04.ごめんね(前)
横田まみ子は自宅がある文化住宅の2階、201号室のドアを開けた。独特の古臭い匂いがしてくるがまみ子もこれにはそろそろ慣れてきた頃だ。
今年でまみ子も50歳。もうオバサンもいいところだ。
まみ子は独身だ。
別に、結婚が嫌だからとか恋愛をしなかったからとか縁がなかったからとかいう具合に言い訳をするわけでもなんでもない。
かつて、まみ子も結婚をした。もう25年も前の頃の話。あの時、若かった。若気の至りだったのかもしれない。独立して会社を作ったばかりの当時の旦那――という呼び方も嫌で、話に出てくるたびに「あの男」という呼び名になってしまう――と結婚した。うまくいくように二人で会社を切り盛りしてきた。30歳になってやっと子宝にも恵まれた。男の子だった。
しかし、その直後に人生のどんでん返しが待っていた。
あの男は、まみ子に内緒で借金を重ねていたのだ。
外回りと称してパチンコ屋で遊ぶ日々。もちろんそんなもので儲かるわけもなく、財産はドンドン姿を消していく。やがて消費者金融にあの男は手を伸ばし、気づけば会社は借金まみれ。当然のごとく、会社は倒産した。あの男は自己破産を申請し、まみ子と離婚。
まみ子は産んだばかりの長男、荘平と家を出てこの文化住宅へやって来た。最初はパートなどをしつつ荘平の子育てもしていたが、荘平の成長が思わしくない。同世代の子供たちと比べると身長も低いし体重も軽い。
小児科へ行くと、信じられないことを言われた。
「栄養失調気味ですね」
このご時勢に?
そんなことを思ってしまったが、荘平においしいご飯も飲み物も与えてあげられなかったことを考えると、致し方ないことかもしれない。
考えた。
考え抜いた。
なんとかこの子を私の元で育てられないか。
考えれば考えるほど、最悪の事態しか浮かんでこない。
結果として、養子へ出すことにした。
まだ1歳だった荘平は、寝ている間に養子先に出した両親に引き取られていった。
あの日、会社が破産してから初めてまみ子は泣いた。
そして、荘平がまみ子の手元から離れて20年が経った。
あの日と変わらず、まみ子は文化住宅に住んでいる。場所は転々としているけれど。本当は許されるべきではないが、養子に出した先のご夫婦から毎月お手紙をいただいている。荘平の成長の様子などを写真にして送ってくださったりもする。ふつうでは考えにくい対応をしてくださった。
今年、20歳になった荘平。
中学時代から水泳を続けてきたのもあってか、あの男とまみ子から生まれた子にしては背も高く(あの男は身長169センチ、まみ子は165センチ)ガッシリした体つきをしている。けれど、目元はまみ子に似て大きく優しい目だ。歯並びも幸い、まみ子似ではなくあの男のようにきれいに並んでいる。身長を除けば両親のいいところばかりを取って成長した子だ。
大学は入らずに、就職したと聞いた。
愛知県内で主に展開するアキオスーパーに就職したようだ。3ヶ月サイクルで働く店舗がいまのところ変わっているという。だいたい決まった店舗に入れるようになるのは2年後のことだと当時、聞いた。
まみ子の近所にもアキオスーパーがある。さっき、有働さんとあった店がそれだ。昔は駅前のスーパーに行っていたからアキオスーパーへ行くことはほとんどなかった。しかし、有働さんに誘われてセールに行った3ヶ月前。まみ子は息が止まるかと思った。
「いらっしゃいませ!」
レジでまみ子に応対した青年―― 林 荘平 ――。
紛れもなく、荘平だった。写真でしか見たことのない荘平が、まみ子の目の前にいる。就職してからも水泳は続けているようで、体格は維持されている。しかし、生来の人懐っこさ(赤ちゃんの頃から人見知りは全然なかった)に加えて接客業で磨かれた挨拶の仕方などでオバサマを中心にお客さんの人気も高いようだった。
呆然とまみ子が荘平の姿を見つめていると、それに気づいたらしい荘平はニコッと笑って「当店のご利用は初めてですか?」と聞いてきた。
「あ、はい。友人に呼ばれて来てみたんです」
「そうですか。今後ごひいきしていただけたら幸いです」
「はい……」
「ありがとうございます、2093円になります」
たった2、3分のやり取りだった。もう一度、名札を確認した。
『専属スタッフ 林 荘平』
専属スタッフ。
それはつまり、まみ子の近所のスーパーに配属が決定したということを示していた。
それからというもの、まみ子はアキオスーパーの常連客になっていた。荘平も次第にまみ子の顔を覚えて名前も覚えてくれるようになった。最近だと、声もかけてくれる。安い品物は今日はコレだとか、セールが来週あるとかいろんなことも教えてくれる。
(なるほどねぇ。これじゃオバサマ連中の気を惹くわけだわ)
もし仮に、まみ子の元で育っていたらこんなにいい子に育った気がしない。林さんのご夫婦には感謝しきれない。
翌日。
今日は有働さんが学校に娘の由貴ちゃんのことで用事があると聞いたので、一人でアキオスーパーへやって来た。
お菓子売り場でおかきの安売りがあると今日は荘平から聞いていた。
スーパーに入ると、荘平はお惣菜売り場で品物の整理をしていた。
「おはよう、林くん」
「おはようございます、横田さん」
(あぁ、癒し系の笑顔ね)
まみ子は一人で感激していた。
「どうかしましたか?」
「ううん! なんでもないわ。今日も頑張ってね」
「ハイ! ありがとうございます。横田さんも、ゆっくりお買い物楽しんでいってくださいね」
「もちろん! それじゃあ」
ウキウキ気分でまみ子はお菓子売り場へと足を運んだ。5分ほどウロウロしていると、平日だというのに中学生くらいの男の子が同じところをウロウロしているのにまみ子は気づいた。
(あらやだ、こんな時間に……。近頃の親ときたらどんな子育てを……)
次の瞬間、まみ子は目を疑った。
男の子が、お菓子をポケットに入れたのだ。
そしてそのまま男の子は店を出ようとする。まみ子は慌てて追いかけて男の子の腕を掴んだ。
「ちょっとアンタ! なにやってんの!?」
腕を掴まれた男の子は焦った様子で腕を振りほどこうとした。
「あんだよ! 離せよババァ!」
「バッ……!」
まみ子は顔を赤くして怒り始めた。
「大人にそんな口利くなんて! それにアンタがいまやったことは、犯罪なのよ!」
騒ぎに気づいた客が集まってくる。
「いいから離せよ!」
「キャッ!」
まみ子は思いっきり突き飛ばされて、派手に転んでしまった。
「待てっ!」
店員の一人と店長が男の子に思い切り体当たりして転ばせて動けないようにした。
「大丈夫?」
上を見上げると、荘平がまみ子の体を支えていた。
「え?」
「あ、いや、大丈夫ですか?」
荘平は少し顔を背けながら言った。
「あ……膝を擦りむいてますよ」
まみ子の右膝から少し血が出ていた。
「あぁ! こんなの、唾つけとけば治るわよ」
「いえ。当店で怪我をなさったことには変わりないですから軽くですが社員休憩室で治療しましょう」
「いいってば」
「さぁ、行きますよ」
まみ子は荘平に体を支えてもらいながら、社員休憩室へと入っていった。




