傷ついた手
「わあ、すごい」
しぐれがリビングに広がる緑を見て声をあげた。ベンジャミンやサンセベリアの観葉植物をはじめ、種々のハーブがフローリングに並んだ光景に見とれている。
「レモンバームだ」
修司もそこに加わった。
「育ててみようと思いまして、公園から分けてもらったのです。あまり日が当たらなくても生長するので、部屋の内側に引っ込めてあります」
「そうなのか」
「こういうの詳しいんだ。琴子がみんな育てているの?」
しぐれは制服のスカートが広がるのにも構わず、ハーブに顔を近づけていた。
「これ、ミントっぽい形なのに林檎の香りがするね」
「それはアップルミントです。世話はさせてもらってますが、大事なところはお父さんに教えてもらいます」
こちらへと言って琴子は二人をテーブルに誘った。ハーブティーを手際よく用意する。
「あの……さ」
修司がちらちらと手を盗み見ていた。しぐれも同様だったが、彼ほど隠し切れていない。
「手は大丈夫なのか?」
「なんのことでしょうか」
二人にお茶のカップを勧め、琴子も口をつけた。新鮮なカモミールで淹れたはずなのに、ハーブの味がぼんやりとしかわからなかった。
「怪我だよ。あの時、僕がちゃんと受け止めていればあんなことにはならなかった。いや、そもそも僕が変なことを言ったのが悪いんだ」
「私の手がどうかしましたか」
琴子はカップを置いて、両手を広げて見せた。
「あれ?」
しぐれが声を裏返らせた。手を覗き込んで修司を小突く。彼は何度も目をこすっていた。
「あの時は絶対に」
「何もありませんでした」
琴子は手を引っ込めて、素知らぬ風を装った。嘘を隠し通せる自信はなかった。それでも、怪我をして血の一滴も流れない人間だと気味悪がられるのは嫌だ。平気で嘘をつくような女と軽蔑されたほうがまだましだ。人間としてなら、たとえ嫌われても我慢できる気がする。
「やっぱり見間違いなのよ。うん」
しぐれが頷き、琴子はほっとした。
「そんなわけない。僕は見た。あの時、君は手を隠した。何もなければ隠さないはずだ。どうして嘘なんかつくんだ?」
琴子は返す言葉が見つからず、震える指に爪を立てた。
「やめなよ! 琴子が恐がるじゃないのさ」
しぐれが味方してくれた。ありがたかったけれども、心が痛みを覚えた。
「悪い」
非難された修司にいたたまれない気持ちを抱いた。彼が責められる謂われはどこにもない。悪いのは嘘をついている自分だ。
「あんた、クラスでいじめられてるからって、琴子で鬱憤を晴らさないで」
弁護しようとした琴子よりも先に、しぐれが修司にとどめを刺した。修司は唇を噛み、琴子も臍を噛んだ。
「ああ、こいつ前からちょっといじめられてんのよ」
しぐれは琴子に補足説明する。
「教科書に落書きされたりさ。昨日、反抗したって噂で聞いたから少しはマシになったと思ったら、もっと悪くなってる」
落書きと聞いて琴子は教科書に書かれていた文字を思い出した。たった一言の赤い言葉。人が人に向けて言うものではなかった。いじめというものがどういうものか、おぼろげながらに感じ取った。
「僕なんか死んだほうがいいのかもね」
「やめてください!」
投げやりな態度の修司に、琴子の頭の中がぐらりと揺れた。熱を感じた。これが怒るということなのだと、どこかで読んだ本の表現を思い出した。
「死ぬだなんて言わないでください。生きて、学校に行って、勉強したらいいではないですか。以前、あと一年だと言いました。いじめがあっても一年で終わるのなら……たった一年なら我慢してください」
「あ、ああ」
驚いた顔の修司と呆気にとられたしぐれに注目され、琴子は恥ずかしくなって席を立った。ハーブティーのポットをキッチンに持っていき、代わりを用意する。
琴子の背後でしぐれが修司の頭をはたいていた。
新しいお茶が淹れられたものの、雰囲気は暗く沈んだままだった。
「ああ、もう! あたし、こういうの苦手なんだから」
しぐれが立ち上がってテーブルに手をついた。
「暗いのはやめよう! お互いにはっきり言いたいことを言う。いい? じゃあ、あたしから」
彼女は咳払いをして修司を指さす。
「木下はいじめられるのをやめな。明るく元気よくしていればいじめられないから。ウジウジしてないで、やられたらやり返せ。それでもダメなら弱みを握る!」
しぐれはカメラのシャッターを押す仕草をした。
「それは不味いだろ」
修司の反論を無視して、しぐれは琴子に向き直った。
「琴子は事情はあるのかもしれないけど、不登校をやめて学校に通うこと。そして、あたしと仲良くする。修司よりもね。以上! 次、木下」
琴子にも意見を差し挟む余地を与えない。
「ぼ、僕は……」
言い淀んだ修司がしぐれに睨み付けられた。
「わかった、ちゃんと言う。僕は正直、今までいじめる奴のことが理解できなかった。なんであんなことをするのか。馬鹿なんじゃないかって。でも、わかったことがあるんだ」
修司は咳払いをする。
「公園で君が怪我をした時、僕は嫌がる君の手を無理矢理見ようとした。女の子の力なら僕でも勝てると思った。自分より弱い人をしたいようにすること。それは、僕がいつもやられていることと同じだ」
お茶を飲んで喉を湿らせる。
「いじめる奴の気持ちがわかった。葉室さんのようなか弱い女の子なら、こんな僕でもいじめることが可能なんだって」
修司はちらりとしぐれを見た。しぐれが拳を握ると、修司は息を大きく吸って話を続けた。
「僕は、君をそういう風に見た。最低の人間だよ」
「私はいじめられていません」
頭を抱え込んだ修司に、琴子は首を振って否定した。
「そうかもしれない。けど、僕はいじめている気になったんだ。きっと、その人がどう思うかなんだ。葉室さんがいじめと思わなくても、僕はそう考えた。多分、僕がいじめられたと感じたとしても、あいつはそんなこと想像すらしてない。遊びとしか思わないだろうね」
「あり得そう。あいつ、何も考えてなさそうだもん」
「ともかく、僕はいじめる側の気持ちがわかったし、大袈裟かもしれないけど、実際に葉室さんをいじめた。だから謝りたいんだ。……ごめんなさい」
「あたしも、実は写真を撮ったの。望遠レンズで。だから、ごめん」
二人に頭を下げられて琴子は曖昧に頷いた。謝られるほどのことはされていないと答えたとしても、堂々巡りになりそうだった。
「わかりました」
謝罪を受け入れて、琴子はしぐれに顔を向けた。
「次は私の番ですね」
琴子は自分の手を見た。傷はもうない。父に交換してもらったから、以前と変わらない綺麗な肌に戻っている。
手のひらをなぞる。指先が通る線は、今は見えない傷の痕だ。
「木下くんも、しぐれさんも、見てしまったのですね」
二人は顔を見合わせ、どちらともなく頷いた。
「それなら隠しても意味がありません。私は、嘘をつきました。謝るべきなのは私です。申し訳ありませんでした」
琴子は深々と頭を下げた。テーブルに額がつきそうになる。
「やめ、やめ! みんなして謝っておかしいよ。全部、なしにしよう!」
しぐれが持ち前の明るさを発揮して場を和ませようとした。
「そうだよ。友だちなんだから、やめよう」
修司も精一杯明るく振る舞った。
「いいえ」
琴子の思い詰めたような声に修司としぐれが押し黙った。
「お二人はちゃんと打ち明けてくださいました。私は正直に話していません。ですから、お見せしなければならないのです」
キッチンから包丁を持ち出した琴子は手のひらを広げた。
「待っ」
「やめて!」
包丁の刃先が肉を削った。細い筋ができる。生命線を切り、感情線を二つに分かつ。えぐられた傷は血の滴を浮かべない。痛みさえ生み出さない。
「これでも、お友だちと呼んでくれますか」
琴子は傷ついた手を差し出した。




