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魔法が全く使えない「言語学者」、異世界の古代語を解読したら全ての呪文の"誤訳"に気づいてしまった  作者: なは
第6章:完了形の必殺技

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未知の抱合語と風詠みの少女

 陽が完全に昇り、灰ノ原の荒野が明るく照らし出された。


 魔獣の群れは完全に散り、局地魔法による結界碑石の輝きも、役目を終えて静かに元の苔むした石へと戻っていた。


「……信じられん。誰も死ななかったどころか、怪我人も出ていないぞ」


 グスタフが自分の両手を見つめながら呟いた。


「俺たちの炎弾が、あんなに分厚い弾幕になるなんて。それに、あの最後の結界……」


 自警団の面々から歓声が上がる。それはこれまでの絶望的な防衛戦とは違う、初めての「生存を確信した」歓びの声だった。


 だが、その歓喜の輪から少し離れた場所で、ただ一人、別の意味で熱気を帯びている男がいた。


「素晴らしい。本当に素晴らしいよ、アイラ」


 エルネストである。彼は手に持ったメモ帳に恐ろしい速度で文字を書き込みながら、出会ったばかりの少女に詰め寄っていた。


「さっき崖の上で吹いた口笛、もう一度お願いできるかな。あの『風』『射抜け』『右目』『速く』が一つの音のうねりに圧縮されていたフレーズ。いや、できれば最初のアルファ個体に命中させた時の短音から……」


「ち、ちょっと待ってよ。なんなの、あなた」


 アイラは戸惑いながら後ずさりした。王国の魔導士といえば、自分たち少数民族の言葉を「野蛮な呪術」と見下す傲慢な連中ばかりだった。しかし目の前のこの灰色の目をした青年は、蔑むどころか、獲物を狙う鷹のような恐ろしい熱量で彼女の「口」を見つめてきている。


「ごめんねアイラさん。この人、未知の言語を見ると周りが見えなくなるんです」


 ティアが呆れたようにため息をつき、エルネストとアイラの間に割って入った。


「僕は純粋に学術的な興味を——」


「後でゆっくり聞けばいいじゃないですか。ほら、アイラさんも困ってますよ」


 ティアはアイラに向き直り、優しく微笑んだ。


「私はティア。エルネスト……先生の弟子です。さっきは魔獣を倒してくれてありがとうございました。あなたの魔法、とても綺麗でした」


「魔法……」


 アイラは少し驚いたようにティアを見た。


「王国の人たちは、私の口笛を『魔法』とは呼ばないわ。ただの鳥の真似事、野蛮人の呪いだって」


「野蛮だなんて、とんでもない!」


 エルネストがティアの肩越しに身を乗り出した。


「君の使う口笛言語ホイッスル・ランゲージは、極めて高度な情報圧縮技術だ。それを野蛮だと言う奴は、言語学の初歩すら理解していない無知の極みだよ」


 アイラは目を丸くした。そして、ふっと小さく笑みをこぼした。


「……変わってるのね、あなた。私たちの『守り手』の言葉を知っていたし」


「もしよかったら、僕たちの拠点に来ないか? 温かい食事も用意してある。代わりに、君の『言葉』について少しだけ教えてほしいんだ」


 アイラは少し迷ったが、やがて頷いた。


「……いいわ。私も、あなたの魔法には興味があるから」


     * * *


 旧鉱山事務所の食堂。


 温かいスープと黒パンが振る舞われる中、エルネストは食事もそこそこに、黒板を広げて「フィールドワーク」を開始していた。


「——なるほど。ピッチの高低差による二値分類ではなく、連続的な周波数のスライドで意味単位を切り替えているのか。これはすごい」


 エルネストはチョークを走らせ、アイラが吹いた口笛の「波形」を音符とグラフが混ざったような独自の記号で可視化していく。


「君たちの言語体系は『抱合語ポリシンセティック』だ。名詞、動詞、修飾語といった要素がそれぞれ独立して並ぶ僕たちの言葉と違って、君たちはベースとなる一つの『動詞の幹』に、主語や目的語の要素を接辞としてパズルのように合体させる」


「……」


「しかもそれを、発声による単語ではなく『口笛の音程とリズム』に置き換えた。母音も子音もない、純粋な周波数変化の言語。これなら、距離が離れていても森の雑音に紛れずに遠くまで届く。狩猟生活において進化した究極の実用言語だ」


「先生、すっごく早口で嬉しそうに喋ってますね……」


 ライナーがスープを飲みながら引きつった笑いを浮かべた。


「エルネスト。その口笛の魔法が、私たちの使っている魔法とどう違うんですか?」


 ティアが少しだけ不満げに(自分ではなくアイラばかりを見ている師匠への微かな抗議を含ませて)尋ねた。


「全く別のツリーから進化した魔法、ということだ」


 エルネストは解説モードに入った。


「僕たちの使う古代語は、一つの単語が一つの意味を持つデジタルな言語だ。だから、バベルのような『言葉を歪める厄災』が存在する場合、文法のパーツが一つ欠けるだけで魔法は劣化する」


 エルネストは黒板に描いた波形を指差した。


「だがアイラの口笛は違う。全てが繋がった一つの波、アナログな言語だ。千年前のバベルの影響を受けていない、全く独立した言語体系なんだよ」


「バベルの……影響を受けない」


 レオンハルトが目を細めた。


「つまり、管理部が恐れている『言語の崩壊』から外れた例外、ということか」


「そういうことになる。だが、これだけ完成された抱合語を構築・伝承している風詠み族が、なぜ今まで表舞台に出てこなかったんだ?」


 エルネストの問いに、アイラはスープの器を置いて少しうつむいた。


「……出られなかったのよ」


 アイラの表情に、先ほどの俊敏な狩人としての顔とは違う、年相応の影が落ちた。


「私たちの部族は元々、あの灰ノ原の奥、風の通り道と呼ばれる大森林で暮らしていたわ。でも、王国が鉱山を開拓し始めて、土地が削られた。それだけじゃない。最近……ここ数年で、バベルの『歪み』の影響なのか、森の魔獣が異常繁殖して狂気にとりつかれ始めたの」


「魔獣の異常繁殖……」


「私たちは住処を追われた。生き残っている風詠み族の数は、もう五十人もいない。今日私がここに来たのも、結界が破れて街が魔獣に襲われていると聞いたから。街が落ちれば、魔獣の波は私たちの隠れ谷にも押し寄せてくる」


 アイラの告白に、食堂は静まり返った。


「……そうか。僕が直すべき結界は、この街だけじゃないんだな」


 エルネストはチョークを置いた。


「直せるの?」


 アイラが縋るように顔を上げた。


「さっきみたいに、壊れた碑石を全部起こしてくれるの?」


「現在、完全に動作しているのは十六基中四基。残留魔力を使って僕が一時的に起こせる——局地魔法が使えるのが八基。だが、残りの四基は完全に文法構造が消滅していて、再起動の手がかりすらない。その四基の『方言の文法』さえわかれば……連鎖的に全ての結界を、永遠に維持可能な状態(永久完了相)で上書き修復できるかもしれないんだが」


 エルネストは、ゲルハルト学院長から託された革装の冊子「封印碑銘録」を取り出した。


「アイラ。君の部族に、昔から伝わる『歌』や『古い口笛の旋律』はないか? 街の結界を築いた千年前の魔導士は、君たちの言葉(方言)をベースに碑文を刻んだ。なら、失われた文法の最後のピースは——風詠み族の伝承の中にあるはずだ」


 アイラは少し考え込み、やがてハッとしたように顔を上げた。


「……あるわ! 一番古い口笛。『春の風を留める歌』。意味はわからないけれど、私たちの部族の長老だけが知っている、とても長くて複雑な旋律!」


 エルネストの目に、再び強烈な光が灯った。


「その長老に会わせてくれないか。隠れ谷まで僕が行く」


「ええっ、あなたが? でも、森の奥は魔獣だらけよ」


「問題ない」


 エルネストは立ち上がり、弟子たちとレオンハルトを順番に見渡した。


「僕には、優秀な護衛がたくさんいるからね。——明日の朝一で出発する。灰色の教室の全員で、風詠みの谷へのフィールドワークだ」


 ティアが嬉しそうに「はいっ!」と返事をし、レオンハルトが「また俺を護衛扱いか」と呆れながらも口角を上げた。


 言語学者の辞書に、停滞という文字はない。


 未知の言語の先に、この街と、風詠みの少女を救う鍵がある。


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