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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
痛みを奪う救い
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外から届いた声

正面入口の隔離扉が落ちてから、外の物音はほとんど聞こえなくなった。


古い扉は入口の枠へ深く嵌まり、光も風も遮っている。

壁や天井には白い命令線が残り、建物の供給路から灰色を送り続けていた。


それでも、ギルベルトの手元にある連絡札からは、下層救護詰所の声が途切れずに届いていた。


『灰庭、応答できるか』


「聞こえている」


ギルベルトは、札を長椅子の端へ置いた。

誰か一人だけが握り続けなくても、廊下にいる者の声を拾える位置だった。


『こちらから救護班と警備を出した。学園への緊急報告も受信された。学園側の返答が届き次第、伝える』


「了解した。入口は完全に閉鎖。子供は十名以上、内部に負傷者がいる。灰色の増加は継続中だ」


『急変があれば、すぐ呼んでくれ』


声は届く。


だが、隔離扉は開かず、灰色も止まらない。


廊下にいる子供たちは、少しずつ口数を失っていた。


傷が治ったわけではない。寒さも空腹も消えていない。

それでも、わざわざ伝える必要がないことのように感じ始めている。


ミナが連絡札を見る。


「外から来るの?」


「下層の救護班は向かっている」


ギルベルトは、分かっていることだけを答えた。


「学園にも報告は届いた。誰が来るかは、返答を確認するまで分からない」


「学園長も?」


「最終責任者は学園長だ。必要な者を決めるのも学園長になる」


安心させるために、すぐ来るとは言わなかった。


アトカは入口まで残した水路を見つめていた。

隔離扉の手前で止めた細い水が、白い命令の動きに合わせて僅かに揺れている。


「外と繋がっているなら、もう一度、入口を調べてもいいですか」


「駄目だ」


ギルベルトが答える。


「でも、フレデリック先生たちが来た時に、開く場所が分かった方が」


「お前の肩へ返った痛みは消えていない」


アトカは義手の掌を閉じた。


「何もしなければ、今は三くらいです」


「なら三のまま待て。六か七へ戻してまで、外より先に答えを作るな」


連絡札の向こうからも、救護詰所の職員が言った。


『こちらでも記録した。入口へは触れないでくれ。外から来る者にも同じことを伝える』


アトカは石の扉を見た。


それでも、水を伸ばし直さなかった。


その頃、王立エルシオン学園では、フレデリックが赤く光った受信札を開いていた。


帝都下層から最上層の学園まで届いたのは、長い会話ではない。


札面には、ギルベルトが刻んだ短い報告だけが浮かんでいた。


灰庭救護院、自動閉鎖。

子供十名以上、負傷者あり。

灰色が全館へ増加。

白い命令と外部干渉への反発を確認。

解析、救護、限定処理の支援を要請。


フレデリックは最後まで読み、短い返答を刻んだ。


受信した。

強制解除は行わないこと。

現在の役割を維持。

救援班を編成し、下層へ向かう。


送信を確認すると、すぐに必要な職員を呼んだ。


古い設備を外から確認する学園の施設担当者。


白い命令と灰色の経路を分ける魔導局の解析担当者。


子供たちの移動、保温、食事、閉鎖後の生活を支える救護職員。


さらに、白い命令だけをほかの魔力から切り離せた場合、その魔力を周囲へ広げず処理できる可能性を持つ者。


バルトロは任務開始時から、帝都下層の下層門付近で待機していた。


灰庭で見つけた魔力を、すぐに喰うためではない。

限定処理が必要になり、喰ってよい対象と範囲が明確になった場合だけ動けるよう、救護院から距離を置いていた。


フレデリックは救援班をまとめ、帝都下層へ向かった。


灰庭の廊下では、連絡札の縁が一度だけ赤く灯った。


遠距離の短い返答が届いた印だった。


「学園からだ」


ギルベルトが札面へ浮かんだ四行を読み上げる。


「報告を受信した。強制解除は行わない。今の役割を維持。救援班を編成して下層へ向かう」


その言葉を聞いても、隔離扉は開かなかった。灰色も止まらない。


それでも、学園の誰かが報告を読み、外で次の責任を引き受けたことは分かった。


「学園長、来る?」


ミナが尋ねる。


「救援班を率いて向かっている」


今度は、ギルベルトもそう答えられた。


救援班はすぐには到着しない。


ギルベルトは一定の間隔で人数と急変の有無を下層救護詰所へ伝えた。

救護詰所の職員は同じ下層内の音声を聞き取り、時刻と内容を記録していく。


リリシアは子供たちを一巡ずつ確認した。


アトカは入口へ水を伸ばさず、床に残した水路の幅だけを保った。


エルマは指先の震えを隠さず、壁と床へ現れる白い線の変化だけを追った。

観測範囲を広げず、命令経路へ干渉する操作も行わない。


マルセルも、新たな灰色を加えなかった。


それでも十一秒ごとの命令は続き、子供たちの訴えは少しずつ弱くなっていった。


ギルベルトは、言葉が減るたびに時刻と名前を口にした。


「ユナ。熱さの訴えが途切れた。傷の赤みは継続」


『記録した』


「トマ。膝へ手を置いたまま発言なし」


『記録した』


「幼い女子一名。毛布を握っている。呼び掛けへの反応が遅い」


『記録した。呼吸や顔色に変化は』


「リリシア」


「呼吸は保たれています。顔色は先ほどと同じです」


『了解した』


しばらくして、救護詰所から別の報告が入った。


『先行した救護班と警備が灰庭の外周へ到着した。扉や壁には触れていない。周囲の通行を止め、子供たちを受け入れる場所を確保している』


「了解した。強制解除はさせるな」


『伝えてある。学園の救援班が着くまで、外周を保つ』


文を刻んで送り返す必要はない。


この距離なら問いがあれば、その場で返せる。


それでも、救護詰所の者は診察を代わろうとも、灰色を止める方法を決めようともしなかった。

中にいる者が見た事実を受け取り、外へ来る者へ渡すことに徹していた。


下層門では、バルトロが壁へ背を預けて待っていた。


救援班の馬車が止まると、すぐに立ち上がる。


「閉じ込められたのか」


「正面入口が古い隔離設備によって塞がれた」


フレデリックは、学園で受け取った短い報告だけをまず伝えた。


「灰色と白い命令が重なっている。外から強く干渉すれば、灰色がさらに深くなる可能性があるよ」


「喰うのは白い方か」


「まだ決まっていない」


バルトロの眉が寄る。


「ここまで待たせといて、まだ喰うなってのか」


「君は、喰ってよい対象が分かった場合に備えて待機していた。まだ対象も範囲も分かれていないよ」


フレデリックはバルトロの顔を見る。


「灰色は、子供たちの痛みや恐怖を和らげてもいる。白い命令だけを分けられなければ、何も喰わせない」


「分かってる」


返事は不満そうだったが、異論ではなかった。


「着いたら外から味を見る。喰えるものかは俺が確かめる」


「頼むよ。ただし、喰えることと、喰ってよいことは分けてくれたまえ」


「それも分かってる」


待機中の食事と魔石補給は、普段どおり別に管理されていた。

これから処理するかもしれない異常魔力を、補給の代わりにはしない。


下層救護詰所の職員が、通話を繋いでいる札をフレデリックへ示した。


「灰庭との音声は維持できています。こちらで記録を続けますが、学園長の携行札へ通話先を移せます」


「頼むよ」


接続先が切り替わる。


フレデリックの札から、廊下の小さな物音と子供の咳が聞こえた。


「ギルベルト君。聞こえるかい」


僅かな間の後、ギルベルトの声が返る。


『聞こえます』


「こちらは下層門だ。バルトロ君と合流した。これから灰庭へ向かう。まず、今すぐ外から変える必要のある状態はあるかい」


『隔離扉は閉鎖したままです。灰色の増加は継続。呼吸が止まった者はいません。傷の急な悪化も、リリシアの確認ではありません』


「分かった。入口へは触れない。到着まで今の役割を続けてくれたまえ」


『了解しました』


フレデリックたちは、そこから灰庭へ続く細い通りを進んだ。

馬車が入れない区間では、解析道具や救護用品を分けて持ち、最後は歩いて向かう。


移動中も、通話は切らなかった。


「アトカ君。声は出せるかい」


『はい』


「肩の状態を教えてくれたまえ」


『何もしなければ三くらいです。入口へ水を近づけた時は六か七でした。今は隔離扉へ触れていません』


「そのまま触れないでいてほしい。君の役目は、内部の帰路を残すことだ」


『分かりました』


「リリシア君。子供たちの身体は」


『傷、寒さ、空腹は残っています。灰色が深くなって、訴えが少なくなっています。泣いていないことを、安全とは判断していません』


「その判断を続けてくれたまえ。外から診察を決めつけない。変化した事実だけを伝えてほしい」


『はい』


「エルマ君。観測は続けられるかい」


『手の震えは残っています。操作はしていません。白い命令線の増減と、灰色が追加される位置だけなら追えますわ』


「それ以上は増やさなくてよい。分からない部分は分からないまま残してくれたまえ」


『承知しましたわ』


フレデリックは、最後にマルセルへ呼び掛けた。


「マルセル。聞こえているかい」


『聞こえています』


「確認できている事実を伝えるよ。君が手元の灰色を止めても、建物側から追加されている。今起きている全てを、君一人の術式だけで止めることはできない」


返事はすぐには来なかった。


『では、私は何をすれば』


「新しく全館へ広げないこと。子供たちとリリシア君が必要だと判断した局所処置だけを、本人の希望を聞いて行うこと。建物全体の責任は、外にいる私たちも引き受ける」


『まだ、中へは入れないのでしょう』


「今は入れない。それでも、いないことにはならないよ」


リリシアの小さな声が札の向こうから聞こえた。


『わたしも、そう思います』


灰庭へ近づくにつれ、バルトロの歩みが遅くなった。


「何か感じるかい」


フレデリックが尋ねる。


「薄い苦さがある」


「灰色かな」


「違う。灰色はもっと鈍い」


バルトロは舌の奥へ残る感触を確かめる。


「こっちは、真っ直ぐ流れてない。どこかへ引かれて、また戻ってる」


解析担当者が記録札へ書き込む。


バルトロはその手元を見た。


「白いのって決めつけんなよ。まだ味が違うってだけだ」


「異なる反応として記録します」


「ならいい」


灰庭の正面へ着くと、先着していた下層救護班と警備員が通りを空け、建物の外周を保っていた。


入口は厚い隔離扉で塞がれていた。


壁の継ぎ目から乳白色の線が伸び、窓や屋根、建物の地下へ分かれている。

灰色はその線とは別に、建物全体をゆっくり巡っていた。


施設担当者は扉へ触れず、周囲を見回した。


「外から見える接続位置だけでも、複数あります。内部の状態と照合してから測ります」


「そうしてくれたまえ」


フレデリックは連絡札へ声を掛ける。


「ギルベルト君。灰庭の外周へ到着した。こちらには、私、学園の施設担当者、魔導局の解析担当者、救護職員、バルトロ君がいる」


札の向こうで、誰かが息を呑んだ。


『来た』


ミナの声だった。


その一言で、ほかの子供たちも僅かに顔を上げた気配がする。


「すぐに扉へは触れない。まず、内と外の反応を合わせたい。ギルベルト君、現在の人数と役割を」


ギルベルトが答える。


リリシアは身体状態の確認。


エルマは白い命令の観測。


アトカは入口までの水路と内部の退避路を維持。


マルセルは新たな全館鎮静を行わず、シロを抱いている。


ミナとナナは名前を呼び、毛布を運び、変化した子供を知らせる。


ギルベルト自身は時間、人数、連絡を管理している。


フレデリックは一つずつ聞き、役割を奪わなかった。


「その分担を続けてくれたまえ。こちらは外から、白い命令、灰色、建物を維持する魔力を分けて見る」


外では、解析担当者が建物の四方へ感知具を置いた。白い命令へ直接魔力を入れず、外へ漏れる反応だけを拾う。


「入口の隔離設備と、全館の灰色を増やす経路が近接しています」


解析担当者が報告する。


「入口だけを強制解除すると、白い命令が反応する可能性があります」


「反応した場合は?」


「内部へ送る灰色が、さらに増えると考えられます」


フレデリックは施設担当者へ首を振った。


「まだ開けない」


その判断は連絡札を通して、内部にも同時に届いた。


バルトロは入口から数歩離れ、空気の味を確かめるように息を吸った。


「灰色が手前にある」


「白い命令は分かるかい」


「分かる。でも近すぎる」


「何と近いのかな」


「灰色と、建物を動かしてる魔力。それから、下へ続く何か」


バルトロは顔をしかめた。


「ここからまとめて喰ったら、全部入る」


「喰えるかい」


「喰えるかもしれねえ」


「処理を引き受けてもよい状態かな」


バルトロはフレデリックを見る。


「違う」


短く答えた。


「今は喰わない」


長く待機し、ようやく灰庭へ着いた。仲間たちは隔離扉の向こうに閉じ込められている。


それでも、役に立つために最初に口を開くことはしなかった。


「灰色と白い命令が分かれるまで待つ。分かれなきゃ喰わねえ」


「ありがとう、バルトロ君」


「礼は、喰った後にしろ」


札の向こうで、アトカが言った。


『バルトロ先輩の声、聞こえました』


「聞こえてんなら、入口に水を伸ばすなよ」


『はい。もう触れません』


短い応酬だった。


それでも、文字に刻んで送り、返事を待つ必要はなかった。


外にいる者の息遣いも、判断を保留する声も、隔離扉の内側へ届いている。


フレデリックは、内部へ次の確認を頼んだ。


「今すでに表れている痛み、寒さ、恐怖、拒絶の違いを、一人ずつ見てほしい。反応を確かめるために、子供たちへ何かをさせる必要はないよ。言葉が出ない者は、動きや呼吸も一人分の反応として扱ってくれたまえ」


『違う状態の者へ、違う量の灰色が送られている可能性を確かめるのですね』


エルマが答える。


「可能性としてだ。まだ確定しない」


『承知しましたわ』


ギルベルトが廊下の全員へ向けて言った。


『違う声を見る。ただし、無理に話させるという意味じゃない』


リリシアが続ける。


『答えたくない方は、答えなくて構いません。言葉にならなくても、こちらで勝手に同じ答えにはしません』


廊下には、痛みを言える子供と、もう言わなくてもよいと感じている子供がいる。


怖いと答える者。


寒いと答える者。


ほかの子を先に見てほしいと言う者。


何も話さず、毛布の端だけを握っている者。


白い命令は、全員を同じ静けさへ近づけようとしている。


だが、違う状態の者たちを同じ静けさへ揃えるには、一人ひとりへ違う量の灰色を送らなければならない。


アトカは床の水路を見る。


外から届いた声は、扉を壊せとは言わなかった。


全てを今すぐ止めろとも言わなかった。


現在の役割を続けてよいこと。


一人で終わらせなくてよいこと。


外にも、待っている者がいることを伝えていた。


「フレデリック先生たちが、外にいます」


アトカが言う。


「バルトロ先輩も、まだ喰わずに待っています」


ミナが入口を見る。


「待ってるだけ?」


「今喰ったら、残すべき灰色や建物を動かす魔力までなくなるかもしれないからです」


「助けないの?」


「助けるために、まだ喰わないんだと思います」


札から、バルトロの声が返る。


『聞こえてるぞ。勝手に俺の考えを綺麗にまとめんな』


アトカは少しだけ目を丸くした。


「違いましたか」


『だいたい合ってる』


ミナの口元が、ほんの少しだけ動いた。


笑ったのかどうかまでは、誰も決めなかった。


フレデリックが静かに告げる。


『こちらも外側の観測を続ける。次に変化したことがあれば、その場で呼んでくれたまえ。返事を待つ必要はない』


「分かりました」


隔離扉の外では、フレデリックたちが入口を壊さずに待っている。


バルトロも、喰えるかもしれない魔力を前にして待っている。


灰庭の中では、四人が子供たちの違う反応を拾い始める。


閉じた建物の内と外で、すぐに力を使わないという同じ選択が重なっていた。

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