、実験いつー? おい、なんだよ、今にも泣きそうな顔で笑うなよ! 飴玉やるから教えろって!」
寒がりの王子のために、今度は、かっと燃えるような暑さをもたらす、火夫人が来るよう願おうか?
いや。師がくれた「奇跡」はたぶん、一度きり。
それに、透視ができなくなるのはもうごめんだ。
サリスは黄金の粒を口に放り込んだ。
ジェリが押しつけるように渡してきたその飴は、ぎんぎんと甘酸っぱくて。
カッと燃えるような、暑い暑い、夏の味がした。
「ありがとう、セイリエンのジェリ。実に、おいしいです」
サリスの口からほろりと、自然に言葉が出て行った。
苦笑交じりの、微笑みとともに。
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黒き衣のセイリエンは、神聖暦7700年代後半に金獅子州公家の後見人を務めた導師である。
長老となりて五人の弟子を持ち、そのうち二人を大国を統べる王にした。
最後の弟子のサリスは師を倒そうとして果たせず、齢若くして自害したが、その死を嘆き悲しんだ師は、寺院に伝わる秘法で彼の生まれ変わりを探し出した。
その子は熱砂の砂漠に生まれ落ち、竪琴を弾く神の歌い手となりて、偉大な王となった兄弟子を支えるのだが。
それはまた別の、長い長い物語である。
―― 氷の女王 了 ――




