02.猟犬
先行していたエリスが、不自然に足を止めた。その細い肩が、微かに強張る。
「カイル、こっち……」
抑揚のない声だが、エリスは何かに気付いたようだ。
少女も渡された枝を地面に突き立て、必死に俺たちの背を追って茂みへ踏み込む。
そこには、二つの骸があった。
一人は大樹にもたれかかったまま、首を真横から両断されている。
もう一人は水溜まりに顔を埋め、背中から無数の矢を突き立てられていた。
俺たちには、どちらも見覚えがある。
「別働隊の奴らか……」
バッシュが声を殺して呟いた。
彼らは俺たちの「囮」として、別ルートの街道を馬車で派手に駆けているはずの連中だ。
熟練の傭兵たちが道を間違えるなんて愚は犯さない。
それがなぜ、こんなところで転がっているのか。
俺が倒れている男の傷口を覗き込むと、争った形跡はほとんどなかった。
鋭利な刃物による一撃。それも、山賊たちが使うような代物ではない。
背後で、少女が小さく息を呑む音が聞こえた。
「囮がここで死んでいるということは、追っ手は最初から俺たちのルートを知っていたということだ」
その時、エリスの耳がピクリと動いた。
彼女が即座に手で合図を送る。
雨音に混じって、周囲の木々が擦れる音が聞こえた。
――4人、いや5人!!
俺は腰の長剣を抜き放ち、即座にバッシュが少女を自分の影に隠し、ルークがその背後に回る。
「エリス、奴らを黙らせろ!」
俺が吠えると同時に、エリスが詠唱を口にした。
「――『静寂の檻』!」
雨音を風の壁が遮断し、外の喧騒が遠のく。
完全に音が消えたわけではない。
俺たちの足音や息遣い、そして俺の指示だけが鮮明に仲間に響き渡る。
エリスが風を操り、敵の足音と雨音を間引いたのだ。
彼女の顔が苦痛に歪み、鼻から一筋の血が垂れる。
指示が終わるより早く、ルークが動いていた。
隣の茂みが揺れた刹那、ルークの長槍が音もなく突き出される。
喉笛を貫き、穂先が裏側まで突き抜けた男は、絶叫さえ許されず口から血の泡を吐いて沈んでいく。
残りの暗殺者たちが散開する。
音が消えた異常を察しながらも、奴らは俺たちの命を刈りに来る。
「死ねよ、クソ野郎どもが!!」
ルークの怒号だけが、この奇妙な静寂の中で鋭く響く。
「くっ……! カイル、長くは持たないわ!」
エリスの苦しげな声が響く。
俺は少女を背中で庇い、正面から躍り出た敵の剣を長剣の腹で受け流した。
「バッシュ、荷物から離れるな! ルーク、右を空けろ!」
エリスの魔法のおかげで、指示は乱戦の中でも迷いなく仲間の耳に届く。
俺は包囲の薄い右前方へ突っ込み、迎撃に立つ暗殺者の剣を半身でかわしてその腕を斬り飛ばした。
男の口が大きく開かれるが、やはり音は漏れない。
態勢を崩した俺は、そのまま地面を転がりながらもう一人の腹に剣を突き立てる。
結界の内側に閉じ込められた、俺自身の荒い呼吸音だけがやけに大きく耳に響いた。
「くっ、ああああっ!」
エリスの限界が来た。
彼女が膝をつくと同時に、風の結界が砕け散る。
凄まじい雨音と敵の怒号が一度に戻り、鼓膜を激しく叩いた。
音が戻ったことで、暗殺者たちの動きが一瞬止まる。
「終わらせるぞ!」
俺の声を聞き、暗殺者たちが再び襲いかかる。
俺に腕を切られた手負いがバッシュに向かうが、返り討ちに遭って切り伏せられた。
奴らに迷いはない。
数で劣っていようが、刺し違えてでも少女を殺す――その一点に特化した訓練された動きだった。
暗殺者たちは示し合わせたように左右に展開し、俺を無視してバッシュへ突撃する。
生きて帰る気などないのだろう。
その身でバッシュの剣を受け止め、その後ろからもう一人が少女を狙って飛び込んできた。
「惜しかったな」
ルークの槍が、バッシュを死角にして暗殺者を突き刺し、絶命させる。
捨て身でバッシュの剣を抑えたもう一人も、俺が切り捨てた。動くものは、俺たち以外にいなくなった。
俺は剣の血を払い、顔にへばりついた泥を手の甲で拭った。
ふと見ると、少女が座り込んだまま俺を見上げていた。聖教会の法衣は泥と返り血で汚れきっている。
俺は彼女の前に膝をつき、荒い息を整えて声をかけた。
「怪我はないか?」
少女は答えず、細く震えた手を伸ばした。冷たい雨に打たれていたはずなのに、その指先だけが驚くほど熱い。
クション、と掠れた声がこぼれる。
「あなたも……、大丈夫ですか……?」
「行くぞ。ここはすぐに次の追手が来る」
俺はあえて突き放すような声で言い、彼女を立たせた。
「エリス、歩けるか。バッシュ、先行しろ。ルークは戦闘の痕跡をできるだけ消せ」
俺たちは再び、泥の森の中へと歩き出した。
◇
ようやく辿り着いたのは、地図にも載らない岩壁の裂け目だった。
バッシュは岩の入り口で雨粒を払いながら、外へと視線を投げる。
「俺が一番手だ。後でルークと交代する。焚き火の光を外へ漏らすな。火は極限まで絞れ」
バッシュは短く告げると、音もなく雨の中へ戻った。
エリスは魔法の反動と寒さで土色の顔をし、岩壁に背を預けたまま力なく崩れ落ちて眠りに落ちる。
ルークも壁にもたれ、槍を抱いたまま浅い眠りに入った。
淡い焚き火を囲み、俺は少女と二人きりになった。
火が大きくなりすぎないよう、薪を組み直す。
「手が、震えています」
俺は自分の膝に置いていた拳を見た。指先が微かに震えている。
「死線を越えた後の、身体の軋みだ」
「嘘です」
少女は俺の横まで這い寄り、その細い指で俺の拳に触れた。
泥と返り血で冷えきった俺の指を、彼女は自分の体温で溶かすかのようにしっかりと握り込む。
「とても疲れています。私を守るために、心を削っているのが分かります」
「何が言いたい」
「私を、ただの『荷物』として扱ってください。その方が、あなたは楽になれる」
鬱陶しさを感じて、俺は短く突き放した。
「黙って、温まってろ」
「そう……ですね……」
少女は消え入りそうな声で呟き、それからこう付け加えた。
「……でも、この火が消えるまでの間だけでいい。私を、本当の名前で呼んでくれませんか?」
「フィオラ、と言います。母が呼んでくれていた名前です」
「……寝ろ。夜明けに出る」
少女は俺の手を握ったまま眠りについた。
浅い呼吸が規則正しく拳に吹きかかっている。
時折、寒さに耐えかねて身を震わせるたび、湿った衣擦れの音が重苦しく響いた。
結局、俺は少女の前ではその名を口にしなかった。
口にすれば、このガキをただの「荷物」として切り捨てることはできなくなる。
だが、少女が俺の手に頬を寄せたまま眠る姿を見てしまい、魔が差した。
「……フィオラ」
独り言のように漏れたその名は、外の雨音に掻き消されて消えた。
少女が深い眠りに落ちたのを確認し、俺は懐から防水布に包まれた地図を取り出した。
光が漏れぬよう自分の体で熾火を隠し、目を凝らす。
目的地までの経路を指でなぞる。
土砂崩れの恐れがある狭路、視界の開けない谷底、そして暗殺者たちの影。
その微かな衣擦れの音に反応して、ルークが薄く目を開けた。
「……ん? カイル、何を見てる」
俺は無言で地図をルークの手元へ寄せた。
ルークは身を乗り出し、細く描かれた谷筋とその先を指でなぞる――ところで、ピタリと指が止まった。
「出口が、ねえ」
ルークの低い声が、焚き火の爆ぜる音に混じる。
俺は無言で地図を握りつぶした。
「ああ。嵌められたな、俺たちは」
ギルドに裏切られたのか、依頼主が嵌めたのか。あるいは、両方か。
その言葉と同時に、入り口からバッシュが戻ってきた。
その顔には、今まで一度も見せたことのない不気味なほどの警戒が張り付いている。
「外の音が消えた。追ってきた連中の足音が、何一つ聞こえない」
嫌な予感が肌を刺す。
俺たちは、少女を指定の場所で殺させるための「ただの使い捨ての駒」として利用されたのだと確信した。
俺は泥のように眠るエリスの青白い顔を見た。
魔法の代償を払った彼女の消耗は激しい。
ここで動かせば致命的になるかもしれないが、ここに留まれば全員が確実に終わる。
「ルートを捨てる。夜明けを待たずに出るぞ!」
「あ? 契約違反だろ」
ルークは軽口を叩いたが、槍を掴むその目はすでに承諾の色を帯びていた。
「命を張るのは俺たちだ。バッシュ、エリスを背負え。死ぬ気で運び切れよ。俺が『荷物』を背負っていく」
俺は眠っている少女を強引に揺り起こし、その小さな腕を自分の首に回させた。
バッシュがエリスを背負うと、彼女はバッシュの肩に顔を埋め、消え入りそうな声でこぼす。
「……ごめんなさい。足手まといだわ……」
「いいか、これからは俺の勘だけで動く。依頼主も、ギルドも、教会も信じない」
俺は少女を背負い、土砂降りの森の中へと足を踏み出した。
地図から消された、道ですらない廃道の方角へ――。




