15話 挽回するために
## 第十話 暗闇の口づけ
「この数値、どういうつもりだ? 明らかに件数が少ないが」
中央局の局長室。
机の上には、リュネットが提出した報告書が広げられている。
「私は、こちらの資料と突き合わせて正式な件数と盗難傾向を教えてほしいと依頼したはずだが」
アステルは関連資料をリュネットに手渡した。
その資料を受け取った瞬間、リュネットの背中に冷たい汗が流れた。
「大変申し訳ありません。確認する資料を誤ってしまいました」
リュネットは静かに答えた。
資料の順番を自力で直した際、本来見るべき資料を別のものと勘違いしてしまったのだ。
本来なら、資料の順番がおかしいと気づいた時点で確認するべきだった。
嫌がらせを受けていたとしても、それが実務にまで影響するのなら、波風を立てたくないなどと言っている場合ではなかった。
「……理由は? 私は一式すべて渡したはずだが」
アステルの問いに、リュネットは一瞬だけ沈黙した。
言おうと思えば言える。
メイドが文書の順番を入れ替えた状態で渡してきた、と。
けれど、それを言えばどうなる?
証拠はない。
それどころか、仕事の失敗を他人のせいにする新人だと思われかねない。
「……私の確認不足です。大変申し訳ありませんでした」
何も申し開きをせず、リュネットは再び頭を下げた。
アステルは、そんなリュネットをじっと見つめていた。
責めるようでもなく、庇うようでもない。
ただ、何かを見透かすような目で。
「原因に心当たりがあるのだな」
心臓が、どくりと跳ねた。
アステルは小さく首を傾げる。
「だが、何か事情があることと、結果を出せないことは別の話だ」
「……はい」
「ここは判断一つで国が動く場所だ。お前が誤った判断をすれば、国を傾かせかねない。それがわかっているのか?」
アステルは書類を閉じる。
「次はない」
短い言葉だった。
だからこそ、その言葉がどれほど重いのか、リュネットにはよく分かった。
「……承知しました」
頭を下げる。
アステルは、それ以上何も言わなかった。
その夜。
日中の失敗を取り返すため、リュネットは遅くまで執務室に残っていた。
夕食も取らず、正しい資料を一つひとつ確認して件数を数え、盗難事件の傾向を分析していく。
他の局員たちもすっかり帰った頃。
突然、執務室の扉が開いた。
入ってきたのは、アステルだった。
「アステル様、どうなさったのですか?」
「どうなさったかはこちらが聞きたいよ。うちは労務管理をしっかりしたい方でね。
君はどうして許可なく残っているのかな」
そう言いながら、アステルは温かな湯気の立つティーカップをリュネットに差し出した。
「あ……ありがとうございます」
甘いミルクティーだった。
わざわざミルクも砂糖も入れてくれている。
夕食を取っていなかったこともあり、甘さが疲れた体に染み渡る。
カップから伝わる温かさに、張り詰めていた気持ちが少しだけほどけた。
「私は誤るなとは言ったが、今日中にすべて終わらせろとは言っていないよ。帰っても構わない」
「いえ。これは今日終わらせなければ、私の気持ちが落ち着かないんです」
リュネットはティーカップを置き、再びガリガリとペンを走らせる。
その様子を見て、アステルがふっと笑った。
「君は相当頑固なお嬢さんだな。エリオスは優柔不断だから、君のような婚約者がいてくれて安心だよ」
「エリオス様は……私なんかがいなくても、大丈夫な方ですわ」
「そうかな。今回はどうなるだろうね」
「今回?」
リュネットが顔を上げると、アステルは手にしていた書類を広げた。
「さあ、君が仕事を終えるまで私もここで残業をする。早く帰らせてくれよ」
「あ……承知しました」
リュネットは再び資料へ目を落とした。
紙をめくる音。
ペンが走る音。
遠くから聞こえる、警備兵の足音。
しばらくして、リュネットは揃ってきた数値と事件の傾向を見比べ、ぽつりと呟いた。
「……直近の盗難事件、被疑者に同盟国出身者が多いのですね」
「最近は以前より二割ほど増えているな」
アステルは即答した。
「同盟諸国友好法が施行されてから人の往来が増えた。その一方で、まだ整備されきっていない法の網をすり抜けようとする者も増えたようだ」
「あの、この地域についてなのですが……少し気になることがあります」
机を挟み、リュネットとアステルは同じ資料を覗き込んだ。
「盗まれているのは、宝飾品や金銭価値の高い品ではないんです。……この辺りで被害に遭っているのは、神具を扱っている店がほとんどで」
「盗まれた品も、儀式用の銀器や古文書など、普通ならあまり使い道のないものばかりだな」
「そうなんです」
リュネットは資料を指でなぞった。
「王国で作られた神具は、聖女信仰以外の儀式に使ってはならないことになっていますよね」
「ああ」
「ですが同盟国には、ラベンスカー公国やアドネ王国のように、独自の信仰を持つ国がいくつもあります。当然、彼らの信仰に使う神具を扱う店もあるのですが……」
リュネットは、さらにもう一枚の資料を取り出した。
「商業ギルドから、神具店の在庫情報を取り寄せて確認してみました。すると、同盟国の信仰に使う神具は、ほとんどの店で常に品切れになっているんです」
「……品切れ?」
「はい。つまり、この国に住む同盟国出身者の数に対して、彼らが使える神具が圧倒的に足りていないのではないでしょうか」
アステルは興味深そうに、リュネットがまとめた盗難品と被疑者の情報へ目を落とす。
「なるほど。正規の神具が手に入らないから、代用品を作るための銀器や、儀式を再現するための古文書を盗んでいる可能性がある、と」
「はい。もちろん、まだ推測ではありますが……」
「確かに、毎日の儀式を欠かさない信仰もあるからな」
アステルはしばらく資料を眺めたあと、静かに頷いた。
「だとすれば、取り締まりを強化するだけでは根本的な解決にはならない。他国の信仰に使う神具を、もっと流通させる仕組みを作る必要があるかもしれないな」
さらりと顔にかかる髪の隙間から覗くアステルの口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。
「……よく気づいたな。しかも、自分で追加の情報まで取り寄せて」
不意にそう言われ、リュネットは顔を上げた。
「え?」
「まだ中央局に来て日も浅いのに、面白い示唆を出してくれた。こんなに早く活躍してくれた新人は久しぶりだ」
褒めてくれている。
――あの、氷の血が流れているとまで噂される第一王子が。
「ありがとうございます。アステル様からお褒めいただけるなんて、大変光栄ですわ」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
自分の仕事を認めてもらえたことが、素直に嬉しかった。
――と、その時だった。
突如、部屋が真っ暗になった。
「あ……!」
魔道具で灯していた明かりが、一斉に消えたらしい。
夜も遅く、今夜は月さえ出ていない。
執務室は、一瞬にして完全な暗闇に包まれた。




