03.仮面と麝香<ジャコウ>(前)
※注※ 本当に微妙ですが、イジメが関わっている物語です。それほど激しい描写はありませんが、それを念頭においてお読みください。
「あぁ、驚いた」
有働智恵子はベランダから戻ってくるなり大きくため息をついた。
「どうしたの? お母さん」
娘の由貴が布団から顔を出して聞いてくる。
「なんでもないのよ。それより、アンタ熱は下がったの?」
「ううん。まだ気だるい」
由貴は昨日から発熱で学校を休んでいる。元気が取り柄だった娘が急に熱を出したことに智恵子は少し驚いたが、由貴も人間だ。そういうことだってあるだろう。
「じゃあお母さん、今からお買い物に行ってくるから、何か欲しいものある?」
「マスクメロン」
「バカ言わないで。そんなこと言う元気あるんだったら学校行ってきなさい」
智恵子が笑いながら買い物の支度を始めた。
「じゃあリンゴゼリーがいいな。甘いヤツ」
「アンタは小さい頃から好きね、リンゴが」
「想い出もいろいろあるしね」
恥ずかしそうに由貴が呟いた。
「わかったわ。買ってくるからお留守番ヨロシクね?」
「はぁ〜い! 行ってらっしゃい!」
バタン、と音がして智恵子が買い物へ出た途端、由貴の胸がチクリと痛んだ。
熱なんて嘘。
学校へ行きたくないだけ。
それは突然始まった。
「ねぇ、アンタなにいい子ぶってんの?」
クラスでいつも中心になって‘動いている’女子が今度は由貴に向かってそう言ってきたのは一昨昨日のことだった。
「えっ?」
「学級委員長だからって、いい子の仮面でも被ってるわけ?」
「そ、そんなつもりじゃ……」
「見てて、ムカツク」
そこから由貴の日常は一変した。
机に落書きは当たり前。上履きがなくなる。シャーペンや消しゴムが粉々になっている。誰もじきに口を利いてくれなくなり、まるで由貴の存在が消えてしまったかのようになってしまった。
それでも学校へ行かないわけにはいかない。しかし、体は正直だった。
昨日になって急に微熱が出るようになった。それも朝。37度3分。微妙な熱だ、本当に。智恵子は大事をとって休ませてくれた。これほどホッとしたことはなかった。昼過ぎになれば熱は下がり、食欲も戻った。これなら明日から行けるわね、と言われたときにはウンザリしたけども。
ところが今朝。今度は37度4分の熱。
「ぶり返しちゃったのかしらねぇ……」
医者へ行ったほうがいいと智恵子は言ったが、今日は月曜日。あいにくいつも行っているかかりつけの病院は休診日だった。
「今日もおとなしく寝ているに限るわね」
そして、今に至るわけである。
「なんか……罪悪感」
由貴はため息をついた。
外では蝉が鳴いている。
「それにしてもさっきの中学生には驚かされたわぁ」
智恵子はエレベーターホールで独り言を言っていた。さっきの中学生、授業中のはずなのに屋上に出て抱き合っていた。
いつだったか、14歳の女の子が妊娠するというようなドラマをやっていた。まだ由貴が小さい頃だった。といっても小学校4年生のころだが。
「最近の子は大胆ねぇ……私たちの頃には考えられないことだわ」
2機あるエレベーターの1機が7階に到着したので智恵子は乗り込んだ。発車と同時に入れ違いでもう1機のエレベーターが7階に滑り込んできた。
「えっと……ここの7階だよね」
蓮沼 一樹は大きめの箱を片手にエレベーターを降りた。
「705号室……と。あったあった」
「もう一眠りしようかな……。眠れないけど」
由貴が布団にもぐりこんで目をつむった途端、インターフォンが鳴った。
(まさか……家にまで?)
由貴は恐る恐る覗き穴から表を覗き込んだ。
「!?」
大きな目が映っている。どうやら相手がこちらを覗きこんでいるらしい。
(違うよ、用途が)
しかしいつまでたっても目を離してくれないので由貴はしぶしぶ玄関に一番近い部屋の窓から誰なのかを確認した。
「あっ!」
クラスメイトの、蓮沼 一樹だった。
「蓮沼くん!? なんで!?」
由貴は慌ててパジャマを脱いで私服に着替え、髪を整えようとして気づいた。自分は病気で欠席ということになっている。
「あぁ、ダメだ! こんな綺麗な格好して出たらズル休みって思われちゃう……。あぁでもこんなみっともない格好で……出られない」
でもよく考えれば。
「ちょっとくらいボロボロのほうが病気らしくって……いいかも?」
そしてそれをキッカケにもっと優しくしてもらっちゃったりして!!
「キャーッ! このまま! ボロボロのままでいいや!」
「あれ? ひょっとして寝てるのかなぁ」
一樹はもう一度(使い方を間違えているが)覗き穴を覗き込んだ。同時にドアが開いて、思いっきりそれが一樹の額に当たった。
「あいでっ!」
「キャッ! ごめんっ!」
一瞬記憶が飛んだが、すぐに一樹はドアの内側から現れた由貴を見てニッコリ笑った。
「体調どう? 有働さん」
(キュン死に〜!)
由貴は一人でメロメロになっていた。
「どうしたの?」
一樹が不思議そうにこちらを見つめている。あまり変なことは考えていられない。
「あ、えっと……どうしたの?」
わかりきっていることをあえて由貴は聞いた。
「お見舞いにきました」
ニッと笑うと細い目がますます細くなった。
「入って!」
「へっ?」
「いまお母さんもいないし! 入って入って!」
由貴に押されるがまま、一樹は部屋の中へ入っていった。
「有働さん……」
「なに?」
「病気なんだから、寝てたほうがいいんじゃ?」
「あっ!」
一樹が来たのであまりの嬉しさに紅茶を準備している自分が恥ずかしくなった。
「そうだね、うん。私、病気だった」
「あとは俺がするから」
そういって由貴と交代で一樹が台所に立った。
一樹は学校でレスリングをやっている。身長は185センチもあるし、体重は80キロ近いらしい。しかも見た目が坊主頭で一重なもんだから、かなり威圧感がある。でも、芯は優しいいい人だ。以前、由貴が階段から誤って転落したとき、その体を生かして守ってくれた。もちろん、本人も怪我なし。それ以来、仲良くしている。
「……。」
手際よく調理する一樹。今日は制服のカッターシャツ姿だが、その下からでも鍛えられた筋肉の形が浮き出ている。
「なに考えてるんだろ……私のバカ」
「え? なんか言った?」
紅茶をお盆に載せて一樹が帰ってきた。
「ううん! なんでもない! それよりありがとう」
「いいってことよ。それより、俺も見舞いの品持ってきたから一緒に食べようぜ」
「え?」
よく見ると、お皿に乗っているのはマスクメロンだった。
マスク。
仮面。
(学級委員長だからって、いい子の仮面でも被ってるわけ?)
アイツの声が蘇ってくる。
「有働さん?」
「!」
一樹の声に我に返った。
「どうしたの? 熱、また出てきた?」
心配そうに由貴の顔を覗き込む一樹。ドキッとしてしまう。こんなに一樹の顔を近くで見たことはない。
「ううん……なんでもない」
「そう……」
しかし、一樹はまだ目線をはずさない。
(えっ!?)
そのまま一樹は目をつむり、口を由貴のほうへ寄せてきた。
(ちょ、うそ!? あ……)
無抵抗のまま、一樹の唇が由貴の唇に重なった。
「……これで風邪、治るよ」
「は?」
「俺が風邪、もらったから」
「……。」
「ちょっとクサかったかな?」
あっという間に一樹の顔が赤くなる。
「全然! おもしろいね、蓮沼くん」
由貴がクスクス笑っていると、急に何か重いものが乗りかかってきた。
「ふぇ!?」
由貴をギュッと抱きしめている一樹の姿が目に入ってきた。そして、一樹がそのまま制服のボタンを外している。
(はい!?)
その服の下から、一樹のガッシリした胸板が見えた。
(はわわわわわ〜! あわわ、ちょ、待って! なに考えてんのよぉ!)
「ストーップ!」
次の瞬間、由貴は思いっきり一樹の頬をはたいていた。
「あっ……」
「……痛って」
低い声で一樹が立ち上がる。
「ご、ごめんなさい……」
「……ダメなのか?」
制服が半分脱げた状態で、一樹が寂しそうに言った。
「ダメって……決まってるじゃない」
「キスはいいのに?」
ボン!と音を立てたかのように由貴の顔が赤くなった。
「最低!」
思いっきり一樹に枕を投げつけた。バシッ!と音を立てて一樹の顔面に枕が直撃した。
「優しそうな顔して急にあんなことして……。男ってみんなそうなの? 優しそうな仮面つけて実はエッチなことばっかり考えてるんでしょ!?」
一樹は顔を由貴以上に赤くして立ち尽くしている。はだけた制服のボタンを留めて、立ち上がった。
「悪かった」
一言そういって、玄関へと歩き出した。
「でもよ、有働」
最後に振り返り、言った。
「お前も仮面、つけてたんじゃねぇの?」
「……つけてない」
「……我慢のしすぎは良くないぞ」
そこから先は、答えなかった。
バタン、と音がしたあとは静寂が由貴を包み込んでいた。マスクメロンの強い甘い香りが由貴の鼻に届く。
「全部バレてんじゃん……ハハハ」
由貴は一樹が用意してくれたマスクメロンを口にした。
甘いはずなのにしょっぱかった。