第二章 退儺師(たいなし) 〈7〉
「ちょっと、タエ婆!」
千草が抗議した。その問いかけは酷だ。明日香も思わず立ち上がり〈念話〉で抗弁する。
〈でも、私たちは今日、明宏さんに2度助けられています。明宏さんがいなければ、私は命を落としていたかもしれません〉
「……助けられたじゃと?」
多恵婆がおどろきの声をあげた。
土鬼蜘蛛との遭遇は千草の〈念話〉で多恵婆にも伝えられていたが(土鬼蜘蛛退治の報告義務は感知退儺師にある)土鬼蜘蛛を退治したことと、明宏がそこにいたこと以外、詳細な報告は受けていない。
「そうそう、スゴかったんだよ。私に左腕キメられたまま、アスカのこと助けたんだから!」
「バカもん! どうしてそう云う大事なことをキチンと報告せん! 千草、だいたい、おぬしは日頃からなにごとにおいても、すぐにめんどうくさがって……」
「ごめん、ごめんってば、タエ婆。ほら、私も今日はテンパってたと云うか、ちょっと異常事態が多かったもんだから、……認めたくないけど若さゆえのあやまちってヤツ?」
仮面の下のキャスバル・レム・ダイクンみたいな云いわけをする千草をよそに、明日香が〈念話〉でその時の状況を多恵婆に報告した。
報告を受けた多恵婆も自分がうっかりしていたことに気がついた。
明宏の態度があまりにもふつうすぎたので看過していたが、明宏は今日はじめて異形のバケモノ・土鬼蜘蛛を目撃したのだ。
事前に土鬼蜘蛛の知識を得ている技闘退儺師ですら初陣はおびえて使いものにならないことがある。
しかし、なんの予備知識もなく土鬼蜘蛛と遭遇した明宏は、腰をぬかして泣き叫ぶどころか、明日香をかばって土鬼蜘蛛の攻撃をしのいでみせたのだ。
「いや、これは知らぬこととは云え、失礼した。明宏さん、ふたりを助けてくれてありがとうござった」
「いえ、こちらこそ。アスカさんたちがきてくれなければ死んでいたと思います。お礼を云うのはぼくの方です」
多恵婆の言をうけて、明宏はあらためて3人へ頭を下げた。
「明宏さん。おぬし、武術の心得があるようじゃが?」
「はい、一応。穴森道場で剣術を学んでいます」
「……剣術? ……穴森道場?」
多恵婆が遠い記憶をさぐるようにつぶやくと、その言葉をノートPCのディスプレイ画面で目を通した明日香が、ややあって興奮した面持もちで多恵婆たちへ〈念話〉した。
〈……『人儺記』の穴森鬼十郎!?〉
「なにそれ?」
千草が小首をかしげ、
「おお!『人儺記』の!」
と、多恵婆が得心した。
「なんですか『人儺記』って?」
多恵婆が明宏の問いかけを無視して訊ねた。
「明宏さん。おぬし、穴森鬼十郎の血縁者か?」
「穴森鬼十郎の血縁? ……ええ、そうです。穴森鬼十郎は〈鬼眼一刀流〉の開祖で、ぼくの母方のご先祖さまです」
「ね、ね? だから明日香『人儺記』とか穴森鬼十郎ってなんなの?」
千草のハテナに明日香がタイピングと〈念話〉で答えた。
「『人儺記』は〈書庫〉に伝わる江戸時代(天明3[1783]年)の文献です」
〈書庫〉とは陰陽省第五課の通称で、退儺師関係の古文書や資料が保管されている。
「で、その『人儺記』にはなにが書いてあんの?」
「江戸時代、京の都にあらわれた人儺を退儺師と一般人の剣客で退治したって云う記録なんです」
「一般人の剣客?」
信じられないと云った表情の千草へ明日香が小さくうなづいた。
「……なので『人儺記』は偽書ではないかとも疑われていました。でも、数年前の調査で洛北にある大和寺の過去帳から穴森鬼十郎の生没年が確認されたことや、彼の拓いた剣術道場が幕末まで京都にあったことがわかりました」
「明宏クンとこの剣術道場っていつからこの街にあんの?」
千草の問いに明宏が答えた。
「……この街に道場をかまえたのは明治の末か大正頃ってきいた気がする」
穴森家は幕末から明治の一時期、北海道へ移っていたときいたおぼえがある。
明治維新で幕府軍に組して函館へ渡ったとか、屯田兵として北海道の開墾に従事していたとも云われているが、詳しくはきいていないし、おぼえていない。
「穴森鬼十郎は明宏さんと同じように、土鬼蜘蛛の結界へ出入りできたと記されています」
(ぼくのご先祖が人儺と戦っていた?)
もちろん、穴森鬼十郎が人儺と戦っていたなんて話はきいたことがない。道場を継いでいる大膳や伊織は知っているのだろうか?
「……なんとふしぎな縁じゃ。否、これは運命か?」
「退儺師の資質がある」と云った千草の無責任な直感は、あながち的外れではないかもしれないと多恵婆はひとりごちる。
当然、明宏に明日香のような攻撃能力や千草のような感知能力は期待できない。
しかし、土鬼蜘蛛の動きに対応できる剣術家が退儺師コンビをサポートするのは心強い。
感知能力をもった〈感知退儺師〉と、攻撃能力をもった〈技闘退儺師〉のツーマンセル、退儺師コンビ唯一の泣きどころは、戦闘中、感知退儺師の防御が手薄になることである。
戦闘になれば、感知退儺師は戦闘の邪魔にならないよう、結界ギリギリのところまで下がるのがセオリーとなっている。
千草がしこみ杖をもっていたように、感知退儺師にも最低限の自衛手段はあるが、技闘退儺師が先にやられてしまえば、決定的な攻撃能力を持たない感知退儺師が土鬼蜘蛛の餌食になるのは自明である。
また、不意打ちで感知退儺師が狙われる可能性もないわけではない。そのため、技闘退儺師は、常に感知退儺師を気遣いながら闘わねばならない。
しかし、明宏のような〈補強者〉でない剣術家が、感知退儺師の防御と技闘退儺師の援護に当たることができれば、技闘退儺師はより戦闘に集中できる。
多恵婆がそんなことを考えていたら、明日香がふたたびなにかに気づいたようすで〈念話〉で語りかけた。
〈タエ婆さま。明宏さんが土鬼蜘蛛の結界に出入りできると云うことは、彼のお母さまにもその素養があったかもしれないと考えられませんか?〉
〈ほう、ほう。そう考えると、土鬼蜘蛛が引き起こした飛行機事故に、明宏さんのご母堂の無自覚な能力がなんらかの影響を与えた可能性も出てくるわけじゃな?〉
〈わかりませんけど、ひょっとしたら〉
「これは早急に〈五古老〉へ報告せねばならぬようじゃの。……アスカ!」
明日香と〈念話〉で無言のやりとりをつづけていた多恵婆が席を立った。多恵婆が顔をゆらして明宏の気配をさぐるとしずかに語りかけた。
「明宏さん。退儺師うんぬんの話は別にしても、おぬしのことは上へ報告せねばならぬ。おそらくは〈百眼〉に精査してもらう必要もあるでの」
明日香が多恵婆を介添えすべくその手をとった。
「……まだ他に訊きたいことがあれば、ここへのこって千草やアスカに訊ねるがよい。アスカもすぐ戻ってくるでの。今日はお会いできてよかった。それでは失礼する」
多恵婆はそう云いのこし、明日香へ先導させると事務室をあとにした。目の見えぬ相手とわかっていても明宏は席を立ち、一礼した。
「ありがとうございました」