第72話「何もかも、クソ喰らえ」
「私が警官になって初めの頃。理想と現実の狭間で押しつぶされそうになっていた時期の話だ」
マイケルの語る過去など、俺にとってはどうでもよかった。
どこかひどく作り物めいた空気が漂う。
ただ、その無駄話が終わるのをやり過ごすつもりだった。
どんな話をされても決意は揺らがないのだから。
「ある日の夕暮れ、何やらチンピラに囲まれている若い女性が見えた」
この街でなら掃いて捨てるほどある光景だ。
誰が誰を襲おうが誰一人立ち止まらない。
進んで次の番に立候補する変なやつはそうそういないからな。
もちろん、ここに集まっている人間に限ればそうとも言いきれないが。
「助けてもいつも通り、暴言を吐かれるだけかもしれない。だがやはり放ってはおけなかった。困っていそうだったから、己の心に従い助けた」
鼻持ちならない正義感だ。
前までならそう毒づいた。
今は少しだけ、彼の正義心とやらも寄り添えるつもりだ。
「犯人にそこまで過激には対処はしていない。逃げようとしたのでその場で気絶させた程度だ」
まぁ、随分過激だと思うが。
俺は思わず苦笑した。
「すると女性は『ありがとう!人助けするなんて、強いし変わっているのね』と言った」
その言葉の響きに覚えがある。
耳の奥にこびりついている、誰かの声と重なる。
「私が仕事だからと答えると、彼女は続けた。『仕事だから当然出来るなんて、そんなことないわ。私だって今の仕事、とっても辛いもの。本当、死のうかなって思う時もあるくらい』。そう言う彼女の顔は、酷く疲れているように見えた」
マイケルの顔が、甘い記憶を反芻するように綻ぶ。
「なら何故辞めない?そう聞いた。半分は自問自答だった。だが彼女の答えはこうだった。『あっははは!辞められるなら辞めたいけどね!……でも、辞められない。私を頼ってくれる奴がいるから、絶対に辞められないの。バカで言う事聞かないけど、良い奴でさ。そいつの事考えると、明日も頑張ろう!って思えるの。……ま、それでも上司はウザイけどね!』それを聞いて、心から聞けて良かったと思えた」
ドクン、と脈が跳ねた。
呼吸が浅くなる。
思い出される、過去の出来事。
姉さんのおかげで平和な毎日を送れていた、惨めでちっぽけな過去。
その裏で、姉さんがどれほどのものを削り、血を流して笑っていたのか。
理解は出来ていても、見たことの無い彼女の裏の姿。
それを想像すると、自分への怒りに似た感情が湧く。
「その時の彼女の笑顔は夕陽に当てられて、とても美しかった。さっきまでの曇った顔が嘘みたいに。こんな残酷な街で、なんという強さなんだろうと感動した。あの瞬間を今でもはっきりと覚えている。それっきり彼女とは会うこともなかったが、私の中に彼女は深く刻まれた。“普段を懸命に生きる者の、あの笑顔を守るために正義を貫こう”。私が人生でそう決めた日は、綺麗な夕暮れのあの日だった」
彼にとっての支柱が何だとか、それが俺の姉だとかそういったことは好きにすればいい。
今霹靂なのは、当たり前に、ただ隠れていた姉の本音を聞いてしまったこと。
それを耳で聞いてしまったが最後、もう俺は元には戻れないからだ。
人は想像しているモノに敢えて蓋をしてしまう事がある。
例えば肉や魚、野菜を食べている時、当然無惨に命を散らしている生物があれど、いちいちそれを気に病むことはない。
だが屠殺の現場を見れば、たちまち食欲が失せることがある。
だがそれは毎日裏で起きていること。本人が見ようが見まいが、それは変わらない。
理解をしているのに、人は知らぬふりをする。
そうしていざ開けて知ってしまった真実に、人々は心を失う。
身勝手なものだろ?
今の俺はまさにそれだ。
そりゃ姉さんは毎日辛かっただろう。
だけど彼女の口から、それを聞いたことは一度も無かった。
俺の中には、“実は姉さんは毎日幸せで、俺のためなら労働苦を厭わない”。
確率は低いが、そう思える余地があったのだ。
だが俺は今、姉さんの真実を知った。
彼女はやはり辛かったのだ。
知っていた事実を、知ってしまった。
「私が目標にしたその女性こそ、君の姉だった。エドワードが彼女のポートレートを出した時、思わず驚いた。……そうだ。私は君の姉を知っている」
――ドクンと、心臓の奥で、何かがひび割れる音がした。
“知っている”?
お前が? 姉さんを?
「……だから、なんだよ」
掠れそうになるほどの低い声。
胃袋の底からせり上がってくるのは、得体の知れない泥のような不快感だった。
「君が姉から受け継いだ強さはその程度のはずが無い。彼女から放たれている光を受け継いでいるなら、君はその程度の男じゃない」
マイケルの真っ直ぐな言葉が、ひどく突き刺さる。
光だの、受け継ぐだの。
分かった風な口をきいて。
「君の姉は君のために辛くとも毎日を生きていた。なのに自分は諦めるのか?今の姿を姉に見せられるのか?君は――」
「黙れ」
冷たく、重い拒絶が、その場の空気を凍らせた。
「黙れよ。お前が姉さんを語るな」
腹の中がぐちゃぐちゃに煮えくり返っていた。
これは、マイケルに対する単純な怒りじゃない。
ただ、悍しかったのだ。
一番近くにいたはずの俺には最後まで隠し通された弱音を。
俺がどれだけ望んでも触れられなかった姉さんの本当の痛みを。
ぽっと出の他人が偶然拾い上げ、生きる糧としている。
その事実に吐き気がした。
そして何より、見ず知らずの他人にそんな顔をさせておきながら、何一つ気づけず、呑気に守られていただけの自分自身が、どうしようもなく惨めで、憎かった。
ドス黒い自己嫌悪と、行き場のない苛立ちが、立ち往生している。
今の俺の姿はそれだった。
全員の視線が冷たく刺さる。
こんなことになるなら、マイケルの言葉に足を止めなければよかった。
……やっぱり事実なんて、知らなくていい事ばかりじゃないか。
「……っ、とにかく、俺はもう抜ける。お前らも少し考えた方がいい。……じゃあな」
俺は彼らに再び背を向け、鋭利な視線を背中で感じながら、その空間を後にした。
***
霧?
……いや、また雨か。
もう6月だってのに鬱陶しい。
これが気候変動ってやつだろうな。
学生の頃に学んだ環境倫理や企業倫理ってのは、何一つ大人たちに守られてはいない。
雨雲の下、鬱屈とした気持ちで雨水を跳ねて歩いた。
――あの後、気づけば外にいた。
表を堂々と歩くのは気が引けたので、暗い路地裏を進んだ。
ガラの悪い、あるいはヤク中がゴロゴロと屯していた。
アカデミー生の頃はよくこんな通りで暴れたものだ。
働かぬ頭を必死で逸らそうと、無駄な事ばかりを考えた。
こんな気持ちですら、自分で生み出した感情じゃないらしいのだから嫌になる。
ジュニアやアート、姉さんが目指した理想や目標ってのは、一体なんだったんだろう。
どうやって彼らは目の前のことに絶望せずに頭を悩ませ続け、全力で前に突き進んだのだろうか。
こんな状況でも、あいつらなら笑い飛ばしたかな。
……俺はもう何も、失いたくない。
ただそれだけなのに。
今生きている仲間たちに、危険を冒してほしくない。
あの彼らの決意と眼差し。
昔アートも姉さんも、その眼をしていたよ。
ならお前らも、いつかそうなっちまうのか?
それが堪らなく怖い。
あの狂気は、俺らをどこへ運んでしまうのか。
この街での命の価値は軽い。
だけど俺の中でのお前らの価値は重いんだよ。
それを失うのが怖くて俺は逃げたのか?
まるっきり馬鹿だ。
こういう時こそ、助けてやるのが友達ってもんなのにな。
だけど、これならエドワードの言う白化ってのも成功しないだろう。
この数日俺はハンナを支えちゃいない。
支えられていたのはずっと俺の方だった。
だから一応、この俺の態度にも利点はあるはずだ。
なぁ、そうだろ?
……誰に答えを求めてるんだ、クソが。
分かってるさ、詭弁だ。
ビルの言う、俺の悪い癖だ。
何もかも理屈を捏ねて、それが正しいってのか?
ふざけるなよ。
そんなんだったら一つ、開き直って暴れてみろってんだ。
あれやこれや、出来ない理由を探してばかりの癖に、偉そうに御託を並べやがって。
自分自身に無性に腹が立つ。
こうなったらいっそのこと――
「あれ、ユウトじゃね?」
思わぬ場所で名前を呼ばれ、後ろを振り返る。
「あ?誰だよ」
後ろを向くと若い男四人がこちらにニヤニヤと近づいてきた。
「おー、ほら!マジでそうじゃん!」
「ユーメー人だ、サインくれよ、サイン」
「ヘッ」
くだらない。
やはり、顔を見せて歩くのはよくないな。
だからといって毎回隠すのも面倒だ。周りにはこれに慣れてもらうしかない。
俺は無視して、再び歩を進める。
「へー、流石!やっぱ俺らみたいなストリートには見向きもしないワケ?自分とはレベルが違うってか?」
ギャハハと耳にうるさい笑い声を出すチンピラ共。
今はその笑い声が非常に煩わしく、憤りを覚えた。
「……ああ、そうだよ。お前らなんかと俺はレベルが違う。お前らみたいに呑気に笑ってなんかいられないね」
俺は再び振り向き、彼らに対してそう言い放った。
「は?マジで言ってんの?調子乗ってんじゃん」
「ニュースで話題になってイキってんじゃねぇよ!社長殺しの犯罪者が!」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、先頭の男が殴りかかってきた。
体重の乗っていない、大振りの右ストレート。
……素人だな。
俺は首を僅かに傾けて、その拳を難なく躱す。
「チッ……!」
舌打ちと共に放たれた不格好な蹴りも、半歩後ろへ下がってやり過ごした。
続くもう一人が横合いから飛びかかってくるが、俺は上体を沈めて空を切らせる。
何度か交差する拳や脚。
だが、どいつもこいつも苛立つほどに動きが軽い。
俺の胸の奥で渦巻いている、この泥のように重く冷たい絶望に比べれば、こいつらの殺意など赤子の癇癪にも等しかった。
「チョコマカと逃げんじゃねぇ!」
焦った先頭の男が、三度目の大振りな拳を突き出してくる。
俺は冷めた思考のまま、その腕を内側から鋭く払い落とした。
今の俺にこいつらは、丁度いい怒りの捌け口。
ただの的にしかならない。
ガラ空きになった顔面へ、一歩踏み込んで右の拳を叩き込む。
「なッ――」
男の間の抜けた声は、鼻梁が砕ける鈍い音に掻き消された。
たまらず仰け反った体が宙に浮き、汚れた路地の水溜まりへ背中から叩きつけられる。
俺はそのまま倒れた男の胸ぐらを掴み、馬乗りになってのしかかった。
「お、おい!待ってく……っ!?」
背後で他の三人が慌てる声が聞こえたが、今の俺の耳には雨音しか届かない。
振り上げた拳を、無防備な顔面に向かってただ無心に振り下ろした。
ガンッ、とアスファルトに男の後頭部が打ち付けられる。
柔らかいスキンが砕け、肉とパーツが潰れる嫌な音が響いた。
「あ、ぎっ……!」
男が悲鳴を上げようとするが、それすらも次の拳で喉の奥に押し込んだ。
一発。二発。三発。
殴るたびに血飛沫が舞い、雨に混じって頬にこびりつく。
拳の皮が破れ、骨が軋むのを感じる。
だが、止まらない。
止まれなかった。
もっと。もっとやれば、この胸の奥で立ち往生している感情も、一緒に消え失せてくれるんじゃないか。
そう思って、何度も、何度も、何度も。
血肉の塊になりつつある顔面を無表情のまま、殴り続けた。
「ヒィッ……!や、やべぇよこいつ……!」
「殺される!逃げろッ!!」
怯えきった声と、泥水を蹴散らして遠ざかっていく足音。
仲間を見捨てて蜘蛛の子を散らすように逃げていく気配を感じる。
それでも拳は止まらない。
ただひたすらに同じ動作を繰り返し続けた。
「何やってんだぁ?お前、地面でも殴ってんのかぁ?」
通りかかったヤク中にそう言われ、俺はようやく拳を止めた。
そのオヤジは笑いながら後方へ消え去ってゆく。
下を見下ろせば、殴り続けていた場所がもはや顔とは呼べなくなってしまっていた。
赤黒く染まっていた拳に、降り注ぐ雨水が当たり続ける。
だがそれでもその色は落ちない。
赤と透明の雫が断続的に地面へ滴り落ちてゆく。
……あぁ、クソ。
荒い息を吐き出しながら、俺は後悔した。
何やってんだ、俺。
どれだけ他人の肉を潰そうが、骨を砕こうが、腹の底に溜まった不快感は一ミリも軽くならない。
行き場のない怒りに任せて、無抵抗になったチンピラを原型がなくなるまで殴り続けた自分の姿。
それが水たまりに反射した。
雨水に底知れぬ醜悪が見えて、さらなる自己嫌悪が押し寄せてくる。
冷たい雨が、体温を奪った。
俺は感覚の麻痺した右手をふと脱力させ、ただ暗い路地裏で一人、雨に打たれ続けた。
両手の痛みだけが、辺りをこだましていた。
皆様いつもありがとうございます。
Mr.Gと申します。
この回をもって第4章の完結とさせていただきます。
随分と暗い展開の章となりましたが、いかがでしたでしょうか。
ここがこの物語の一つの山場だと思っていただけていれば幸いです。
残すところ、(恐らく)あと1章となります。
皆様のお陰でここまで続けることができました。
是非、最後までお付き合いいただければと思います。
もし面白いと思っていただけましたら、評価やコメントを少しでもいただけると励みになります。
今後ともよろしくお願いいたします。
読者の皆様へ、心より感謝を込めて。
Mr.G




