第二章 退儺師(たいなし) 〈5〉
「土鬼蜘蛛が結界を張るって話はしたよね?」
「うん」
千草の問いに明宏がうなづいた。
「土鬼蜘蛛の能力もそうなんだけど、特に結界は人の記憶に作用するの」
「……?」
「土鬼蜘蛛の結界へとりこまれた人たちは、結界が消えると結界内にいた時の記憶をなくしてしまうんです」
明日香が補足する。
よしんば、運よく土鬼蜘蛛に喰われなかった人がいたとする。危ないところを千草たちのような退儺師に助けられた人がいたとする。
ふつうなら、彼らの口から土鬼蜘蛛や退儺師の存在がもれないはずがない。土鬼蜘蛛は天狗や河童以上に有名な妖怪として恐れられてもよいはずなのだ。
しかし、土鬼蜘蛛のみならず、退儺師の存在すら完璧に秘匿されてきたのは、土鬼蜘蛛の結界効果で彼らの記憶が消去されていたからである。
結界内でのできごとをおぼえていられるのも退儺師の特殊能力である。陰陽師でも結界内でのできごとをおぼえていられるのは、数人しかいないと云われている。
「ちょっと待って。じゃあ、なんでぼくは……」
2度も土鬼蜘蛛と遭遇した記憶を持っているのか?
「それを知りたいのはこっちのセリフなんだってば。ただ、まちがいなく明宏クンの記憶は消えなかった。2度目の時ですら。そうなると残された可能性はふたつ。明宏クンには退儺師の資質があるか、あるいは人儺か」
「さっきも云ってたよね。……人儺って?」
「んー、ちょっと伝説めいた話なんだけどさ。人の姿をした土鬼蜘蛛のこと。土鬼蜘蛛は人と一緒に人の記憶も喰らうんだって。それで少しずつ知恵をつけていくらしいんだよね。そして、土鬼蜘蛛が人間をたくさん喰らうと、人の姿を手に入れるって云われてる。それが人儺」
「鎌倉時代に描かれた『土蜘蛛草紙絵巻』に登場する美女の姿をした人儺は、1990人もの人を喰らっていたとされていますが、実際、人儺へ変化するのは100人くらいではないかと云われています」
明日香のタイピングした補足説明が人工音声で語られる。
(……そんなバケモノかもしれないと疑われていたのか)
そんなことより気になることが増えた。明宏は訊いた。
「人の記憶を喰らう? 知識とか思い出までとりこむってこと?」
「それだけじゃないんだよね。……今朝、土鬼蜘蛛の犠牲になった人がいたでしょ?」
千草が唇を噛んだ。表情がかたくなる。
明宏の脳裏に赤いパンプスの記憶がよみがえる。あまりにも非現実的な光景だったが、明宏はまちがいなく人が喰われて殺される場面に遭遇したのだ。
「あの人は存在した記憶そのものも喰われた。あの人の人生にかかわった人たちが、あの人のことを思い出すことは、ない」
「え……!? だって住んでた家とか写真とか、いろいろのこっているだろう?」
「明宏さん。おぬしはここへくるまでの石段の数をおぼえているかえ?」
多恵婆が訊ねた。
「……いいえ」
「それと同じことじゃ。おぬしが道ばたに落ちている砂粒に気をとめることがないように、喰われた人の痕跡はそこにあっても人の意識にのぼらなくなるのじゃ」
「たとえば、土鬼蜘蛛に喰われた人と一緒に写っている写真があるとするじゃない? 土鬼蜘蛛に喰われた人の姿が写真から消えたりするわけじゃないんだけど、その写真を見た人は、土鬼蜘蛛に喰われた人を意識することができなくなるの」
「そんな……」
千草の補足に明宏はぼう然とした。痕跡のない死。それは明宏の哀しみをよび起こした。不覚にも明宏の目に涙がにじむ。
「どうなされたのじゃ?」
雰囲気の微妙な変化を察した多恵婆が訊ねた。明宏は泣き出しそうになるのをこらえながら答えた。
「……すいません。個人的なことを思い出して。……4月に飛行機事故があったじゃないですか?」
今度は明日香たちが息を呑んだ。そんな3人のようすに気づかないまま明宏はつづけた。
「あの飛行機事故で両親が亡くなったんです。だれも知らないところで、なにものこさず消えてしまって……。それだけでもすごく寂しいのに、土鬼蜘蛛に喰われた人は生きていた証しまでうばわれてしまうなんて……」
多恵婆がしずかに目を伏せた。明日香がうつむき、千草が天をあおいで大きく息をついた。
「明宏クン、ごめん。私にそこまで読めてりゃ、明宏クンのこと疑う必要なんてなかったのに……。なんか今日、厄日だな……」
3人のようすに今度は明宏の方が困惑した。明宏は千草が接触テレパスで彼の記憶を読んだことは知らされていない。
「……明宏クン。落ちついて聴いて。あの飛行機事故は……土鬼蜘蛛の仕業だったの」
「な……!?」
それはきわめて奇妙なケースだった。土鬼蜘蛛が離陸直後の飛行機の前にあらわれたのだ。
もちろん、その地区を担当する退儺師が現場へ急行したのだが、空港内での連絡に齟齬があり、公安警察をよそおった退儺師たちが滑走路へ出ることを許可されなかった。
そして飛行機の離陸直後に土鬼蜘蛛が出現し、飛行機と衝突した。
陰陽省の調査でも事故の直接原因は不明だが、出現時の空間のゆがみと衝突がなんらかの作用を起こし、大爆発を引き起こしたと推測されている。
「……犠牲者の方々が土鬼蜘蛛に喰われなかったことだけが僥倖じゃったと云えよう。本当にすまなんだ」
そう云って頭を下げる多恵婆に明宏がを頭をふった。
「お婆さんがお気になさる必要はないです。そんなの人間の力でどうにかなることじゃないじゃないですか」
土鬼蜘蛛が両親の仇と聴かされても現実感はわかなかった。やはりあれは避けられなかった事故なのだと思う。
「あんたたち一般人にはどうすることもできなかったかもしれないけど、私たちならどうにかすることができたかもしれない。だからくやしいのよ」
千草の言葉に明日香も首肯した。
(たしかに、ぼくにはどうすることもできないかもしれないけど……)
そう納得しかけた明宏の脳裏に別の可能性がよぎる。
「……そう云えば、さっき千草さんが云ってましたけど」
明宏がしずかな口調で多恵婆へきりだした。
「お婆さん。ぼくもその退儺師になれますか?」
一瞬、沈黙が流れた。さすがの千草や明日香も明宏がそんなことを云いだすとは思ってもいなかった。かかわりあいになりたくないと思うのがふつうだ。
「……無理じゃの」
多恵婆はやさしく、しかし決然と云った。
「でも、千草さんは、ぼくに退儺師の資質があるって……」
「それは千草の早合点にすぎぬ。明宏さん、おぬしはたまたまの結界へ自由に出入りできたかもしれぬ。が、それだけのことじゃ。退儺師として戦う力は得られぬ。修行したところで〈念話〉すらできぬであろう」
「そんな……」
「健常者は退儺師になれぬ。退儺師になれるのは、儂らのような〈補強者〉だけじゃ」
補強者とは退儺師の言葉で目や耳の不自由な人のことを指す。