表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

2




 今日は三月十五日。

 昨日はホワイトデーという事もあり、一ヶ月前を髣髴とさせる空気の中、わたしの心は落ち着かなかった。二月十四日のバレンタインデーではなくその翌日に、本命中の本命というよりもむしろ他に本命なんていないわたしにとっての本命チョコをなんとなく渡せてしまったらしいから。

 そして「らしい」というのは、意中の人である柿崎先輩が、半ば勝手にわたしのチョコを持って行ってしまったから。カードに書いていた名前で贈る相手が先輩本人なのだとばれてしまったのだけれど、だからと言ってなんのリアクションもないまま今日に至っている。心の隅でもしかしたら、なんて淡い期待を抱いていたのだけれど、見事なほどに言葉を交わすどころか接触すらもなかった。それはわたし自身の行動が原因でもあるけれど。

 これをどう解釈すればいいのかは分からないけれど、少なくともわたしのチョコに対する先輩の気持がそれほど大きくはないのだと言外に知らされているようで、なんだか気持が滅入って来てしまう。いっそチョコを持って行かれてしまった事自体が夢だったとでも言われた方が、ずっと気が楽というものだ。

「なに、机にめりこんでいるんだ?」

 クラスメイトたちがみんな思い思いに散って行ってしまった放課後の教室には、多分もうわたしだけしか残ってはいなかったはず。という事は今の言葉は、わたしに向けられたものだったのだろうか。

「シカトとはいい度胸だな、水野朱里あけり

 再び掛けられたその声に聞き覚えがあり、わたしは慌てて顔を上げた。

「か、きざき、先輩」

 教室のドア枠に体をもたせかけてにやりと笑うのは、間違いなくわたしの本命チョコの相手の柿崎先輩その人だった。

「お前さあ。あれから一ヶ月、俺の事避けていないか?」

 どう思われているのか何を言われるのかが怖くて、先輩のいそうな場所には近づかないようにして来た。姿を見かけようものなら、友達に怪しまれるくらいの勢いで方向転換してしまったりと、徹底的に逃げ続けて来たのだ。

 これで先輩からのリアクション云々などと言うのはお門違いと言われるかもしれないけれど、そこは恋する乙女の心情。理不尽で我侭なのは仕方がない。

「そんな事は」

「あるよな」

 断言されてしまい、何と言っていいのかわからなくなる。

「本命チョコを渡しておいて、その後ずっと逃げ回っているっていうのはどういう了見なのか、教えてもらいたいんだけど?」

 先輩がいる場所から重苦しい空気が流れて来ているように思うのは、気のせいだと思いたい。

「あれは、渡したわけじゃなくて、先輩が」

 渡し損なったチョコを、バレンタインデーの翌日の放課後にこっそりと先輩の机に忍ばせようと思っていた。なのに間抜けな事に、よりによってその現場を先輩本人に見られてしまったのだ。

「わざわざ俺の教室にまで来て? 渡すつもりはなかったなんて言わないよなあ?」

 日頃あまり笑顔を見せない先輩の目が楽しげに細められ、口角が上がる。決して爽やかとはいえないその表情に、思わずときめいてしまった自分を叱咤した。

「でっ、でも、わたしからだと知らせるつもりはなかったんです」

「なんで」

「だって。わたしと先輩の接点なんて全然なかったから。まさか先輩がわたしの名前を知ってくれていたなんて、思わなかったし」

 先輩はいろいろな人からチョコを貰っていたはずなのだ。強引に押し付けて行く人も多々いたようだけれど。

「今年は朱里からのチョコ以外は、一つも受け取っていない」

「へ」

 まさか。だってわたしが知っているだけでも、少なくとも六人は先輩にチョコを渡しているはずなのだ。もちろん本命チョコだ。

「ついでに言うと、接点なんてなくてもお前は俺の事を知っていたんだろう? なんで俺がお前を知っているって発想ができないのかねえ」

 じっとりと見据えられて、思わず生唾を飲み込んだ。

「朱里ってドジだよな」

「は?」

 いきなり何を言い出すのかと思えば。

「しょっちゅうこけたり物を落としたりしてるだろ。校内で結構目立っているって知らないのは、多分朱里自身くらいだ」

 確かに何もない所でけっ躓いて転んだり、ひどい時には友人を巻き添えにしたりもしているとは思う。辛うじて転ばずにすんだ時も、バランスを崩して手に持っている物を落としたりする。

 けれど、まさかそんな鈍臭い日頃の行いが学校内に知れ渡っているなんて、もちろんわたしは知らなかったわけで。

  ああ、恥ずかしくて穴があったら入りたい。

「それはともかく」

 悄然と頭を垂れて落ち込んでいたわたしは、突然近くから聞こえた声に驚いて顔を上げた。すぐ目の前に柿崎先輩の顔があり、慌てて椅子から立ち上がる。

 ゴチッという鈍い音と共に、頭頂部に痛みを感じた。頭を押さえながらどこにぶつけたのかと窺うと、先輩が顎をさすっている姿が目に入る。

「あっ、ごっ、ごめんなさいっ」

 さぞかし痛かったのではないだろうか。おろおろするわたしを先輩は片手を上げるだけで制し、そのままその手をこちらに伸ばして来た。

「悪かったと思うなら、とりあえずここから逃げないように」

 そう言いながら、頭の上にあったわたしの右手を掴まれた。

「はい、これ」

 その声と共に手のひらに感じた感触に、恐る恐る視線を向けた。

「これって、なんですか?」

 ポケットに入れられていたらしく、包装紙に皺が寄ってしまっている。もしかしてずっと持っていたのだろうか。

「本命のお返し」

 その言葉を頭の中で咀嚼して意味を理解するのに、数秒を要した。他の人からのチョコは受け取っていないという先輩の言葉が本当だとして、今わたしの手に載せられているこれが本命のお返しだという事は。

「え。ええーっと」

 思い至ったありえなさ過ぎる結果に、どんな反応をすればいいのか分からない。

「無言は肯定と解釈した」

 言い終わるが早いか、頭一つ分上にあったはずの先輩の顔が近付いて来た。慌てて避けようとしたわたしは、さっきまで座っていた椅子に脚を引っ掛けてしまう。椅子もろとも転倒する事を覚悟したけれど、いつまで待ってもその衝撃を感じる事はなかった。

「て事で、いただきます」

 何を? と聞き返す暇もなく唇に触れた柔らかな感触に、なにが起こったのか分からず呆然とする。

「あんまり無防備に可愛い顔を晒されると、お持ち帰りしたくなるんだけどねえ」

 その言葉の後もう一度感じた柔らかな感触に、ようやく我に返って目を見開いた。

「せ、先輩、今、なに」

 そこでようやく、転倒しなかったのは先輩に抱きとめられたからで、さらにはどうやらキスされたらしい事を理解した。

「朱里があんまり美味そうだったから、とりあえず味見かな」

 ナチュラルに名前で呼ばれている事にも、今更ながらに気付く。

 おたおたと狼狽えていると、体に回されていた先輩の腕の力が緩み、ほどなくその腕からも解放された。心臓が爆発しそうな勢いで鼓動を刻み、顔に血が上って眩暈を感じる。

「捕まえた」

 手も体も触れていない状況で、けれど先輩はにっこりと笑顔を見せる。それは先程までの人の悪そうなシニカルな笑いではなく、とても優しい笑顔だった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ