告白
誰も口を開かなかった。
「もしかして神当たり? 失神してる?」
法子ははっとして急に立ち上がった。身体がぐらりとした。
「法子!」
「危ない!」
両親の声が後ろに響いた。
足を踏み外して池に落ちることよりも、信也さんの状態のほうが心配だ。
法子はバランスを取り戻し、踊り舞台に向けて飛び石を渡り始めた。
――危ないのは信也さんのほう。
足元を見るのに忙しくて信也さんが起き上がったかどうか確認できていない。
お社側の岸に着いて目を上げると、舞手は踊り舞台から拝殿内に入ったところだった。
「会わないと、今会わないと神さまに奪われてしまう」、その一言が法子の心に広がった。
きざはしを駆け上がった。
「信也さん」
神さま側の引き戸を開けて本殿に移ろうとしていた人がふりむいた。
「行かないで、神さまのところへも、お父さんのところへも行かないで! 頼むから神さま、信也さんを奪らないで!」
お社の中で叫んでしまった。両手をぐっと握って立ち尽くしていた。
信也さんが近付いてくる。みっともなく泣き始めてしまった、法子の両肩に手を置いてくれた。
「心配いらない。今のはただの舞だよ。神憑りでも神当たりでもない。最後までちゃんと踊れただろう?
昔、後藤の圭輝先生にも言われてるんだ、我を忘れ過ぎるな、のめり込み過ぎるな、歌も踊りも演じるほうは制御しなきゃだめだって。
ロック・コンサートとかで若い女の子たちが卒倒したりするだろう? ステージからみると一種異様な集団扇動、宗教行事のようにも見える。音楽にはそれができてしまう。
特に母のピアノは、歌い踊れなかった僕でさえ操れるらしい。
あ、それとあの池の中の飛び石、仕組まれてる。社側から渡ると真ん中あたりでアレグロになって、鶴亀石の近くで三拍子になる。
勝手に身体が踊りだす。うちの先祖の策略だ、社の庭はそんな仕掛けばかり」
信也さんの言葉は耳を通り過ぎるだけだった。
「信也さんが、信也さんがいっちゃう」
しゃくりあげの間の法子の発言は自分でも意味不明だ。
信也さんの右腕が柔らかく廻ってきて、法子の顔を胸に押しつけた。
「すまなかった。そんなにのり子を苦しめていたか。僕は自分の悲しみを話せば話すほど楽になっていったのに、その分、のり子に伝播してしまったんだな。我がまましたな、甘え過ぎだ。もう、大丈夫だよ」
「父は言ってくれた、『僕の許可なく死んだりしない』と。だから丹沢で、僕は言ったんだ。『もういいよ。身体つらいなら、もう楽になっていいよ。逝ってもいいよ。僕は父親にとことん愛されて育った子だ。僕は独りで立って生きていけるよ。だから心配しないで』と。
父は意識が混濁していたから、通じたかどうかはわからないけれど、きっと、安心して旅立ってくれたと思う。
そう言っておきながら、後に遺されて、こんなに時間がかかってしまったけれど、これからも悲しくなったり、つらくなったりもするだろうけれど、それでも、生きていける。
だから、のり子にも約束しよう。僕は君の許しなく死んだりしない。のり子がもういいですって言うまで勝手に死んだりしないから。のり子がくれた気持ちに応えていくから」
信也さんの胸の鼓動と一緒に聞こえた言葉は柔らかくお社に漂った。
「君は不安定な僕そのものを受け止めた。批判も憐みもなしに、そのままの君で。それがどれだけ救いになったか言葉では言い尽くせない。赤ん坊のときも、高校生になっても、のり子はのり子でいるだけで、僕を癒すんだ」
「じゃ、お嫁さんにして、お嫁さんにするって言って!」
信也さんの胸に手をついて顔をあげ、叫んでいた。何の脈絡もなく。
「僕と結婚しても聖女にはしないよ?」
「そんなもの、なりたくない。私が欲しいのは信也さんの心!」
溢れ出した思いはもう身体の中に留まっていてくれない。
「のり子、言ってるだろ、僕は妖怪小僧だ。君を幸せにできるとは思えない」
「そんな振り方しないで」
――突然「君」と呼んだのは、突き放して距離感を悟らせるため? それとも大人同士だと認めてくれたから?
信也さんは子供扱いするように法子の頭を撫でた。
「振ってはいない。だが、圏外だな。君はまだ高校生だよ。まずは自分がなりたいと思う女性になってごらん。そして僕を魅了して。コツはもう教えてあるはずだ」
「コツ?」
「勝てるもので勝負する。僕の得意なものは僕も得意だが、それ以上に僕の両親が得意だ。ピアノも歌も踊りも、神主業も。
僕が君の父親、克也さんを尊敬するのも僕にないものを持っているからだ。
となると、のり子も僕にできないことでトップを目指して魅了して」
「そんな不可能なことを言って、やっぱり拒否ってるだけ……」
「違うよ、のり子。僕はここにいる。このお社で神主をする。物心ついて二十年、父親ばかり追いかけていた僕に大人の恋愛ができるのかどうか定かではないが、いなくなりはしない。
のり子には好きなだけ時間がある。逃げ出そうにも、のり子は大事な従妹だ、縁は切れない。
掴まえてごらん、この僕の心を。ふらふらとあの世とこの世の間を漂っていた僕を現世に繋いだように、今度は僕の心を君に」
「そんなのできっこない」
「諦めるのは君の自由だ」
「もう、信也さんったら……」
身体を離してくるりと背を向けた。「ひどい」と言おうとしたらお社がしゃべった。
……おまえにはできる……
いや、騙されちゃいけない。これは「天の声」、神主技だ。天井一面から響き降りてきて、啓示のように自分を包んでも、発言者は目の前のうさんくさい神官だ。
緋色の紐の通った卵色の斎服が振り返る。太陽のように微笑んでいる。
法子は右手を伸ばした。信也さんは、信也さんはその手を取ってくれずに、本殿の引き戸の向こうに入った。
「信也さん……」
相手は身体半分隠れるまで戸を閉めてから口を開いた。
「僕が振るんじゃないよ、のり子。その反対だ。君はこのままいけば、自動的に妖怪小僧世話係だ。
僕に僕は救えない。だがのり子にはできる。そんなこの世にたったひとつの特技を君はもう持っている。
いい女になって外にいい男を見つけないと、妖怪小僧にさらわれてとり憑かれるよ。それがのり子の運命だから、抗ってごらん」
もう一度照れたように優しく微笑んでから信也さんは、静かに引き戸を閉めた。
ー了-
読んで頂き本当にありがとうございます。
ちなみに、拙詩「あやかしの逢瀬」は信也が法子に贈った歌の歌詞です。「帰ってきた人」から五年後の話になります。




