葉桜
気の重い一日が始まった。
修司はだるい身体を引きずって教室に入った。寝不足気味だ。公園での出来事が頭の中をぐるぐる回って眠れなかった。
「おい、木下」
朝から不快な顔を見て、さらに気が重くなった。いたずら書きの張本人がやってきた。
「何か用」
「俺のサイン、気に入っただろ。もうひとつ書いてやるよ」
鞄を強く引っ張られて教科書とノートが散乱する。修司は頭が痛くなった。こいつは何が楽しくてこんなことをするのだろう。やめろと言う気力も失せる。何か言ったところで聞く耳は持たない顔をしていた。
彼は赤いマジックのキャップを取り、教科書を拾い上げた。
「木下くんへ、でいいよな」
からかう口調が癇に障った。いい加減にしろと殴りかかろうにも、陸上部の筋肉質な体格に腕力で勝てる気がしない。
「待てよ」
しかし、修司はつかみかかった。色紙代わりにされようとした教科書が、琴子に貸した理科の本だったからだ。
「お、反抗するのか」
「返せ」
「やだね」
笑われてかっとなった。突っかかってみたものの、あっさりと片手で払われる。じんじんと骨まで痛んだ。
「感謝しろ。何年かしたらプレミアもんだぜ」
「担任が来るぞ」
取り巻きのクラスメイトが廊下の足音に聞き耳を立てていた。
「ちっ」
舌打ちと共に教科書が投げ返され、修司は胸の前で受け止めた。教科書のページがばらりとめくれた。紙の間から爽やかな香りが立ち上る。記憶にも新しいハーブの匂いがした。
「レモンバーム……」
香水薄荷と琴子は口にした。
これで木下くんの気が晴れれば良いのですが。
彼女の言葉がよみがえる。
はらりと小さな葉がすべり落ちてきた。修司は乾燥した葉を拾い上げ、強い残り香に目をしばたたかせた。
「起立!」
教室の音が耳に入らない。さわさわと葉のこすれる音がこだましていた。
「席に着け」
笑い声と複数の視線で自分に言っているのだと気づいた。修司はクラスメイトたちの揶揄を無視して腰を落ろした。
桜が散り始めた。
春は始まったばかりだが、肌寒い日が続いている。朝夕の風で花びらが落ち、華やかだった木々に緑が見え隠れする。そわそわしながら通学していた中学生たちも、どことなく落ち着いてきた。
一年前の記憶と変わらない光景だった。琴子はベランダ越しに道路を見下ろして溜め息をつく。手の大きさも爪の長さも、去年のこの時期とまったく変わっていない。
「見られてしまいました」
修司のことが頭から離れなかった。彼から友だちと言われて嬉しかった。だが、壊れた手を見られた。多少のことなら病気と勘違いしてくれたかもしれなかったが、出血のない傷をまともだと思うわけがない。
気分に引きずられて視線を下げ、通学する中学生たちをいつものように見送った。挨拶を交わしている彼らから離れて、一人の少年が立ち止まった。彼は何かを探しているように周囲を見回してから、桜の木を見上げた。
「木下くん」
琴子は少年の名を口にして咄嗟に頭を引っ込めた。目が合った。彼も気がついたはずだ。再び顔を出すのが恐くて、琴子は身を縮めたまま部屋に戻った。
「何をしているんだ、琴子」
ハーブティーを飲んでくつろいでいた父親に見咎められた。
「ええと、床が汚れているようだったので、掃除をしようと思います」
「昨日掃除していなかったか?」
拭き掃除はしたばかりだった。琴子は黙り込んでハーブポットのトレイを動かしてみた。汚れていましたと言って、雑巾を取りに走った。
「それで、どうすんの」
「謝る」
しぐれの小声に修司ははっきり答えた。朝見たベランダの女の子は琴子に間違いなかった。中学校からそれほど遠くないマンションに住んでいたとは驚きだ。ずっと前から彼女はあそこで桜並木を眺めていたのだ。学校に行きたいという気持ちをなだめすかして。
彼女の視線に気づいたのは偶然だった。葉桜を被写体にしたらどうなるか、考えながら歩いていなかったら気づかなかっただろう。
琴子は自分を見て隠れた。覚悟していたが、本当に嫌われたようだ。強引に彼女の手を見ようとしたのだから仕方がなかった。
「謝る?」
「僕が悪いんだ。彼女は嫌がっていたのに、僕は」
彼女とあんな別れ方をしたままではいられなかった。教科書のレモンバームのお礼も言っていない。
琴子に教科書を貸さなければ、いたずら書きをしたクラスメイトに抗うこともなかった。レモンバームの贈り物がなければ、暗い顔で毎日を過ごしていたはずだ。彼女は自分を変えてくれた。そのことを伝えたかった。
「お前は来なくていいよ。あの場にいなかったんだから」
「そういうわけにはいかない! 撮っちゃったんだもん。あたしも謝るよ」
しぐれも責任を感じているようだった。琴子を写した写真がなければ、彼女の秘密は見間違いですんだかもしれなかったのだ。
「じゃあ、いいけどさ」
あの怪我をして平静を装っていた彼女は普通ではない。何故という疑問の答えを知りたい気持ちも少なからずあった。
「ここだ」
マンションの入口で表札を確かめる。そこそこ年季の入ったマンションでオートロック方式を採用していないのが幸いした。住人以外の人目を憚らないですむ。
「押すよ」
階段を上がり、葉室と書かれた表札を前にした。意を決してチャイムを押すと、しばらくしてドアが開いた。
「どうぞ」
彼らが来るとわかっていたのか、琴子は驚いた様子もなく二人を迎え入れた。




