第6章 記入済みの離婚届
さらに二か月後。
私は結衣さんと駅前のカフェで会っていた。
「あら」
席へ近づいてきた彼女を見て、私は思わず声を上げた。
「素敵ね、その時計」
「ありがとうございます」
結衣さんが笑う。
以前とは別人のようだった。
頬には血色が戻り、髪も綺麗に整っている。
手首には、小ぶりな腕時計。
高級ブランドではない。
でも、彼女が自分のために買った物だというだけで、私は嬉しかった。
「久しぶりに買い物したんです」
「いいじゃない」
「最初、お店で三十分くらい悩んじゃいました」
「どうして?」
「自分のために一万円以上使うのが怖くなってて」
その言葉だけで、三年間の重さが分かった。
私は紅茶を一口飲む。
「翔太はどう?」
「今のところは真面目です」
「本当に?」
「はい」
結衣さんは少し笑った。
「朝、自分でゴミをまとめるようになりました」
「それは大進歩ね」
「洗濯物も畳みます」
「まあ」
「ただ、この前私のブラウスを変な畳み方してシワだらけにしましたけど」
二人で少し笑った。
「夕食後の食器も洗います」
「文句は?」
「最初の一週間は毎日言ってました」
「やっぱり」
「でも、私が一言だけ言ったら止まりました」
「何て?」
結衣さんは微笑んだ。
「『嫌なら一人暮らしすれば?』って」
私は吹き出しそうになった。
「効いたでしょうね」
「かなり」
翔太が実家へ帰れないことは、本人もよく分かっている。
「お小遣いは?」
「三万円です」
「やっていけてる?」
「毎朝お弁当を持っていきますよ」
「あなたが作ってるの?」
「半分ずつです」
「え?」
「今週は私。来週は翔太」
私は目を丸くした。
「あの子、料理できるの?」
「卵焼きは焦がします」
結衣さんが楽しそうに笑う。
「でも最近、冷凍食品の使い方は上手くなりました」
私は少しだけ胸が軽くなった。
「本当に……良かったの?」
「何がですか?」
「あの時、離婚してしまってもよかったのよ」
結衣さんは黙った。
「私はあなたが翔太と別れても責めなかった」
「分かっています」
「むしろ、今でもそう思ってる部分があるわ」
それは母親として複雑だった。
息子には立ち直ってほしい。
でも。
そのために結衣さんが犠牲になる必要はない。
「一度壊れた信頼って、そんな簡単に戻らないもの」
「はい」
「だから無理しないで」
結衣さんは、しばらく紅茶を見つめていた。
そして。
「義母さん」
「なに?」
「実は……」
周囲を少しだけ確認する。
それからバッグを膝の上に置いた。
ジッパーを開く。
透明なファイルが見えた。
中に入っている紙を見た瞬間、私は息を呑んだ。
「それ……」
離婚届。
しかも。
夫の欄にはすでに、翔太の署名が入っていた。
「書かせたの?」
「はい」
「翔太、よく書いたわね」
「離婚を保留する条件にしましたから」
結衣さんは平然と言った。
「これを持った上で、三か月だけ様子を見るって約束だったんです。……今日でちょうどその三ヶ月ですけど、今のところ真面目にやっているので、もう少しだけこのまま持っておくつもりです」
「……なるほど」
「最初は嫌がりましたけど」
それはそうだろう。
「でも最終的には自分で書きました」
結衣さんはファイルを閉じる。
「私、別に翔太を苦しめたいわけじゃないんです」
「うん」
「ちゃんと変われるなら、それでいいと思っています。この紙は……私にとって、お守りみたいなものです」
以前の彼女なら。
その言葉の裏に、自分を犠牲にする響きがあったかもしれない。
でも今は違った。
「ただ」
結衣さんは真っ直ぐ私を見る。
「もう二度と、私だけが我慢する生活には戻りません」
私は頷いた。
「当然よ」
「また生活費を隠したり」
「うん」
「借金したり」
「うん」
「怒鳴って私を黙らせようとしたりしたら」
バッグを軽く叩く。
「その時は、終わりです」
穏やかな笑顔だった。
けれど。
その決意は、誰にも曲げられないだろう。
「ねえ、結衣さん」
「はい」
「一つだけお願いしていい?」
「何でしょう」
「翔太を立ち直らせるために、自分まで壊れないでね」
少し驚いた顔をした。
私は続ける。
「あの子が変わるかどうかは、あの子自身の責任なんだから」
結衣さんはしばらく私を見た。
やがて。
「はい」
柔らかく笑った。
「今度は、ちゃんと自分を一番大事にします」
その言葉を聞けただけで十分だった。
私はカップを持ち上げる。
「それじゃ」
「はい」
「あなたの新しい生活に」
結衣さんもカップを上げた。
二つのカップが、小さく触れた。
窓の外には、明るい午後の日差し。
あの日のリビングとは正反対の、暖かな光だった。
その日の夜。
私のスマートフォンに、翔太からメッセージが届いた。
『母さん』
続けて。
『弁当のおかずって、卵焼き以外で簡単なの何?』
私はしばらく画面を見つめた。
そして。
『自分で調べなさい』
とだけ返した。
数分後。
『ですよね』
という返信。
思わず笑ってしまった。
昔なら。
きっと私は何もかも教え、何もかも手を出していた。
もしかすると。
それも、この子をこんな大人にしてしまった原因の一つだったのかもしれない。
だから。
今度は手を出さない。
困ったら自分で考える。
失敗したら自分で責任を取る。
妻を対等な人間として扱う。
二十八歳にもなった息子が覚えるには、あまりにも遅すぎることばかりだ。
それでも。
遅いからといって、学ばなくていいわけではない。
私はスマートフォンを伏せた。
そして、あの日飲み損ねたダージリンを淹れる。
湯気とともに、優しい香りが広がった。
今度こそ。
誰からも邪魔されない休日の紅茶だ。
一口飲む。
「……おいしい」
静かな部屋で。
私はようやく、心からそう呟いた。
(完)




