第172話 両親が居ない間に
「はぁ〜疲れたっ……!」
部屋に戻った庵は、どさっと久しぶりのベッドへ疲労感を預けるように倒れ込んだ。
「お荷物いっぱいありますもんね。こちらお手伝いしますね」
「いいよ。また後でやるし。ほら、それよりもこっち、おいで」
二階で詩阿たちを見送った明澄が遅れて入ってくると、伸びている庵にくすりと笑って開けっ放しのダンボールの前で身を屈めようとする。
ただ、先ほど明澄を買い物から引き留めたのは手伝わせるつもりだったからではない。
自分の横を軽く叩いて明澄を手招きして呼び寄せると、素直にやってきた明澄が隣に腰掛けるなり、庵は彼女を優しく胸の中に引き寄せた。
「わっ……急にどうしたんですか」
声を上げた明澄が数回瞬きして庵を見上げる。
「ん? したくなったからってのと、お疲れ様的な? 今日大変だったろ。特に母さんはとてつもなくテンション高かったし」
「そういう事ですか。ふふっ、ではお言葉に甘えましょう」
気を遣ってくれた庵に、小さく笑った明澄は彼の胸板に頬を擦り寄せた。そのまま庵は腕の中にいる明澄の頭を撫でてやり抱擁を解きながらゆっくり膝上に彼女の頭を誘導して寝かせてやる。
再び優しい手つきで撫でるのを再開すれば、明澄は擽ったそうに目を細めながら、空いている庵の片手を握ってきた。
「そういえば、お話があるって言ってましたけど、何か問題でもありましたか?」
「あー、そっちは建前。母さんたちの買い物に付き合わせるのは悪いなと」
「別に気にしなくても良いのに」
「想定より仲良くなってたから余計かとは思ったけど、まだ何日もあるしな。ゆっくり出来るうちにゆっくりさせてやりたくてさ」
こうして膝枕をして横にさせているように、明澄には気を抜いて休んで欲しかった。
ただでさえ疲れているし、目上でもある彼らに気を遣うのは当然でもあるのでしょうがないとはいえ、そこは自分が気にかけて調節してやるべきだと考えていた。
「……もう、あなたが一番気遣いなんですから、」
体制を変えて仰向けになった明澄は、優しい顔つきをしている庵を愛しく見つめながら、ぽつりと呟いて彼の頬に手をかける。
「それと庵くんもかなり疲れてるように見えますよ?」
「俺も戸惑ってるんだよ」
「戸惑ってる?」
「はっきり言うと、あんな感じの母さんも親父もあんまり見た事ないからさ」
暫く会っていなかった庵の成長した姿を見た彼らも驚いただろうが、庵もまた知っているものとは違う両親の様子に内心では戸惑いがあった。
「そうなんです? 庵くんってよく揶揄ってくるじゃないですか。私も軽口返すと乗ってくれますし、それはさっきみたいにお二人とやってたからじゃないかなって思ったんですけど」
「合ってるよ。合ってるけどいつもあんな感じではないな。母さんのテンションはおかしかったし、親父もすごい上機嫌だった。俺にはあんな柔らかい話し方しないしな。明澄を相手にしてるからって感じでもなさそうなのが引っかかる」
まるで心変わりでもしたかのような接し方だった、と庵は感じている。
詩阿や東は仕事が好きでお互い同じ職場でもあるから夫婦としての時間もその中で取りつつ、バリバリと働いていた。その二人が一ヶ月ほどの長い休みを取っているのもまた違和感があった。
「一年半も会ってなかったんでしょう? だったらそういう事もありますよ」
「そうかね。ま、人なんて変わる時は変わるしな」
真相も本心も聞かねば分からない事だらけだ。聡く頭の回る庵でも全てを見通せる訳でもないし、庵は自分や家族の事には疎い。
頬を撫でながら言う明澄に自分たちもそうだなと得心して「俺らみたいにな」と口にすれば「ですね」と明澄と笑い合った。
「なんにせよ、明澄が馴染めそうで良かった」
「庵くんが沢山フォローしたりしてくれましたし、詩阿さんも東さんも気さくにしてくださいましたからね」
「親父はともかく、母さんはちょっと品がない気がしてるけど、嫌ならちゃんと言えよ」
「あれくらいは嫌な気もしませんし、学校とかで全然慣れてますから」
「そんな事言うやついるのか」
もう減っているとはいえ明澄の人気は健在で未だに生徒たちに囲まれている。過去にはセクハラ発言する者や下心丸出しの者も見かけたし、今は庵との関係を度を超えて弄ってくるのもいるかもしれない。
むっとして庵は顔を顰めたが、代わりに明澄が綻ばせる。
「ふふふ。女の子同士だと結構踏み込んできますし、もっとすごい単語が飛び交いますよ」
「明澄も飛ばしてるの?」
「ノーコメントです」
仲の良い関係値を築いた女子同士ならそれくらいあるだろうと、顰めっ面を引っ込めた庵がそう尋ねると、明澄は人差し指を自身の口元にやって口を噤んだ。
「明澄は純粋だしなぁ」
「それ、ばかにしてます? 庵くんがどんな甘え方してくるのとかみんなに教えちゃいますよ?」
「……やめてください」
昨夜は庵の肌を見たとはいえ、まだ初心な明澄だ。秘密を貫こうとした明澄へ悪戯心にちょっと揶揄ってみれば、庵は明澄から大反撃を受けた。
恐ろしい脅しだ。胡桃経由でそのカップルにはそこそこ伝わっているだろうし、庵も奏太から聞き及んでいるので良いのだが、それを知ったクラスの女子たちからは確実ににやにやと絡まれるに違いない。
明澄に甘えるのも、明澄を甘やかすのもいいのだが、その自分の姿をバラされるのはあまりにも恥ずかしい。
庵は「勘弁願います」とあっさり言い負けた。
「それにあんなキスしといて純粋なままな訳ないじゃないですか」
「……その癖、顔赤いけど」
明澄の言い分は全くその通りだが、昨夜の睦み合いを思い出したのか、頬は紅潮している。
指摘するよう、ぽそっと言った庵に明澄はまた手札を切った。
「まだ言いますか。そうだ、詩阿さんたち喋っちゃう手もありましたね」
「ごめんなさい。参りました。それだけはご勘弁願います」
今度こそ完敗だった。勝ち誇ったように「これはいい手札が増えました」とにこにこと満面の笑みを浮かべている。
実に楽しげだ。今日は久しぶりに見た明澄の楽しそうな笑顔に庵は、やっといつもみたいに戻ってきたな、と笑う明澄を髪を梳くように撫でた。
「でも、庵くんの事詩阿さんたちにいっぱい話さないと」
「やめてくれよ」
「お二人に後悔や罪悪感がありましたから。庵くんの事は気になってるんだろうなって思うんです。だから庵くんがいい人である事、幸せにしてくれる事、心配しなくてもいいように私から伝えてあげたいなって」
それは揶揄いではなく、受け入れたり招いて滞在までさせてくれる二人へ明澄なりに報いたいようだった。
「そっか、ならそれは任せる」
「あとお二方には感謝もしないといけません。庵くんが私を大事にしてくれるのとか、困っちゃうくらいの優しさとか、たらしな所とか、きっとお二人から受け継がれたんだなって感じますから」
「多分、それはそうなんだろうなあ。夫婦仲は良好だし、親父も母さんを凄く信頼してて大事にしてるし、母さんは親父にべた惚れだし。俺もずっと見てたというか見せられていたというか」
庵の性格は親譲りだ。だからこそ色々と困る事もあったが、明澄にしっかりと愛情を注ぐ事が出来ていると感謝がある。
親の仲睦まじさは見ていると胃もたれする事もあるけれど、今はあの両親で良かったと思えるのだ。
「さっきも外に出るだけなのに手を繋がれてましたし、何度も微笑み合っていて睦まじかったです」
庵と出会うまで明澄が恋愛を避けていたのは、愛のある親という存在を知らなかった面もあるのだろう。恋人と愛し合えるかどうかとか、愛情を知らない自分に与えられるかなど不安があったはずだ。
それで詩阿と東を目にした今、明澄は二人のような姿を目指したいと思うようになったらしく「理想です」と目を細めている。既にそうなっていると気付かないままに。
「俺もそう思うよ。だから、こうしてる訳で」
「ふふ、それはもう大満足ですよ」
もう何年も紡いできた親の貫禄には敵わないが自分も同じようにしたいと思いながら、庵は微笑みつつ明澄の頬を撫でると、その言葉に相違のない大きな笑みが明澄に宿った。





