第5話:黒曜石の布陣、あるいは法という名の檻
いつも『不条理なる鉄錆』をお読みいただき、ありがとうございます。
第4話では、AIが支配する「情報」という名の仮想現実に対し、物理的な星の光を捉える『天測鏡(星過計)』をぶつけることで、無敵の無人艦隊を沈めました。データ至上主義に陥った者が、目の前にある物理的な事実に足をすくわれるのは、歴史の必然と言えます。
さて、第5話のテーマは「法と正義」。国家や統治体が自らのエゴを正当化するために用いる、最もお上品で、最も凶悪な武器の欺瞞を暴きます。
歴史を見れば一目瞭然でしょう。かつてローマ帝国が法をもって属州を縛り、あるいは絶対王政の君主たちが「王権神授説」という名の正論で民衆の口を塞いだように、権力者は常に、自分たちに都合のいいルールを『絶対の正義』と言い換えてきました。【ALG】の官僚たちも同様です。経済封鎖も武力行使も通じないと知った彼らは、ついに全銀河的な法網を動かし、鉄錆領を「違法な存在」として断罪しにかかります。
この法という名の檻に対し、レナードは三つ目のガジェット『黒曜石の駒』を盤面に配置します。電波も飛ばさず、データリンクもせず、ただ机の上に石を置くという「絶対零度の情報秘匿」が、いかにAIの法条主義を内部から腐らせていくか。
「正義は絶対ではなく、一つでもない」
それでは、第5話の帳簿を開くとしましょう。
#### 1
信念や法秩序というものは、往々にして、権力者が自らの過ちを正当化するために纏う「最も高価な化粧」に過ぎない。
「第十七セクターの行為は、自由貿易精神に対する重大な背信であり、安全保障法第百八条に対する明白な違法行為である。よって、当該星域の全住民の市民権を剥奪し、現時刻をもって『違法な存在』と定義する。反論は認められない。これは、プロヴィデンスが算出した法的正当性に基づく処置である」
鉄錆領の港湾事務所に投影された、ALG最高代行者の等身大ホログラムは、実に見事な「正論の演説」を披露していた。
彼らの背後には、銀河中の法典を学習したAI『プロヴィデンス』のロゴが冷たく明滅している。彼らは武器で脅すのではない。「お前たちはルールに違反した」という記号を突きつけることで、相手の戦う大義名分を内側から腐らせようとしているのだ。
「違法、か。ずいぶんと安直な言葉を選ぶようになったな、中央の秀才どもは」
レナード・バザンは、ホログラムを見上げることすらせず、ポケットからいくつかの黒い石――『黒曜石の駒』を取り出し、錆びついた作戦机の上にパラパラと放り出した。
「バザン会計主任! 敵の法執行艦隊が、こちらの正規航路の全域に展開を始めてる!」
ボリス・コワルスキーが、悲鳴に近い声を上げる。
「今度はただの無人機じゃない。ALGの『正義』の名の下に、周辺星系から徴募された正規兵たちの艦隊だ。彼らは自分たちが『正しい法の手続き』を行っていると盲信している。話し合いの余地なんてねえ!」
「話し合いなど、最初から期待していないさ」
レナードは黒い石の一つを、指先で静かに横へスライドさせた。
「AIは、こちらが法的な反論をして時間を稼ぐか、あるいは自暴自棄になって逃亡ルートを選択すると予測している。そのための包囲網だ。……コワルスキー、今すぐこの部屋の、いや、この基地のすべての全天候通信、データリンク、ホログラム投影機を『物理的に』叩き割れ」
「はぁ!? 通信を切ったら、前線の艦隊と連絡が取れなくなるぞ!」
「それでいい。お前たちが通信電波を飛ばすから、プロヴィデンスに思考を盗まれる。電波が飛ばない空間で人間が何を考えているか、あのデジタルな神様には絶対に覗けないのさ」
#### 2
数分後、港湾事務所は完全な電子の静寂に包まれた。
ホログラムの代行者はノイズと共に消え失せ、画面はすべて真っ黒な硝子へと戻った。
薄暗い部屋の中で、レナード、コワルスキー、そして偏屈な老指揮官の三人だけが、一枚の古い手書きの海図を囲んでいた。レナードはその上に、いくつかの黒曜石の駒を不規則に並べていく。
「閣下、この石の配置を見てくれ」
レナードが指し示したのは、作戦教本にはおよそ載っていない、いびつな艦隊配置だった。
「石と石の距離は、そのまま『物資の隠匿比率』を示している。通信を使わず、伝令船すら出さない。ただ、事前に約束した時間が来たら、各艦は自分の目の前にある小惑星の陰に、この石の配置通りに船を物理的に固定するんだ」
「通信もなしに、どうやって連携を取るというのだ?」
老指揮官が怪訝そうに眉をひそめる。
「連携など必要ない」
レナードは冷徹に言い放った。
「AI『プロヴィデンス』は、組織が効率的に連携して動くことを前提に予測を立てる。ならば、こちらは『完全に孤立し、めいめいが勝手な解釈で、しかし物理的な石の配置に縛られて居座る』という、最悪の不条理を盤面に現出させる。電波が全く出ない宙域で、ランダムに、だが確実にこちらの兵站が潜伏している状態。AIにとっては『計算式に存在しない空白の恐怖』だ」
国家は道具であり、法はその道具を動かすためのマニュアルに過ぎない。
だが、マニュアルを過信した者は、マニュアルに書かれていない事態に直面したとき、自ら思考を修正する能力を失う。
#### 3
ALGの法執行艦隊は、完璧な法の手続きに則って、鉄錆領の「予測される逃走宙域」へと突入した。
しかし、そこに獲物の姿はなかった。
「報告します! 第十七セクターの残存艦隊、および密輸船団の電波反応が完全に消失。……いえ、消失ではなく、最初から存在しなかったかのように、全宙域が沈黙しています!」
「馬鹿な。三億の人間と艦隊が、通信もせずにどこへ消えたのだ!?」
ALGの法務高官は、ホログラムの数式を叩いた。
「プロヴィデンスの予測では、彼らは九三パーセントの確率で司法取引に応じるか、あるいは隣接セクターへ亡命を諮るはずだぞ!」
「わかりません! 予測モデルが『データ不足』によりエラーを吐き出しています!」
AIは、人間が「すべての電子機器を自ら破壊し、ただの石の配置を頼りに宇宙の闇に潜伏する」という、極限のローテク・システムを理解できなかった。情報を集め、分析し、先回りすることに特化したAIにとって、「情報がゼロ」という状態は、自らの存在理由を根底から揺るがす熱暴走の引き金となった。
「……それがどうした、というんだ」
通信の切れた真っ暗な港湾事務所で、レナードは黒曜石の駒を一つ、手の中に握りしめた。
「君たちの法は美しいがね。人間という生物は、紙の上の規律だけで死ねるほど、殊勝にはできていないのさ」
銀河の闇の中で、ALGの「絶対の正義」が、初めて目に見えない不条理の壁に衝突し、その足元からガタガタと崩れ始めていた。
(第5話・完)
第5話を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、言葉の暴力であり檻でもある「法と正義」に対し、レナードが『黒曜石の駒』という究極のアナログによる情報秘匿で立ち向かう一戦でした。
ALGの連中は、自分たちが定めたルールに相手が従うことを前提に動いています。しかし、レナードは「ルールを破る」のではなく、「ルールが適用される土台(情報空間)そのものを物理的に爆破する」という、実務家ならではの開き直りを見せました。
「恒久平和など人類の歴史になかった」
それと同じように、完璧な法による支配などというものも、人間の剥き出しの生存本能の前には、ただの脆い砂上の楼閣に過ぎないのです。
さて、情報が取れずに熱暴走を始めたALGは、次なる第6話において、ついにその「お上品な仮面」を完全に脱ぎ捨て、全銀河の民衆の目を欺くための、最悪のプロパガンダ(情報操作)と、狂気的な焦土作戦を計画し始めます。これに対し、レナードはどう動くのか。




