篠原先生と桜の季節
サブタイトルと同名の短編小説をそのまま番外編としてあります。
―教師なんてなるつもりなかったんだけどなあ―
桜の季節になると必ず、そう思う。
声楽で食っていきたくて、音大にまで行ったけど、やっぱり芽は出ないまま。
それでも食い扶持は必要で、仕方なく音楽教師になった。
初めの頃は、慣れないことばかりで、何でこんな事をしなきゃならないのかと、苛立ちよりも自分の才能の無さに悔しさを覚えた。
それが変化したのは、慣れないことばかりして3年が経ち、初めて担任になった学年を送り出した時だった。
普段は話かけてもくれない静かな女子生徒、いつも突っかかってばかりの男子生徒、練習に全く身が入っていなかった合唱部員。
それぞれが、新たな希望を抱きどこか満ち足りた表情で、
「ありがとうございました。」
と頭を下げて来た時。
満開の桜の花が霞んで見えたのはなぜだったのか。
―教師なんてなるつもりなかったんだけどなあ―
そう思うことを何度も繰り返し、同じ数だけ桜の季節も繰り返した。
新米と呼ばれる期間はとうに過ぎ、今や若手ですらなくなり中堅と呼ばれるようにすらなっていた。昔は毎日のように四苦八苦していた書類仕事も手を抜くコツすら覚えていた。
教師をやっていると、何というか、気にかかる生徒というのが必ず何人か出てくる。
特に、書類仕事の手抜きの仕方を覚えた頃には、何か問題がありそうな生徒が直感で分かるものだ。
今、気がかりなのは、音楽の授業を担当しているクラスにいる、横山という男子生徒だった。
横山の担任で同期の熊谷に聞いてみれば、熊谷もまた気がかりだという。
しかし、成績は極めて良好だし、家庭訪問や面談をしたときの様子からも家庭には問題が無さそうだという。
勿論、我々が見落としいる可能性もあるが、恐らくは個人的な心の問題だろうとなった。
実際、小学校から送られてきた内申書には小六の時、クラスで浮いていたと書かれている。
―つまり、イジメってことだろ?何が浮いていただ―
これを書いたであろう顔も知らない小学校の担任に悪態をつく。
熊谷が一度、それとなく何か問題があるのかと本人に聞いた時は、反抗期の男子に相応しい態度で剣もほろろに冷たくあしらわれたらしい。
「先生がそう聞いてくるということは、何か問題に思う点があったからですよね?一体何を問題だと思ったのでしょうか?僕の目には、ああ、少なくとも僕の目にはですが、僕よりも余程問題に見える行動をしている生徒の方が多くいると思うのですが?僕は特に問題ないような生活を送っているはずですが、どの辺りを問題だと思ったのでしょう?教えて頂ければすぐに改善します。」
と(普段は話すらしないくせに)一息で言い返されたという。
熊みたいな図体をしているせいか口下手な熊谷は、畳み掛けられるように反論されると口が追い付かず、何も言えなかったらしい。その話を聞いていた、前年度に横山の担任だった新任教師も、心を開いてくれなかったと、自信を無くしていた。熊谷も俺は信用されてないと、蜂蜜を舐めようとしたら頭に蜂の巣が落ちてきた熊のように悲しげに茫然としていた。
同じ反抗期の生徒でも、外に反抗する生徒の方がまだ扱いやすい。横山のように、内こもるタイプは、本当に困る。
―反抗期の中学生が、何も問題を起こさないなんて、それが相当問題だっての―
ただ、熊谷の話を聞いていた自分には、何となくだが横山の問題が分かった。
横山は恐らく、人と接するのが嫌いだ。それから、きっと何かを持て余している。声楽じゃ土俵にすら立てないと知った時の自分と同じだったからだ。 声楽以外のことは全て煩わしかった。なのに寄る辺になっていた声楽に力を注げなくなって、その力をどうして良いのか分からなかった頃の自分と。
確かに横山の場合は、本人が言うように問題そのものは全く見当たらないから、困ったものだ。
成績は国数英理社、全てで上位10位に入っている。この前中間考査じゃ、数学、理科は満点だった。課題も丁寧にやって来るし、授業中も居眠り一つせず、黙々とノートを録っているようだ。
前期末直前の音楽の授業。テストになる教科以外の授業では手抜きになる生徒が多い中、ふざける事すらしない。
強いていうなら前髪が少し長すぎるということだが、それだけで指導室に呼ぶんじゃ、学年の半分を呼ばなければならない。
―どうしたもんかなあ―
そう思って視界の端に横山を入れつつ、授業をしていた時だった。
―ん?―
ほんの僅か、覇気のなかった目が変わった気がする。
バロック派、古典派、ロマン派音楽を説明して聞かせていた時だった。今までとは全く違う表情で、音楽を聞き入っていた。
あまりにも普段と様子が違っていたので、よく覚えていた。
授業を終える鐘が鳴り、生徒は友人同士で話をしながら教室を出て行く。
「お、一之瀬。伴奏の調子どうだ?出来そうか?」
他の女子より拳一個分、頭の位置が低い女子に声をかけた。
「一応できました。まだちょっと引っかかっちゃう所があるんですけど、大丈夫です!」
一之瀬は良い意味で目立つ生徒だった。成績は、まあ、良くはないけども先々が心配になるほど悪くもないし、何事にも一生懸命取り組む。何より明朗快活で誰にでも好かれるタイプだ。実は、それ以外の理由でも有名なのだが。いずれにせよ、こういう生徒がいると気が滅入らなくてすむ。
横山が学校に併設されている礼拝堂に来たと報告があったのはその日の夕方の事だった。
カウンセリングルームも兼ねているそこは、実は臨床心理士の資格を持つという神父が常駐している。 このおっさん、フラフラ遊んでいるように見えてその道じゃ高名な先生だというから驚きだ。しかも、あの一之瀬の父親で、この学園の理事までしてるんだからとんでもない神父だ。
その神父が、気にかかると言って報告を回して来たのだから、かなり横山には気をつけた方が良いだろう。
熊谷もクラスの様子を気にしているようだが、横山が人を避けているせいで、クラスの生徒も遠巻きにしているため、幸か不幸かイジメのような事は今の所起こっていないらしい。
とは言え、問題のある生徒は横山ばかりではなく、むしろそちらの方が手がかかる生徒が多いため、結局、横山のことは様子見となっていた。
ところが最近、ちょっとだけ横山の雰囲気がましになったと熊谷が言ってきた。
それを聞いて、
―学園祭もあるし、これをきっかけにクラスに馴染んでくれたらなあ―
なんて呑気に考えていた矢先。
ぼうっと考えていたせいか、突然鳴った内線電話に思った以上にぎょっとして、慌てて受話器を取る。
それまで考えてたことが一気に吹っ飛んだ。
「まったく、相場、何やってんだ!?浮かれているのは分かるけど、自分がけがしたらみんなにどういう迷惑かけるかって少しは考えなかったのか?」
「すみません。」
目の前で、肩を落としているのは、高等部の相場という生徒だった。学園祭のために礼拝堂の飾り付けをしている時に、脚立から落ちて手首を捻挫したという。
骨折のような大きなケガではなくて良かったが、捻挫としては深刻な部類でこのままでは伴奏は無理なようだった。
合唱部の部員が走り回って何とか1人は伴奏者を確保したらしいが、あと2曲残っているとのことだった。
―ピアノ苦手なんだよな....―
音楽教師をやってるくらいだからピアノは全く弾けない訳ではないが、才能というものは皆無だ。もう一人いる音楽教師も、トランペットが専門で吹奏楽の顧問をやっているくらいだし、自分の方がまだマシだろう。
1曲なら、今日から死ぬ気で練習したら間に合うか?いずれにせよ、1曲は諦める必要があるだろう。
「仕方ない、こっちの曲は諦めよう」
そう言った時だった。
「あっ、あの!」
一之瀬が声をあげる。ただでさえ小さいのに、さらに小さくなってた一之瀬が言うには、非常に可能性が低いものの心当たりがあるという。
ダメだったからって、誰も一之瀬を責めやしないのに。何でも一生懸命なやつだ。
「分かった、とりあえず、行って来い。」
そう言うと階段を転げ落ちそうな勢いで音楽室を飛び出す一之瀬。
―本当、一生懸命すぎだろ―
と少し呆れながら
「お前まで転ぶなよ!」
と叫んだ。
しばらくして満面の笑みで戻って来た一之瀬。引き受けてくれたらしい。明日の放課後に一度来るという。
―とりあえずは吹奏楽部に頼んで日程を交換してもらわないと―
だが、伴奏を引き受けてくれた生徒の名前を聞きそびれたことに気がついたのは、吹奏楽部の顧問に
「で、誰が引き受けてくれることになったんですか?」
と聞かれた時だった。
そして、それを知ったのは次の日の朝。HRから戻ってきた熊谷が
「横山が合唱部の伴奏するって本当か?今朝、横山の母親から体調不良で欠席するってあったけど、どうなってんだ?」
と信じられないという顔で聞いてきた時。自分もにわかには信じられなかった。
しかし、放課後に会議が終わって音楽室に行けば、そこには確かに「体調不良」だった筈の横山が、むしろ生き生きした顔つきで居たのだから、これはもう信じるしかなかった。
ふと、夏休み明けの授業で真剣な眼差しで音楽を聞いていた時の横山の顔を思い出した。
次の日も横山は「体調不良」で休み、放課後に音楽室登校して来た。
熊谷にはもちろん伝えていたが、今まで品行方正過ぎた横山にはこれくらいで丁度良いだろと笑っていた。
一体、横山にとって何がきっかけになったのか全く分からなかったが、熊谷がちょっとだけ寂しそうに
「俺らが思ってるより、子どもって逞しいんだよな。自分で道、見つけてさ。」
と言うのを聞いて、その通りだなと頷く。こういう時に、中学や高校の教師になって残念だったなとも、良かったとも思ってしまう。
―自分達が外野の大人があれやこれや言ったり助けたりしなくとも、ちゃんと自分の力で霧から抜け出せるんだからな―
横山の腕は思った以上で、早々に伴奏を完成させた。お陰で、合唱部員はゆっくりと仕上げが出来たくらいだった。
―横山、お前大したやつだよ―
学園祭のステージの舞台袖で、待機している横山に声をかける。
「横山、ありがとうな。皆、練習の時は面倒だとか文句言ってても、やっぱりやりたかったんだよ。」
いえ、と今まで通りの寡黙な横山が返事をした。
それでも、どこか表情は前までとは違っているように見えた。
「それに、お前もなんだか楽しそうで良かった。いつも何を我慢してんのか、つまらなそうというか、不完全燃焼っていう顔してたからな。」
「そうでしたか?」
片眉だけ器用に上げて、少し反抗的に俺の顔を見た横山だったが、何か思う所があったのか、ふっと頬を緩めて
「そうでしたね。」
と微笑みを浮かべた。その顔がどこか大人びた表情をしていて、つい先ほどまでの反抗期なガキの顔との差があまりにも滑稽だった。
生徒の成長が嬉しく思うのと同時に、どこかで淀んだ炎をかすかに感じた。
―羨ましいのか、俺は―
大人に近づいた表情が、自分は既に挑戦することすら諦めた夢というものに挑戦することを許された、そして挑戦する猶予を与えられた若者の顔だと気がついた途端、心の底で微かに燻った羨望の気持ちがこみ上げた。眩しげなその顔を見ていられなかった。だから、いつの間にか位置が高くなったような気がする横山の頭を、くしゃっとして立ち去ったのだ。
それでも教師になった自分はステージの袖から見守ることまでを拒否は出来ず、明るい表情で一之瀬と伴奏をするその姿を見ていた。
曲が終わった瞬間、思わず後ずさるほどの拍手の爆風を受ける。顔を上げてそれに対峙する横山の背中は、先ほどまでの暗い憧れを浄化させるには十分だった。
―もう、こいつは大丈夫だな―
何人目だろう。
力になったり、時には全く力になれなかったりもしたが、また一つ脱皮する姿を自分の前で見せてくれた生徒達の顔が次々と浮かんだ。
― 本当、教師なんてなるつもりなかったのになあ―
桜の季節。
思い出す顔がまた一つ増えそうだった。




