風詠みの谷へ
翌朝。
灰ノ原の果てに広がる大森林「風の通り道」の入り口に、エルネストたちの姿があった。
「ここから先は馬車が入らないわ。徒歩での行軍になる」
一行の先頭に立つアイラが言った。
朝の光を浴びた彼女のアッシュグレーの髪が揺れる。へそ出しの民族衣装から覗くしなやかな肢体は、森の緑と不思議なほど調和していた。
「……あの格好、寒くないんでしょうか」
防寒具をしっかり着込んだクララが、フードの奥からアイラをしげしげと見つめて呟いた。
「風を詠むためには、肌で直接風を感じる必要があるのよ。それに、動いていればすぐに温かくなるわ」
アイラは振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。
「エルネストも、私のタトゥーや肌に興味津々みたいだしね」
「タトゥーというか、肌に刻まれた部族固有の意味伝達図形だ。口笛による音声言語と、図形による視覚言語がどうリンクしているのか、非常に興味深い。もっと近くで見せてくれないか」
エルネストはメモ帳を片手に真顔で答えた。
「相変わらずの朴念仁ですね、先生は」
ティアが少しだけむっとした顔で、エルネストとアイラの間に割って入る。これ以上師匠の視線がアイラの露出に向けられるのは我慢ならなかったらしい。
「さあ、出発しましょう。魔獣がいつ出てくるか分からないんですから」
* * *
大森林に足を踏み入れると、空気は一変した。
木々が鬱蒼と生い茂り、昼間でも薄暗い。どこからともなく奇妙な鳴き声や、枝が折れる音が聞こえてくる。
「——ピュィ、ヒョロロロ……」
アイラが歩きながら、定期的に短く複雑な口笛を吹いた。
それは周囲の木々に反響し、数秒遅れて戻ってくる。
「エコーロケーション(反響定位)かな。いや、それにしては音の戻り方を解析しているというより、森全体と会話しているような……」
エルネストがぶつぶつとつぶやく。
「その両方よ」
アイラが足を止め、弓を構えた。
「三十メートル先の左。四つん這いの魔獣が三頭、待ち伏せしてる」
「三十メートル!? 僕の探知魔法でもまだ届かない距離ですよ!」
テオが驚嘆の声を上げた。
「口笛の音の跳ね返りで、空間の微かな歪みを感じるの。……来るわよ!」
アイラの警告と同時に、茂みの中から三頭の鋼牙獣が飛び出してきた。
「やらせるか! ルルルルルゥゥッ!」
ライナーが訛り全開の振動詠唱を放つ。広がった電気の網が、空中の魔獣一頭を捉え、痺れさせて地面に叩き落とした。
「シュ、フッ!」
クララの無声音詠唱が続く。声帯を震わせない純粋な息の刃が、二頭目の魔獣の足を的確に切断する。
「貫きたれ、水よ!」
最後はティアの完了相による水弾が、残る一頭の頭部を完璧に粉砕した。
戦闘開始からわずか五秒。
「……すごいわね、あなたたち」
アイラがひゅっと短く息を吸い、感嘆の声を漏らした。
「エルネストの魔法がすごいのは結界で見たけれど、弟子たちもこんなデタラメな威力を持ってるなんて。詠唱の形も、それぞれ全く違うじゃない」
「僕が教えたんだ」
エルネストは事もなげに言った。
「言語体系は一つじゃない。その人の個性と身体構造に合った言語(魔法)を使えば、世界はちゃんと応えてくれる」
「……」
アイラはエルネストの言葉を噛みしめるように彼を見つめた。
王国の魔導士は、自分たちの標準語だけが「正しい魔法」だと信じて疑わなかった。だが、目の前の青年は全く異質だ。全ての在り方を肯定し、その真理を紐解こうとしている。
「エルネスト。あなたなら本当に……バベルの狂気から、私たちの部族を救えるかもしれない」
アイラの言葉には、先ほどまでの快活さとは違う、切実な響きがあった。
「必ず救う。そのためにも、まずは君の部族の長老に会って——」
ズウンッ……。
突如、森の奥から重低音が響いた。
魔獣の咆哮ではない。空気が極限まで圧縮され、一気に解放されたような、異常な破裂音。
「なんだ、今のは」
レオンハルトが杖を構え、表情を険しくした。
「……隠れ谷の方角よ。嫌な予感がするわ!」
アイラの顔が青ざめる。彼女は再び探知の口笛を吹き鳴らしたが、その音は奇妙に歪み、空中で霧散してしまった。
「口笛の反響が……かき消された?」
エルネストも異変に気づいた。
「周辺の空気が、マナに汚染されている。それも、極めて純度の高い……人工的で暴力的なる魔力でだ」
レオンハルトの言葉に、エルネストの脳裏に一つの可能性が浮かび上がった。
「王国の人間が、この深森に……?」
「鎮語官……!」
ティアの声が震えた。
「急ごう。アイラ、谷はどっちだ!」
「こっちよ! ついてきて!」
一行は警戒を解き、アイラの先導で森の奥へと走り出した。
風の通り道の奥深く、風詠み族の隠れ谷に、すでに「言葉狩り」の魔の手が迫っていた。




