灰ノ原
夜明け。
馬車は街道を南西に進み続けていた。
鎮語官との遭遇から六時間。追手の気配はなかった。あの三人が先遣隊だったとすれば、本格的な追撃部隊が編成されるまでにはまだ時間がある。
——あるいは、学院長が約束通り、時間を稼いでくれているのか。
朝日が森の木々の隙間から差し込み始めた頃、景色が変わった。
深い森が途切れ、灰色の荒野が広がる。かつて鉱山だった土地。草は疎らで、ところどころに廃坑の入口が暗い口を開けている。
空気が乾いている。土埃の匂い。遠くに——街が見えた。
灰色の石壁に囲まれた街。煙突から薄い煙がたなびいている。壁面にはところどころ巨大な爪痕が刻まれ、応急処置の板塀が張られている。
灰ノ原。
「着いた……」
テオが馬車の幌を捲り上げ、街を見つめた。
「あの爪痕は……魔獣ですか」
「鋼牙獣だろう。レオンハルトが言っていた魔獣被害。壁がやられている」
街門の前で馬車が停まった。門番が二人、槍を構えて近づいてくる。
「何者だ。旅の商人か」
レオンハルトが馬車を降り、門番に向かった。
「商人ではない。魔導士だ。十四人。——この街の防衛に力を貸しに来た」
門番が目を見開いた。
「魔導士? 王都から?」
「王都の学院から来た。だが——公式の派遣ではない。事情は市長に説明する。通してくれ」
門番の一人がもう一人と目配せをした。
「……最近、魔獣被害がひどくてな。駐留の王国軍は増援を求めているが、王宮からは返事がない。魔導士が来るなら——断る理由はない。だが市長への取り次ぎは俺たちの権限じゃない」
「取り次いでくれるだけでいい」
門が開いた。
* * *
灰ノ原の市長——ヘルムート・グルーバーは、五十代の頑健な男だった。元鉱夫。大きな手に、鉱山仕事の古い傷がいくつも残っている。
市庁舎の一室で、エルネストとレオンハルトが事情を説明した。
王立魔法学院からの脱走。古代語の文法修正技術。管理部からの弾圧。——すべてを、隠さず話した。
ヘルムートは太い眉をしかめ、腕を組んで聞いていた。
「要するに——学院で禁止された技術を持っている魔導士が、追手から逃げてきたわけだ」
「その通りです」
「で、うちの街の防衛に力を貸す代わりに、匿ってくれと」
「匿っていただければ助かります。ですが——力を貸すのは交換条件ではありません。この街の結界が劣化して魔獣が溢れ出しているなら、僕たちの技術で修復できる可能性がある」
ヘルムートがエルネストを見た。痩せた若者。杖すら持たず、腰にはノートだけ。
「お前さん、魔力は?」
「E判定です」
「はっ」
ヘルムートが笑った。だが馬鹿にしたのではない。次の言葉がそれを示した。
「E判定の若造が、十三人の魔導士を率いて学院から脱走してきた。その十三人が付いてきたのは、お前さんに何かがあるからだろう。——それだけ信頼されてる人間を、追い返すほど俺は馬鹿じゃない」
「受け入れていただけますか」
「条件がある。うちの街の魔導士たちにも、お前さんの技術を教えること。こちらも防衛が手一杯なんでな」
エルネストは即答した。
「喜んで」
「決まりだ。宿舎は旧鉱山事務所を使ってくれ。広いが埃っぽい。……魔法で何とかなるだろう」
レオンハルトがまたしてもため息をついた。
「また俺が火で乾かすのか」
「乾かすだけでいい」
「毎回それだけだと言うな」
* * *
その日の夕方。
旧鉱山事務所が、新しい教室に生まれ変わった。
地下貯水槽の時と同じだった。レオンハルトが火で乾燥させ、テオが連句で壁を補修し、ティアが水で洗い流し、クララが風で埃を吹き飛ばす。
黒板代わりの大きな石板が壁に立てかけられ、エルネストがチョークを手に取った。
十四人の仲間たちが——新しい教室に、腰を下ろした。
「さて」
エルネストが全員を見渡した。
学院の地下で始まった教室が、辺境の街で再び開く。教壇の上からの景色は変わったが、やるべきことは変わらない。
「ここからは、二つの戦いが始まる」
石板にチョークで書いた。
『一、灰ノ原の防衛。古代結界の修復と魔獣への対処』
『二、封印碑銘録の解読。バベルの正体と封印の真実の解明』
「灰ノ原の人々を守ること。そして世界の危機の正体を突き止めること。この二つを同時に進める」
「三つ目は?」
ティアが微笑んだ。
「三つ目?」
「教室です。正しい言葉を教え続けること。——それが一番大事なことでしょう」
エルネストは苦笑した。
「ああ。——三つ目は、教室だ」
石板に書き加えた。
『三、教える。誰にでも、どこでも、いつまでも』
窓の外で、夕日が灰色の荒野を琥珀色に染めている。遠くに、鋼牙獣の遠吠えが微かに響いた。
新しい戦いが、今日から始まる。
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