受付の窓
東都中央病院の脳神経外科には、朝七時より前に灯る窓が一つあった。久世朔の診察室である。夜勤明けの看護師が廊下を通ると、白いカーテンの向こうに机へ向かう影が見えた。病院の正面玄関が開くころ、その影はもう手術室へ移っている。誰も久世の出勤時刻を知らなかった。
受付の長い列に、紺色の帽子をかぶった女性がいた。六十二歳の有馬澄江。半年ほど前から、名前を思い出せない時間が増え、昨日は自宅の台所で道に迷った。付き添う娘は紹介状を何度も折り直し、角を白くしていた。ほかの病院で治療の難しさを告げられたあと、二人はここへ来た。
診察室の隅には小さなカレンダーが掛かっていた。今日の日付に印はない。久世は毎朝、手術予定より先に患者の検査値を読む。書類の上で数字を見分けるあいだにも、廊下では家族の足音が行き来していた。春菜は母が座りやすいよう椅子を引き、母は礼を言った。そんな何気ない動作さえ、二人には以前より難しくなっていた。医師はその様子を見て、話し始める時機を少し待った。
久世は画像を見て、娘に先に話をさせた。食卓で何が起きたか。母が好きだった歌を忘れたとき、家族はどうしたか。澄江自身は窓の外を眺めていたが、質問されると小さな声で「家の鍵の場所は覚えています」と答えた。久世は頷き、検査結果のどこを指しているのか分からないほど静かな指で一か所を示した。
「治せます」。娘はすぐには返事ができなかった。聞き間違いだと思ったのだ。久世は同じ言葉を繰り返さず、手術前に確認すべき危険と入院の日程を説明した。言い終えると一枚の紙を裏返した。そこには治療の先に待つ別の危険が、病院の書式ではなく、久世自身の文字で記されていた。澄江は眼鏡をかけ直し、娘より先にその紙へ手を伸ばした。




