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魔法が全く使えない「言語学者」、異世界の古代語を解読したら全ての呪文の"誤訳"に気づいてしまった  作者: なは
第6章:完了形の必殺技

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灰色の教室

 灰ノ原に着いて三日が経った。


 旧鉱山事務所は、想像していたよりもずっと広かった。二階建ての石造りの建物で、かつては数十人の鉱夫たちが詰めていたらしい。一階の大広間が教室になり、二階の小部屋が宿舎になった。


 窓から見える景色は、学院の整然とした石庭とは似ても似つかない。灰色の荒野がどこまでも続き、ところどころに廃坑の暗い口が開いている。風が吹くたびに細かい土埃が舞い、窓枠に灰色の粉が積もる。


 それでも——嫌いじゃなかった。


 学院の地下にあった貯水槽の教室は、天井が低くて息苦しかった。ここは空が見える。それだけで十分だった。


「先生。灰ノ原の魔導士たちが集まりました」


 ティアが大広間の入口から顔を覗かせた。


「先生はやめろ」


「嫌です。先生は先生ですから」


 ティアの微笑みに苦笑を返して、エルネストは石板の前に立った。


     * * *


 集まったのは九人だった。


 灰ノ原に駐留する自警団の魔導士たちだ。大陸辺境の鉱山都市に正規の魔導騎士団は配備されていない。代わりに、町の住民の中で魔力を持つ者が自警団として防衛に当たっている。


 判定はD判定が二人。E判定が五人。残り二人は判定すら受けていないらしい。


 年齢はまちまちだった。四十代の元鉱夫から、十五、六歳の少年少女まで。共通しているのは、全員が疲弊した顔をしていることだ。


「灰ノ原で魔導士をやっている者です。……正直に言うと、期待半分、疑い半分で来ました」


 四十代の男が口を開いた。自警団長のグスタフ。鍛冶師の手を持つ、がっしりした体格の男だ。


「王都からの魔導士なんて初めてだ。おまけに学院を追い出されたと聞いている。そんな連中が、俺たちに何を教えるっていうんだ」


 後ろで聞いていたレオンハルトが微かに殺気を発した。エルネストは手で制した。


「ごもっともです。口で言っても仕方がない。——ティア」


「はい」


「グスタフさんの使い魔法は?」


「俺は火だ。火属性のD判定。もっとも、まともに使えるのは炎弾(フレイムバレット)くらいだがな」


「炎弾を一発、放ってもらえますか。あの壁に向かって」


 エルネストが指差したのは、大広間の奥にある訓練用の石壁だった。以前は鉱石の積み出しに使われていた分厚い壁だ。


 グスタフは怪訝な顔をしたが、杖を構えた。


「火よ集え、我が手に宿れ、敵を焼き尽くす紅蓮の炎となりて、いざ放たん。炎弾(フレイムバレット)


 炎弾が放たれた。石壁に着弾し、赤い火花を散らす。壁の表面がうっすらと黒ずんだ。


「……まあ、こんなもんだ。せいぜい鋼牙獣の皮を焦がすのが精一杯でな。殺すには至らん」


 エルネストは頷いた。予想通りだ。聞き慣れた——千年間、劣化し続けてきた詠唱の、典型的な特徴。


「グスタフさん。三箇所だけ直していいですか」


「三箇所?」


「はい。呪文の文法を三箇所。意味は同じです。語順と、動詞の活用形だけ変えます」


 石板にチョークで書いた。


 『火よ集え → 集え火よ』


 『となりて → となりたれ』


 『いざ放たん → 放てり』


「語順を入れ替えて、動詞を最初に持ってくる。それから、未然形を完了形に変える。やっていることはそれだけです。——もう一度、放ってみてください」


 グスタフはしばらく石板を見つめていた。口の中で新しい詠唱を何度か転がしてから、杖を構え直した。


「……集え火よ、宿れ我が手に、焼き尽くせ敵を、紅蓮の炎となりたれ。放てり。炎弾(フレイムバレット)


 放たれた炎弾は——さっきとは別物だった。


 速度が段違いだった。火球の体積こそ変わらないが、内部の炎が凝縮され、橙色ではなく白に近い黄色を帯びている。石壁に命中した瞬間、轟音とともに壁面が大きく抉れ、黒煙が天井まで立ち上った。


 広間が静まり返った。


 グスタフが自分の杖を見下ろした。


「……何だ、これは」


「文法修正です。語順を最適化して動詞を文頭に置くことで、世界への命令伝達速度が上がる。さらに未然形——これからそうなるという未確定の表現を、完了形——すでにそうなったという確定表現に変えることで、因果の確定度が飛躍的に上昇する。魔力の量は同じです。変わったのは、言葉の形だけだ」


 九人の魔導士たちの顔が、一様に変わった。疲弊と疑念が、驚愕へ。


「これが——呪文の、文法修正の効果か」


 グスタフが呆然と呟く。別の自警団員が続いた。


「たった三箇所でこの差が出るなら……」


「今まで俺たちが使ってた呪文は、何だったんだ」


 エルネストは答えた。


「千年かけて壊れた翻訳です」


 静寂。


 グスタフが、深く息を吐いた。


「わかった。——今日から俺たちは、あんたの生徒だ。教えてくれ、先生」


 後ろで、レオンハルトが小さく鼻を鳴らした。


「また増えた」


「いいことだろう」


「教室が広いのはいいが、お前の体がもたないと言っている」


 エルネストは聞こえないふりをした。


     * * *


 午後は、結界の調査に出た。


 灰ノ原の街を取り囲む城壁の外縁には、等間隔で古い石碑が立っている。かつてこの土地を守っていた古代の防御魔法陣——その名残だった。


 ヘルムート市長の案内で、エルネストは石碑の一つに近づいた。


 苔むした石の表面に、かすかに文字が刻まれている。風化が激しく、半分以上が読み取れない。


「これが結界の碑石か」


 エルネストは指先で刻字をなぞった。指に微かな振動が伝わる。碑石の中に残された古代語のかすかな残響——魔力はまだ完全には消えていない。


「エルネスト、読めるのか」


 レオンハルトが隣に立った。


「断片的にだが……」


 エルネストはノートを取り出して書き写し始めた。


 残っている文字の列は、学院の図書館で見た古代語の文法構造と同じ体系だった。だが、ところどころに見慣れない記号が混じっている。


「結界の碑文は基本的に古代語の命令文だ。『ここを通すな』『この領域を守れ』という意味の、空間に対する永続的な詠唱。だが……文法が崩れている。動詞の活用が欠けている箇所がある。主語が消えている文もある」


「風化したのか」


「いや、これは……」


 エルネストの目が細くなった。


「削られている。自然の風化じゃない。文字の一部が、物理的に消失している。まるで——言葉だけを、食い千切られたように」


 レオンハルトの表情が変わった。


「バベルか」


「わからない。だが、結界の文法が壊れていれば、魔獣がここから侵入するのは当然だ。文法が骨格で、魔力が筋肉だとすれば——骨が折れた体で走れと言っているようなものだ」


 エルネストは碑文をさらに読み進めた。ノートに書き写しながら、見慣れない記号を一つずつ照合していく。


 五分ほど経った時——手が止まった。


「……おかしい」


「何がだ」


「この碑文。『守れ』を意味する動詞が、標準古代語と違う。学院で習った形は『ヴェール』——だが、ここに刻まれているのは『ヴァッハ』だ。意味は近いが、ニュアンスが違う。『守れ』ではなく『見張れ』。鉱山を見張る、坑道を見張る——労働者の言葉だ」


「方言、ということか」


「ああ。この碑文を刻んだ古代の魔導士は、王都の標準語ではなく、灰ノ原の鉱山民族の方言で書いている。だから——学院で習った標準古代語の修正版をそのまま唱えても、この碑石は反応しない」


 エルネストはノートを広げ、碑文の動詞活用を書き出した。標準古代語との対照表を作る。言語学者の手つきだった。


「『ヴェール』→『ヴァッハ』。『ブレン』→『シュース』。語幹が変わっている。だが接辞のパターンは標準古代語と同じだ。完了相の『アル』はそのまま使える。つまり——この方言の完了相は——」


 エルネストは碑石に掌を当てた。


目覚めたれ(アル・ヴァッハ)、灰の守り手よ」


 E判定の微弱な魔力が、碑石に流れ込んだ。


 一秒。二秒。


 ——碑石が、震えた。


 苔むした石の表面に、刻まれた古代文字が一斉に淡い光を帯びた。消えかけていた文字の輪郭が、一文字ずつ浮かび上がる。ヴァッハ。ヴァッハ。灰の守り手——見張れ——この地を——。


 碑石を中心に、空気が変わった。重さが増す。密度が上がる。風の流れが碑石の周囲で渦を巻き、見えない壁が形成されていく。


「結界が……」


 レオンハルトが声を失った。


 碑石の周囲半径三十メートルほどに、半透明の防御膜がドーム状に展開された。薄い、頼りない膜だが——確かに結界の光だ。千年前の守りの名残が、一瞬だけ息を吹き返した。


 五秒。十秒。


 光が薄れ、防御膜が消えた。碑石の文字もゆっくりと暗くなり、元の苔むした石に戻る。


「消えた……」


「碑石の残留魔力が僅かしかない。長時間は持たない」


 エルネストは碑石から手を離し、自分の掌を見つめた。指先が微かに痺れている。だが——魔力の消耗はほぼ感じなかった。


「今の——お前の魔力で動かしたのか?」


「いいや。碑石自身の魔力を起動しただけだ。僕は鍵を回しただけで、エンジンは碑石にある」


「鍵?」


「碑文を正しい方言で唱えることが、碑石を起動する鍵になっている。標準古代語では鍵の形が合わない。この土地の方言でなければ——動かない」


 レオンハルトが腕を組んだ。


「お前以外に、その方言を唱えられる人間はいるのか」


「いない。灰ノ原の自警団も碑文の読み方を知らない。鎮語官にも無理だろう。碑石ごとに方言が違う以上、言語体系を根本から理解していなければ——」


「お前にしか使えない魔法、ということか」


「そうなる」


「……癪だな」


 レオンハルトが鼻を鳴らし、碑石に手を当てた。


「今の発音は覚えた。目覚めたれ(アル・ヴァッハ)、灰の守り手よ」


 完璧なタイミング。エルネストの耳から聞いても、発音そのものは模範的だった。B判定の強力な魔力が碑石に流れ込む。だが——。


 ガガッ!。


 碑石が耳障りな不協和音を立てた。光の輪郭が生まれかけるが、すぐにパリンと音を立てて霧散する。


「……何だ? 今のは」


「魔力が強すぎるんだ。レオンハルト、君の魔力は出力が高すぎて、碑石が持つ繊細なリズムをかき消してしまっている。エンジンをかけようとして、土足でアクセルを踏み抜くようなものだ」


 エルネストは再び碑石を指で叩いた。


「この魔法は、自分の魔力の波長を、碑石が持つ巨大な魔力の『脈動』に完璧に合わせる必要がある。内的同期、とでも呼ぼうか。魔力量が少ない僕にはノイズがない。だから、石の呼吸に自分を合わせることができる」


「技術の問題だけではないと言うのか」


「それだけじゃない。さっきの君の発音だが、語尾の母音の落ち方が標準語に引きずられていた。僕の耳には『L』と『R』ほど違う音に聞こえるが、君には同じ音に聞こえているんだろう? 絶対音素感のない耳では、この鍵は削り出せない」


「内的同期と、耳の精度か……。なるほど、言語学者様にしか務まらんわけだ」


 レオンハルトは皮肉っぽく笑ったが、その目は納得していた。


 エルネストはノートに走り書きした。


 『局地魔法——碑石起動型詠唱(ロカール・キャスト)。碑石の残留魔力を術者の詠唱で起動する。術者の魔力消費は極小。碑文の地域方言の解読が鍵。制約:碑石の近辺のみ有効、残留魔力に依存、使用するたびに碑石が消耗——結界維持とのトレードオフ』


「直せるのか。十二基の沈黙した碑石を」


「文法構造を再構築できれば、理論上は可能だ。封印碑銘録に結界碑文の原型があるかもしれない。……時間はかかるが、やるしかない」


 ノートを閉じ、エルネストは次の碑石へ向かった。


 灰ノ原を囲む碑石は全部で十六基。うち完全に動作しているのは——わずか四基だった。残りの十二基は文法が崩壊しているが、残留魔力がゼロではない碑石がいくつかある。ロカール・キャストで一時起動できる碑石は——十二基中、おそらく七、八基。


「十二基が沈黙しているのか。よく今まで街が持ったな」


 レオンハルトが腕を組む。エルネストは頷いた。


「自警団とヘルムート市長の執念だろう」


「執念だけで魔獣を止めるのは限界がある。結界の修復を急ぐべきだ」


「ああ。——ただ、それにはまず封印碑銘録を精読する必要がある。そして、碑石の魔力を戦闘に使うか修復に使うかは——慎重に判断しなければならない」


 エルネストは腰のポーチに手を当てた。ゲルハルト学院長から託された革装の冊子が、そこに収まっている。あの老魔導士が五十年の歳月をかけて書き写した、世界の封印の設計図。


 まだ一ページも読み解けていない。


     * * *


 その夜。


 旧鉱山事務所の二階。窓辺の机に封印碑銘録を広げて、エルネストはランプの灯りの下で文字を追っていた。


 古代語だ。だが、学院の図書館で読んだどの文献よりも古い。文法構造が何層にも入れ子になっていて、一つの文を解読するのに数時間かかる。


「……これは、すごいな」


 思わず声が漏れた。


 碑銘録の最初の数ページに記された文法構造は、現在の魔法呪文の「原型」だった。語順はVSO。動詞の活用は完了相を基本形としている。現代の劣化した呪文が「未然形」を基本にしているのは、完了相が千年の間に失われたからだ。


 そこまでは既知の理論と合致する。


 だが、碑銘録にはその先があった。


 完了相のさらに上位に——見たことのない時制の形が記されている。接辞の組み合わせが複雑で、まだ解読できない。だが、一つだけ確かなことがある。


「永久完了相……」


 ノートに仮説として書き留めていた、あの概念が——ここに、原典として存在している。


 ノートに走り書きを始めた。碑銘録の文字列を書き写し、既知の音価表と照合する。一文字ずつ、パズルのピースを嵌めていく作業だ。


 いつの間にかランプの油が半分に減っていた。


「先生」


 ドアの外からティアの声がした。


「もう深夜ですよ。明日も早いんですから」


「あと少しだけ——」


「駄目です。あと少しと言って朝になるのを、私は学院時代からずっと見てきました」


 反論の余地がなかった。


「……わかった」


 碑銘録を閉じ、ノートをしまう。だが頭の中では、解読途中の文法構造がぐるぐると回り続けていた。


 永久完了相。因果を永遠に固定する、最上位の時制操作。


 それが実在するなら——バベルの封印も、結界の修復も、理論上は解決可能だ。


 だが同時に、致命的な問いが頭をもたげる。


 正しい言葉でバベルの封印を修復すれば、その「正しい言葉」の力がバベルを覚醒させるかもしれない。言葉を直すことが、言葉を喰らう者を呼び覚ます。


 ——矛盾だ。


 窓の外で、遠くの荒野から獣の咆哮が聞こえた。


 低く、長い遠吠え。鋼の牙を持つ魔獣——鋼牙獣の声だ。一匹ではない。複数の声が、夜の闇の中で唱和している。


 結界の沈黙した碑石の方角から。


 エルネストは窓の外の暗闇を見つめた。


 明日こそ、封印碑銘録の結界碑文の章を読み解く。一基でも多くの碑石を修復する。それが今、この街にいる僕にできる最善のことだ。


 遠吠えが止まない夜だった。


 だが、灰色の教室は静かだった。十四人の仲間と、九人の新しい生徒たちが、この街を守るために眠っている。


 エルネストは灯りを消した。


 明日も、言葉を直す仕事が待っている。


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