三途の川の憂鬱(ゆううつ)な窓口業務㈠
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
春のうららかな陽光が、横浜市上区朱鳥二番地の街並みを優しく、そしてどこか気高く包み込んでいた。港の見える丘公園から吹き抜ける微かな潮風が、異人館や洋館の立ち並ぶ静謐な住宅街の木々を揺らしていく。なだらかな丘を下れば、活気あふれる元町商店街や海に面した山下公園が広がっているが、この高台はまるで俗世の喧騒から完全に切り離された聖域のようだった。歴史の重みと静寂を感じさせる外国人墓地や、豊かな緑を抱く元町公園に囲まれたその中心に位置するのが、古くから名門のお嬢様学校として名高い朱鳥女子大学である。周囲には同様の格式と伝統を誇る女子校が三校も集まっており、まさに深窓の令嬢たちが集う花園と呼ぶにふさわしい、洗練され尽くした環境が整えられていた。
文学部心理学科の二回生である菱倉新子は、その華やかな花園の中でもひときわ目を引く、圧倒的な存在感を放っていた。艶やかなカラスの濡れ羽色をした長い黒髪は、彼女が歩くたびにサラサラと微かな音を立てて美しく揺れる。透き通るような白い肌と、切れ長で涼しげな瞳。姿勢は常に凛と伸び、その所作の一つ一つには確固たる血筋の良さが滲み出ていた。
それもそのはずである。彼女は、昭和初期から財閥として名を馳せてきた菱倉商事の会長一族の令嬢なのだ。菱倉家は横浜市下区芦屋十番地という高級住宅街に広大な豪邸を構えているだけでなく、大学近辺にある高層マンション「プレステージ友が丘」の最上階のペントハウスすら所有している。現在の菱倉商事は、絶対的な権力を持つ会長である祖父の剛蔵を筆頭に、社長である父の慶太、そして祖父の娘である母の朋美が中核を担っていた。さらに新子には、すでに人事部で働いている二十三歳の優秀な兄、剛志がいる。親族関係は複雑であり、別邸には祖父の妾である小嶽雪美の息子、すなわち新子の叔父にあたる専務の勉がいた。勉の妻は過去に謎の死を遂げており、一部では自殺ではないかと囁かれているが、その真相は菱倉家の深い闇の中に沈んでいる。勉には、外商部で働く二十四歳の息子である友貴哉と、朱鳥女子大学の三回生であり新子の従姉にあたる二十一歳の香々美という子供たちがいた。
こうした複雑で重圧のある一族に生まれ育った新子は、二十歳という若さでありながら、纏う空気がどこか達観していた。同世代の学生たちがキャンパスライフを謳歌し無邪気にはしゃぐ姿を、彼女はいつも静かな、それでいて少しだけ距離を置いた微笑みで見守っている。周囲から完璧な「お嬢様」であることを常に求められ、自身もその過酷な期待に応えるべく、その役割を寸分の狂いもなく完璧に演じ切っていたのである。
その日の午後、新子はふとした気まぐれから、大学の校舎の屋上へと一人で足を運んでいた。普段は学生の立ち入りが禁じられており、厳重に施錠されているはずの重い鉄扉が、なぜか今日に限ってわずかに隙間を空けていたのだ。まるで何かに吸い寄せられるように屋上に出ると、眼下には横浜の美しい街並みと、その向こうに広がる太陽の光を反射してきらめく青い海が一望できた。強い風が彼女の長い黒髪を大きく煽る。フェンスのそばに立ち、大きく深呼吸をして、都会の喧騒を遠くに聞きながら静かに目を閉じた。
その時だった。
背後に、微かな靴音が響いた。
新子が振り返るよりも早く、何者かの手が彼女の華奢な背中に触れた。それは、力任せに突き飛ばすというよりも、ただそっと、どす黒い悪意の塊を押し付けるように押し出すような、奇妙に静かでひどく冷たい感触だった。
「えっ……!」
声に出して驚く間もなかった。ヒールのバランスを崩した新子の体は、あっけなくフェンスを越え、虚空へと放り出された。
重力が彼女の体を無慈悲に下へと引っ張る。青い空が急速に遠ざかり、校舎の無機質な壁面が猛スピードで目の前を通り過ぎていく。風の音が耳元で凄まじい轟音に変わった。一体誰が? 何のために? 恐怖よりも先に、強烈な疑問が脳裏をよぎった。しかし、答えを考える時間は与えられない。コンクリートの地面が恐ろしい勢いで迫ってくる。全身を叩きつける凄まじい衝撃。生々しい骨の砕ける音。そして、新子の意識は一切の光が届かない深い闇の中へと急速に沈んでいった。
けたたましいサイレンの音が横浜の街を引き裂いた。救急車で運ばれた先は、最新の医療設備を誇る大学病院の高度救命救急センターだった。ストレッチャーの上で血に染まり、意識を失ったままの新子を囲み、医師や看護師たちが緊迫した表情で懸命の蘇生措置を行っている。心電図のモニターが不規則な電子音を刻み、医療器具の冷たい金属音と切羽詰まった指示を飛ばす声が飛び交う。
しかし、その凄惨な光景を、部屋の隅から冷ややかに見下ろす一つの影があった。
漆黒の外套に身を包んだ、この世の者ではない存在。冥府において魂の管理者であり、三途の川への案内人でもある「死神」である。死神とは、人に取り憑いて死に至らしめる神であり、死者の魂を速やかに冥界へ送るためのシステムの一部であった。彼らは「黒き学び舎」と呼ばれる冥府の過酷な訓練校の卒業生である。
冥府法典・黒き学び舎編によれば、本校は冥府の絶対的秩序を維持・遂行するため、一切の私情を排し、ただ命令のみに忠実な魂の番人を育成することを唯一の目的としている。死神とは冥府の秩序を維持するための機能であり、個としての意志を持たぬ完全なる道具を指す。彼らにとって感情とは、魂魄に生じるバグの一種であり、合理的判断を阻害する、排除されるべき汚濁とみなされていた。愛情、友情、同情、恐怖、憎悪など、その一切を持つことは許されない。「個」とは魂が持つ固有の性質であり、均一化を妨げる、除去されるべき変数とみなされ、生前の記憶や性格、価値観など一切を千年の訓練期間を通じて完全に消去することが義務付けられていた。同情や躊躇、任務遂行に不要な感情を表出させた者は懲罰房における再教育を受け、任務の失敗や失態が三度に達した場合は、不良資産とみなされ完全消滅処分に処されるという過酷な掟が存在している。
死神は、モニターの波形が完全に平坦になり、甲高い警告音が鳴り響くのを確認すると、手元の名簿に無機質な印をつけた。新子の魂は今まさに肉体から切り離され、因果の法則に従って冥界へと送られようとしていた。それが、寸分の狂いもない宇宙の調和であり、絶対的なルールの帰結であった。生死に対して無気力であり、他者への関心を一切持たない虚無の魂。それが死神というシステムであった。
一方、その頃。人間界とは次元を異にする、未知の異次元世界である冥界。
死者の魂が、生前の善悪に関係なくたどり着くその場所は、暗く、冷たく、そして圧倒的な静寂に支配された霊的な空間であった。地獄は冥界の一部であり生前の罪人が罰を受ける苦痛の場所であるが、冥界自体は死後の世界全体を指す包括的な概念である。初七日の秦広王から始まり、三十七日の宋帝王、五十七日の閻魔大王へと続く厳しい裁判所のプロセスが待ち受けている。その入り口とも言える三途の川のほとりは、極めて特異な環境だった。
そこは無色であり、ただ白と黒だけが存在する世界。無臭であり、いかなる痛みも存在しない無痛の空間。川の流れの音や、渡し船が櫓をこぐ音さえ一切存在しない、完璧な静寂が支配している。気温や湿度、明暗を意識することはなく、季節の移ろいもなければ朝昼晩という時間の概念すらない。菌やウィルスは存在しない極めて衛生的な環境であるため、洗顔や洗髪、洗体といった行為は一切不必要であった。動きがあるものといえば、ただ死神に連れられて茫然と歩く亡者の群れと、音もなく流れる川、船の動き、そして何故か常に吹いている微風がある程度だった。
そんな色彩と感覚が完全に欠落した世界の受付カウンターに、一人の女が気怠そうに座っていた。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




