男(2)
どれだけの時間、どれだけの日が流れているのか。
自分のうっすらとした視界に加え、首一つ動かせないもはやおもりでしかない身体のせいで、時計やカレンダーといったものが一切確認出来なかった。
時折知らない声がそれを知らせてくれる事もあった。聞いた事のない声なので、同じ部屋にいる他人か医者か看護師だろう。
正確な今が分からないというのは、なかなかに不安を掻き立てた。本当に今自分はここにいるのか。
「……き、て……さい」
ふいに傍から細々とした、小さな声が聞こえた。
「い……て……さい」
まるで念仏のように繰り返される声は、どうやら月子のもののようだった。
こいつは一体何をぶつぶつと言っているのだろう。神経を耳に集中させる。やがてその声が唱えている言葉を理解した。
「生きながらえて下さい」
月子は確かにそう言っていた。何度も何度も、繰り返し繰り返し。
ほう。
俺は少し感嘆した。俺の身を案じてくれているのか。
夫婦となって三十年以上が経つ。
見合い結婚だったが、静かで献身的な女だった。常に俺の一歩後ろを歩いた。いや、歩かせたという方が正しい。
自分の親父がそうだった事もあり、亭主関白に振舞うのが当たり前だと思っていた。だから自分も月子にそうした。高圧的に、傲慢に。それが正しい夫婦像だと叩き込んだ。
「生きながらえて下さい」
月子は文句も言わずついてきた。常に俺を支え続けた。
ぐずつく所もあり、いらつかせる事も多かった。その度俺は激高した。物を投げ、蹴り、叩き割った。
それでも月子はついてきた。他に行くあてもない貧しい娘だった事もあるだろう。
「生きながらえて下さい、」
月子の願いがこつこつと耳を叩いた。気分は悪くなかった。
そうかそうか。教育の甲斐があった。いい妻になったじゃないか。
床に伏し、物も言えない世界で、俺は一人仄かな満足感を得ていた。




