男(3)
「生きながらえて下さい」
月子の声が聞こえた。
こんな状態になった今、彼女の声が生きている証の一つともなった。
生きている。俺はまだ生きている。
残念だ。非常に残念だ。
どれだけの時間が過ぎたのか。いつ頃か、全身を鈍い痛みや不快感が蝕み始めた。
痛い、痛い、痛い。
苦しい、苦しい、苦しい。
こんなにも身体が悲鳴をあげているのに、医者は一切何もしてくれなかった。
「お変わりないようで」
いかに医者が無能か、身を持って知った。思えば初めから俺に意識がある事すらちゃんと理解していなかった。そんな奴が俺の痛みを感じ取れるわけがないのだ。
くそ。くそ。
「生きながらえて下さい、生きながらえて下さい」
月子。お前だけだ。お前だけが伝えられるはずだ。
ずっと一緒に生きてきたお前なら分かるだろう。俺が今どれだけ苦しいか。
頼む。言ってやってくれ。この痛みと苦しみを取り払ってくれ。
「生きながらえて下さい。生きながらえて下さい。生きながらえて下さい」
違う。違う。今俺が欲しいのはその言葉じゃない。
「生きながらえて下さい、生きながらえて下さい」
この愚図。馬鹿の一つ覚えにそれしか言えないのか。
くそ……痛い、痛い、痛い……。
*
「生きながらえて下さい」
無限とも永遠とも思える時間の中、秒針のように月子の声が世界を刻んだ。
もう分かったよ。分かったから。
俺は分かった。月子の気持ちが。考えた事もなかった、月子の気持ちが。
こいつは分かっていたんだ。思った通りこいつだけは、ちゃんと理解していたんだ。
俺が今、どれだけの痛みと苦しみにのた打ち回っているのか。
医者にも見抜けない不可視の地獄が、こいつにはちゃんと見えているのだ。
「生きながらえて下さい、生きながらえて下さい」
もういい。早く終わってくれ。何も出来ないんだ。生きている意味などとっくに失っている。
痛み、苦しみだけの世界。とっとと終わってくれ。とっとと俺を殺してくれ。
「生きながらえて下さい」
それも分かっているんだ。だからこいつはこんな事を言うんだ。
生きろ。生きて苦しみ続けろ。
はっきりと物を口にしない女だった。それだけに全てを腹の底に据えていたのだ。ずっと抱え、熟成させた恨みがようやく今日の目を迎えたというわけか。
そうか。そうか。
俺のやり方は、間違っていたのか。
母親が死んだ時の事を思い出した。厳格な親父より先にあの世へ旅立った母。
「お父さんが、常に正しいのです」
か細い声で呟く母の言葉。でもそれは表の言葉。その裏にあった本心はどうだったか。
「生きながらえて下さい、生きながらえて下さい、生きながらえて下さい、生きながらえて下さい」
終わらない呪詛が耳元で鳴り続ける。
それがお前の願いなら、願い続けるがいい。
どうせ俺はもう動けない。お前を叩く事も出来ない。
存分に晴らすがいい。自分の恨みを。
俺はお前に、それだけの事をしたのだろう?