第165話 聖女様の贈り物
甘い甘いケーキも完食して、腹も心も満たされた庵はソファで寛いでいた。明澄が自分で持ち込んだ調理器具などを部屋に持ち帰る為にしていた片付けを手伝おうとしたのだが、それは流石に断られたからのんびりタイムだった。
三十分もすれば片付け終えたらしく、自宅から戻ってきた明澄が目の端に見えた。
「庵くん。ちょっとだけ、目を瞑って貰えますか?」
ダウンフロアリビングの手前で、明澄は口端を僅かに上げた笑みを携えてお願いする。
安らいでいたところ急だったので、庵は少々面食らったような顔をしたが「分かった」と頷いて瞼を下げた。
部屋は明るいから瞼の裏は真っ暗という訳ではないが聴覚が鋭敏になって、数歩分の足音とごそごそと何かの擦れる音を拾う。物を取り出すような仕草を勝手に脳内で描き、それは庵の身の近くでぴたりと音が止んだ。
「もういいですよ」
促されて目を開けると、彼の目前にはピンクのリボンがあしらわれたシンプルな黒い長方形の箱が差し出されていた。
「喜んでいただけるかは分かりませんが、お誕生日プレゼントです」
箱と明澄の顔に視線を行き来させると、明澄は遠慮がちにはにかんで小さく告げれば、庵にそっと手渡し緊張を孕んだ瞳で上目に様子を見る。
不安ながらも明澄は反応を心待ちにしていたので、開けていいかと尋ねるまでもなくリボンの端に手をかける。
明澄からの贈り物なので箱もリボンも残しておきたくて、優しい手つきでリボンを解いて蓋を持ち上げると、サテン生地のケースがお目見えした。
まさかケースがプレゼントな訳ではないだろう。
もう一度隣に座った明澄にちらと顔を合わせれば、彼女は小さく笑い小さく顎を引く。焦らす展開にわくわくしながらケースを開けると、照明を反射して上品な黒い光沢を放つ一本の筆記具が収まっていた。
「……万年筆だ」
「はい。庵くんのお仕事に直接必要ないとは思ったのですが、お仕事やお勉強が良い未来に向かう事を願わせていただきました」
「意味までちゃんとしてる……」
庵は指先でその滑らかな軸をなぞって感触を確かめる。
贈り物としての万年筆には「あなたのさらなる活躍を願う」という意味が込められる。うっすらと向日葵の花柄が入っていたし、彼の誕生花とその花言葉も意識されたものだろう。
手触りからそれなりにお値段のするものだろうし、どこまでも明澄が真剣に考えて選んでくれたという事実に、目元も口元も弛緩していった。
「意味的にネクタイやネクタイピンとか、ネックレスのアクセなども考えたのですが、あまり庵くんは着けませんし、お財布はよいものを使っているみたいですからペンが一番似合うかなと」
普段から庵の近くにいるからこそ庵の性格や生活の細やかな部分に気付いてくれるのだ。ひょっとしたら彼女は庵より庵の事に詳しいかもしれない。
よく見られてるなと彼は内心でくすっとした。
「それとお仕事でもそうですし、今後大人になるにつれて重要な書類にサインしたりするでしょうから、永くその時に使って貰えればなって」
「……嬉しいな。ちょっと欲しかったものだからチョイスが完璧だ。ありがとう。本当に永く使わせてもらうよ」
言葉を選びながら一生懸命に意味や理由を伝えてくれる明澄を、庵は愛おしそうに見つめて万年筆を手に取る。
万年筆はメンテナンス次第で世代を越えて受け継げるくらい長持ちしたりと、形に残したいなら贈り物として最適解の一つだ。もしかしたら、明澄と共に添い遂げる事もあるかもしれない。
何より重要な書類、という言葉から明澄がその意図を込めているように思える。一つの書類にこの万年筆で二人分の名前を刻む日だってあるかもしれないと、その期待から喜びが徐々に膨らみ、込み上げた熱が庵の胸を満たした。
大切にしたい、と心から願うように庵は万年筆をケースに仕舞う。勿論、明澄に対しても同じだ。これからも末永く大事にしていくつもりで、この期待と熱から来る嬉しさを表すように静かに綻んだ庵に、明澄は緊張で上がっていた肩を下げて緩んだ笑みを彼に向けた。
「よかったです。お誕生日プレゼントは何にしようかなぁってかなり悩んだので、欲しかったものだったみたいで安心です」
「もしかしてここ数日探ってた?」
「はい。察しの良い庵くんにバレないかひやひやしてましたが、なんとか。でも庵くんの物欲が薄いから、逆に大変だったんですよ。沼倉さんとか芝居先生に探ってもらってやっとです」
先日から明澄には不審な行動がいくつかあった。ネットショッピングした日には奏太からはらしくないメッセージとか、明澄は欲しい物を何回か尋ねてきていたのはそういうことなのだろう。
彼の経済力と落ち着いた精神から物欲が抑えられているから、彼女の苦労は察するに余りある。
ちょっと申し訳ないが、いつものように察しが良すぎても明澄は困っただろうし、もうどうしようもなくて、二人は微妙な顔を見合せて笑った。
「そういや、奏太のやつなんか変なメッセしてきてたし、それだよな。けど、師匠はなんにもなかったな」
「それなのですが、こちらの引き出しは確認しましたが、芝居先生には念の為庵くんが万年筆を既に持ってないか確かめていただいたんです。どうやら直接聞くよりも、庵くんのご実家の引き出しをご両親に確かめてもらうような事をしていたみたいで、申し訳ないのですけれどね」
「ああ。それはいいよ。うちの親には部屋の事は好きにしていいって言ってるし、師匠も知ってるから」
明澄に協力すべく、背後で動いていた協力者たちの顔を思い浮かべて、庵は苦笑する。
間接的にだが親まで関わっていたとは思わなかったものの、彼であればそれくらいはやるから不思議ではなかった。
後で関わってくれた人たちにはお礼のメッセージをしようと、スマホを手に取る。
「今度師匠には礼を言っとく。それに色んな人からメッセ来てるのも嬉しいよなぁ」
気付けば画面は沢山の通知で埋まっている。
仕事に集中するためスマホは見ないようにしていたし、明澄からこうして祝われたりでずっと開いてなかった。
去年は明澄が氷菓として祝ってくれていたが、距離を弁えた軽いものに留まっていた。しかし、今年は様相が違った。
配信活動を始めたからか、違ったファン層を獲得していて、特に女性と思われるファンのSNSの投稿が目立っている。
『♯かんきつ生誕祭2026』と勝手に作られたタグを付け、缶バッチやぬいぐるみなどこれまでに出してきた庵の作品やグッズたちが飾られた祭壇のようなものを映した投稿や、アクスタとお出かけして特別な食事を楽しんでいる投稿まで見つかった。
スクロールすれば何枚もファンアートが目に入り、ラテアートから彼の立ち絵が描かれたケーキまである。
このハッシュタグには彼へのお祝いと幸せで溢れていた。
誰が作ったかは、隣でにこにことする愛しい恋人の笑みが見えたから、恐らくそうなのだろう。
そして、今年は仲の良いライバーの知人が増えていたから、彼女たちからも多くのメッセージが送られてきているのが目に入る。実に二十人は超えている数だ。
この祝いようは初めてで、タダでさえ明澄の豪華なお祝いにやられていたというのに、嬉しさの込み上げ方が尋常ではなくなって、庵は思わず手で目を覆い隠した。
「……もしかして泣いてます?」
「泣いてはないけど、情報をシャットアウトして噛み締めてる」
覗き込むように聞いてきた明澄に、手を解いて水跡のない顔で首を振る。
流石に泣きはしなかったが、何か一押しあればそうなったかもしれないのは事実としても、恥ずかしいから黙っておく。
「泣いてる庵くんを見た事ないので、もしかしたら見られるかなと思ったんですけどねぇ」
「残念だったな」
「どうしたら泣かせられますかね」
「そりゃあ、明澄が居なくなったら泣く」
庵はその年齢にして経験値は大人と遜色なく、枯れたとは思わないが涙腺は固い。
それこそ本当に何よりも大切な明澄が傍から居なくなったら、狼狽えて狼狽えてその先に涙が出てしまう、といったくらいしか思いつかなかった。
「では無理難題ですね」
「是非そのまま無理難題であってくれ」
「ふふ。じゃあ、庵くん泣き顔は見られませんでしたから、最後にもう一つだけプレゼントして、満足させてくださいな」
残念がる明澄と軽口を叩き合いながら、そう言ってきた明澄との間には甘く濃密な空気が漂い始める。
少しだけ声を潜め、上目遣いに見上げてくる明澄の意図を察し、庵の心臓がどくりと脈を打った。
「もう一回目を閉じて貰えますか?」
「……あ。もしかしてさっきの、キスしてくれるのか?」
「もう……! 先に言わないでくださいっ」
羞恥に顔を赤らめ、ぺしっと叩いてくる明澄に、庵はたまらず笑みを落とす。
「俺は鈍いけどこれは分かっちゃうって」
「だとしても黙っていてくださればいいものを……」
「そういう時は言う前に塞ぐんだぞ」
「む、無理なの知ってて言ってますよね?」
「はは。愛いやつめ」
「うるさいです」
真っ赤に染った明澄は抗議するように、ポカポカと庵の胸元を叩いてくる。反射的に「いて」と漏らしたら「庵くんの、あほ……」と明澄は拗ねたように言いながら、口付けてきた。
無理と言った割にすぐ仕掛けてきたから、ぱちぱちと瞬きする庵だが、抵抗はせずに受け入れた。自分からする口づけに慣れていない明澄は、これまでにしてきたキスをなぞる様に庵の唇をふにふにと食む。
庵はサポートするようにそっと腰から抱き寄せてやると、嬉しそうに身体の力を抜きながら彼の胸に手を添える。
その手は少しずつ登っていき、頬に添えられ親指がやわらかく肌を数回擦ると、唇が離れて息が混ざった。
「……やれば出来たな」
「庵くんが煽るからです」
むぅ、と拗ねたように明澄は唇を尖らせつつも、どこか悦びを隠せないでいるのが、すこぶる可愛らしい。
至近距離で視線が絡み合い、僅かに笑う。
そして何を言うでもなく、再び庵の唇に明澄はその桜色の唇で触れてきた。
呼吸を合わせるように吸い付いて、指先が庵のシャツを握りしわが強くなる。明澄の後頭部に手を回す。彼女は小さな震えを伴いながらも、健気にキスしてくるから返すように啄んでを繰り返した。
呼吸には弱く漏れる声が混じり、次第に深みを増すと思われたが、どちらともなく唇が離れる。
「……俺からもしていい?」
「し、ても……いい、ですけど。わたしからも、また、しますから……ね」
明澄からしてくれるのが嬉しくて、まだまだ明澄とのキスを味わっていたいと願い始める。
それに頑張っている彼女ばかりにやらせるのも不甲斐ないと思って優しく告げると、消え入りそうな肯定の返事があった。
ね、の語尾を塞ぐように口付ければ、代わりに声が漏れてそれも口に含む。重なるキスと吐息が互いの熱を煽り、かすかな水音が連続した。
キスの度に欲を増し衝動が昂っていくが、庵は思い止まった。このまま庵が明澄を欲しいと言えばきっと奪わせてくれるが、明日は帰省するし、まだ明澄の準備が整っていないのは知っている。
だから、暴力的になりそうな理性を優しい口づけに変換して、奪うものを最小限に抑えていた。
「も、もう一回しても、いいです、か……?」
いっぱいいっぱいになりがら吐息を交換する距離で頬を紅潮させて言う明澄に、庵は彼女だけに聞こえる声で「……いいよ」と首肯する。
今度は明澄から口づけしてきて、その勢いのままに徐々に体重を掛けられた。密着具合を高めようとしたのかと思い、庵は抱きしめてやろうとしたが、何故か胸を奥に押されるような体重の掛けられ方をする。
「え……い」
なんだ、と思った時にはぐっと手で最後のひと押しをされて庵は倒れ込んだ。
背中に柔らかなソファの感触に受け止められ、重なっていた唇が離れる。視界が開けて、はらりと目の前で銀色のストレートヘアが舞う。
覆いかぶさるような形でちょっと乱れた息を整えながら、彼女が庵を見下ろしていた。
怪しく光る瞳が庵の驚く瞳を妖艶に刺す。明澄は薄紅に染まっては、小悪魔っぽく微笑んだ。





