2076年5月15日金曜日、10時21分、倉庫。貧者の黄金時代が始まる。
霧島は冷えている。自発呼吸なし、首に触れても脈拍なし、瞳孔は動かないし口の奥には血が溜まっている。生命活動を終えて肉の塊になった。首から下はおおむね無傷なので臓器を獲得できるが、机を見ればブランデーのグラスがあり、灰皿にタバコが溜まっている。まともな中身とはとても思えない。「お疲れ戸吹ちゃん。ヤスくんも」ハルが確認の後に労った。背後では目立たない顔立ちの連中が現れて死体と怪我人を運び出した。彼らが何者かは知らないが、ハルが軽い態度で数を示したので敵ではなさそうと考えて、とりあえず会釈くらいは交わした。
別れた後の出来事を共有した。戸吹からは霧島のくだらない荷物とライフルの話を。
ハルは目を輝かせて貴重なベルギー製ライフルを得た。どうせコピー品だと思っていたが謎の経路で現れた正規品だった。出血が少ないホローポイント弾のおかげで汚れもごく少ない。高く売れる。曰くがいくつも積み重なってなお。あたら屋の内装と車を二度ずつは新調できる。
戦場は静かな倉庫に戻った。何事かがあったと示すのは穴や凹みと少しの血痕と、ハルの右手だけだ。
ハルはライフルの掃除をして運び込む準備をしている。黒部警視監への電話をかけるよう促されているが、遅れたら汚れが取れなくなると言って掃除をしている。左手だけでよくやる。手先の感覚が必要な動きは左手でやるからすでに慣れていると語る。
戸吹はここに来て疑問が浮かんだ。なぜハルは手際よく動けるのか。情報屋は知っているが、今日この場のような荒事が初めてではないのか。「まあ、色々あるのよ。長く生きてると」「歯切れが悪いな。関わるとしたら、あの件か」特に思い浮かんでいないが意味深に言ってみた。「どの件のつもりか知らないけど、おいそれと言えない話なんていくらでもあるっての。言えないって言う機会もないだけでさ」
話も続かないので、さっさと済ませたい話に進んだ。「では十六女警視正どの。まいったらしいが、どういう?」「黒ちゃんにかけてからね。まだかかりそうだけど。まいりすぎてマイルが溜まっちゃう」「マイルが溜まるのはハルだ。シカゴ行きとやらには関わりない程度の話のはずだな」「そりゃもちろん。はるるん以外のお二人さんだけだよ、話があるのは」
掃除の仕上げに手を洗ってきた。「お待たせ、始めましょうか」ハルの電話で黒部警視監どのを呼ぶ。
関わる全員が集まった。戸吹、槙田、ハル、そして電話越しで音声のみの十六女警視正どのとカメラありの黒部警視監どのだ。いつもの三人とスマホ二枚で円陣を組み今後の話をする。
「ではではでは、やばたんの話をしようか。この度は」十六女警視正どのが音頭を取った。「お見事に目論見通り、玄庭会の霧島刃を片付けてしまいました」おどけた喋りが鼻につく。戸吹の経験上、次に続くのは嫌味ったらしい糾弾が多かった。
「その結果からお気づきの通り、やばたんの大立ち回りで危険な集団がひとつが壊滅しましたと。警察としては、そんな実績があるやばい連中をただ野放しにはできないわけよ。あたし達だけじゃあなくて、玄庭会と関東統一組合も放っとかない。こいつらとの関わりの面でも野放しにしたらゆくゆくは、ね。わかるよね、お二人さん」しらばっくれた態度。これだから自称大人は気に入らない。「すべて警視正どのから、的確な指示とお膳立てをいただけたおかげですよ」「公式な話でもないのに信じてくれると? そうはならないよね」弱みを握って強請る気配が見えた。戸吹は舌打ち百連発を始めた。「最初から嵌めるつもりだったのか、汚らしい」「いやいやいや、最初はどこかで諦めると思ってたし、諦めなくても失敗して命からがら逃げ延びたところに恩を高ーく売ろうって魂胆だったのよ」「的確な指示を当然と思うほど薄情じゃない。私も、槙田さんも」「過ぎた話はもういいから。今からは直球でいくね。嘘もごまかしも歪曲表現も抜きで」
戸吹は呼吸を整えた。一挙手一投足が破滅に繋がりかねない。主導権が誰にあるかを正しく理解すること、取られているなら取り返す手段があること。論争は物理的な戦いよりよほど緊張する。なにしろ銃口も遮蔽物も、向きどころか有無さえ見えないのだ。
「まず、ちゃんとアフターケアはあるよ。保護の手立てがね」「軟禁のことだな」「考えてもみなよ。玄庭会にとってやばたんは面子をいつでも潰しうるリスクなのよ。玄庭会の霧島を片付けたと喧伝したら誰も疑えないし」「だったら私に手を出せば火傷するとも知っている」「霧島に手を焼いてた主因は眼鏡の若い子と機械犬だから、どっちもないやばたんには普通に攻めてくるよ」
どうやら戸吹が詰んでいると示す理由のフルコースが待っている。全ての責任は明示しなかった話を勝手に無い物だと思い込んだ戸吹自身にある。
「でもお二方もご安心! ちゃんと次の勝算があるよ。玄庭会に恩を売るルートをね」然る手紙を然る経路で届けたら裏の意味を理解されるらしい。文字通りに手紙かどうかは怪しいが、それ以上に受け取ってもらえることが信じがたい。癒着の疑念も生まれた。
「しかーし! もし恩を売るなら次はあたしたちが敵に回るよ。当たり前だよね、玄庭会との繋がりってないし」「そういえば警察どのが関東統一組合と関わっている問題は無かったことになったのか?」「そりゃあ捜査してたら関わるよね。あと私邸に上がれたのは繋がりじゃないから。まきぽんから辿ったからで、他で頼んでも無理よ無理」
玄庭会を敵に回すか、警察を敵に回すか。どちらも苦しい二択だが、戸吹はどちらも選ぶ気はない。どちらの候補も十六女警視正どのが提示した物であり、すなわち掌の上で行われる舞踏会への招待状だ。どちらを答えてもいけない。他の候補を戸吹が見つけ出して、突きつけて、勝ち取る。
保護下の暮らしを想像したら、狭い部屋で臭い飯が定期的に届くならまだましで、秘密の施設で一生を過ごすかもしれない。外部から守るとは、内部で磨り潰されるだけで誰も助けてくれないという意味だ。
では玄庭会に加わるのももちろん問題だ。いきなり現れたよそ者を、しかも関東統一組合との繋がりを知れているのだから、誰が信用するものか。臭い飯を探し回るならまだましで、秘密の部屋で一生を終えるかもしれない。
ならば関東統一組合に助けを求めるか? 玄庭会への打撃を与えた点はいいが、一連の話がややこしくなった原因の男がいる。あたら屋に現れた、戸吹は名前も忘れた男だ。ただの下っ端ではないなら誰とも懇意でないはずがない。私怨がある中では何が起ころうと信用を築けない。
八方塞がりと評するにふさわしい。諦めて得られるものがあれば諦めたかもしれない。しかし今なら、諦めれば惨たらしく死ぬとわかっている今なら、何にでも挑戦しよう。塞がった八方をこじ開ける。戸吹はマスターキーを持っている。暴力は正しく使う限りあらゆる問題を打ち砕く。暴力装置の埒外にある自前の暴力だ。正しい使い方を自分で見つけられる限りあらゆる鍵を開けられる。どん底の戦い方だ。底が抜ける以外ならどんな方法でも這い上がれる。
「いや、道はもうひとつある」行き当たりばったりだがとりあえずまず喋る。「ほう? 面白いね、提案を聞こうか」思考は言葉の後で生まれる。黙っていたら一手詰めしかできない。「玄庭会には恩を売る。そしてあなた方とも対立しない」未来を読まなくてもいい。しかし目の前より遠くへ向かうべきだ。小さな一歩を積み重ねた果てにある。「都合いいね。あたしたちに認めろって?」人間もAIも同じだ。自然な繋がりで言葉を並べる。喋ってから意味を後付けする。求めた結論へ向かうまで。
「認めるしかない。百万だぞ」「そんなに万能じゃあないって「すでに送金した。銀行を経由してだ。この取引はなんだ? 贈与税の税務調査も「そんなのさ、間違えて振り込んだとかあるでしょ。休眠口座に110万円を振り込むだけで誰でも税務調査させるなんて、ないよね」十六女警視正どのがやけに喋らせたくないように振る舞いだした。押せば通りそうだ。「もうひとつある。文春だ。振り込みの記録に始まり諸々の話を送る準備はできてる」
もちろん半分ハッタリだ。ハルに頼んでもいないのに自動的に送る方法を用意できないから手動で送るのだが、操作するには手と目と時間が必要で、十六女警視正どのなら塞ぎ放題だが。
「面白いね。交渉しようってわけだ」乗せた。姿を見せない慎重な奴だから未知のリスクを重く見積もると思った。目で促して槙田を話に呼び込む。「俺も戸吹さんにつく」「まきぽんは実のところ誰も殺してないし、銃だけ捨てたら元の暮らしに戻っていいよ」「俺が戻ったら妻子に危険が及ぶ。そういう話だったはずでしょう。俺は戻れないから戸吹さんにつく」「殊勝だね」
話がやけに早い。一見してうまくいきそうな状況ほど恐ろしい。重要なのは最後のひと押しだけで、他のあらゆる壁は突破したところで成果もダメージもない。最も反撃しやすい瞬間まで待つのが定石だ。まだ安心には早い。まだ成功ではない。まだ予選突破でさえない。見落としがないように動くのは当たり前だが、見落としたことを見つけることはできない。
「構いませんよ」黒部警視監が加わった。「玄庭会へは手紙を送れば足りるでしょう」「黒ちゃん!?」「お静かに。ここからは私が話します」
いい予感と悪い予感の両方がある。黙っていればうまく進む状況が崩れたから喋り出したのか、勝ち目を見込んで喋り出したのか。二人まとめて交渉の座に着かせた。あとはどこまで譲歩させられるかだ。切り出しかたにかかっている。
「ところで十六女警視正、百万とは一体?」
「ン! ここは真面目に仕事をしましょう、いつも通りに、いつもの仕事っぷりが好きですので」
「失礼、逸れましたね。私も《《ケーキのイチゴ》》を取っておく派です」
「ヒィ〜」
話の間にもずっと黒部警視監はキーボードを操作していた。会話の流れを記録するなら手を煩わせるまでもないはずだ。最後に右側の、おそらくはエンターキーを押してからは、電話越しに二人の様をまじまじと見つめていた。やがてただ淡々と、こう言った。「お二人の望みは叶いました。お二人は関東統一組合への埋め合わせをつけ、玄庭会への恩を売りました。信実であり、決して空虚な妄想でないと示しました。なので、お二人を名簿に加えましょう。我々の願いを聞き入れて、今この瞬間から我々の一部です。ようこそ、《《五階》》へ」
戸吹は激怒した。戸吹には政治がわからぬ。けれども政治力に対しては人一倍に敏感であった。
激怒しても顔を繕う程度には政治がわかる。黒部警視監がさも当たり前のように要求し、何ぞを答える前から頷いたかのように話を進める様子は、もし本当にただの不愉快な支配者気取りであれば警視監の地位を得られない。不愉快な支配者気取りにしか見えなかったのは他のすべてを見落としたからだ。戸吹には理屈がわかる。他の可能性がないのとは違う。権力を自認した振る舞いだ。
まずは呼吸を落ちつかせて、意識を向ける先はまず自らの心境へ。電話越しでも黒部警視監と戸吹の間に剣呑な対立が起こっている。戸吹は皮肉めいて「万歳、《《大東亜共和国》》万歳」と、黒部警視監は「映画ではありませんよ。真面目な話です」と続けた。
「我々はいつでも人材を求めています。優秀な意志ある個人を。願わくば表での活躍が見込めない個人を。新たな時代の英雄を。その人材に求める内容ですが、ご安心ください、これまで通りの暮らしで構いませんよ。毎月一回の指示を送りますので、一年にYESを九回とNOを三回だけ答えてください。他は阿多良さんを見ていただければ」「随分と簡単そうに言ってくれる。例のシカゴ送りを聞いたあとではとても楽観できないな」「それもご安心を。本物の難事は年に一度もなく、ほとんどは訓練です。何しろ相手は巨大ですからね」「英雄とは失敗の産物だが」「もちろんです。我々は英雄を求めています」「赤紙だな」「どう呼んでも構いませんよ」
NOを使い切った十二月、あるいは温存したい二月や三月ごろにやっかいな話が来るに違いない。訓練だと思って実戦へ送られるのも歴史上のあらゆる断片にあった。権力者を信じて身を委ねるほど戸吹は甘くない。隙あらば搾取が世の常だ。
しかし反抗が通じるかはもちろん怪しい。五階とは都市伝説のひとつで、秘密の話が決まって「五階を恐れずに言えば」から始まることでお馴染みの情報機関だ。五階から飛び降りてくると言われている。身体能力なのかトリックなのか、あるいは根も葉もない噂の流れ方を見ているのか、どれであっても不気味な連中だ。
戸吹がその一員になるとしたら、肯定的に見るならば、お眼鏡に適ったのだ。使い捨ての鉄砲玉にするには、情けないところを見せて神秘性に傷をつけるリスクがあるから、そう簡単に死にはしないだろう。
「ハルは最初から五階だったんだな」「言いたくなかったけど」ハルは肩の荷が降りたように穏やかに言った。「この手の後で、あいつの仕事を見たのよ」「十六女警視正どのだな」「あいつを見てかっこいいと思っちゃった。それからずっとよ」「後悔は?」「ないね。程よく刺激的で」「あたら屋は?」「オーナーが先、店長は知ってるけど外、私も加わったと聞いたら苦い顔でも応援してくれた」店長は若い頃から理知的で優しい男だったそうで、オーナーが積極的なアプローチと共に事件に巻き込み、一夏の冒険の果てに結婚に至った。その延長上にあたら屋がある。オーナーからも店長からも聞いたことがあった。冒険についてはいつもぼかしていたが、それが五階なら筋が通る。
「槙田さん、私につくと言っていたが、本気か」急に流れ込んできた情報の山からも中身を掴み取っていた。「そうでないとお互い立場がないでしょうし」「いい男だ。私たちは一蓮托生というわけだ」「よろしいですね、黒部さん」「もちろんです。作戦会議も続けていいですよ。今日は時間がたっぷりあります」
十六女警視正どのは黙っている。いつもの賑やかさは黒部警視監が話す間は収まるようだ。
「黒部警視監どの、確認を。裁量はどれだけ認めてくれる?」ダメ元だが言うだけ言っておいた。「手順はご自由に。求めるのは結果だけです。もちろん提案や準備をはじめバックアップ班はつけますので、丸投げではありませんよ」
戸吹は頷きかけたが槙田が観点を提示した。うまい言い方だ。手順に自由が効くと言っても本当に好き勝手にできるのは家事や登山のように自閉した分野だけだ。自由とは往々にして相手の存在を前提にした言い草だ。相手がいる分野では、相手について調べて、相手の儀礼に合わせて、自分の目的との交点を見つける。相手の意思という制約が前提になるから自前で制約を増やしたところで成果が減るだけだ。その逆の共同作業では社内のやり方に合わせた単一の意思に加わるのが条件になる。集まっただけの個人たちでは成果を高め尽くせないからだ。
作戦会議を始めたはいいが、終わりが近い。考えられる内容が尽きたら自然と言葉も尽きる。沈黙は限界を意味する。何よりも戸吹自身がわくわくしている。秘密組織の一員、こんなにかっこいいものはこの世にない。あたら屋も地下の秘密の店がかっこよくて満足していた。そうしたらより大きな秘密と出会った。八日前からの新たな刺激を受けて久しぶりに戸吹の中に住む冒険の虫が騒ぎ始めていた。今回の一件によってどうせ逃げられないなら、加わるほうが楽しそうだ。大人は何を決めるにも言い訳が必要になる。
「よろしいですか、意思の確認を始めても」
顔を見合わせて頷いた。
「こちら戸吹、いや、引手有菜、五階とやらの世話になろう」「槙田泰晴、同じく五階の世話になります」他の道が塞がっていても、面白そうな方へ、確実な方へ、あるいは希望がある方へ進む。
命の保証どころか死に方も選べない地獄に決まっているが、停滞に囚われて生き方を選べない地獄よりはいくらか暖かい。
槙田は消極的だが妻子のためだ。平穏な暮らしが終わるかどうかの瀬戸際はとっくに超えている。十日前に現れたヤクザから逃げられなかった時点で新たな暮らしはすでに始まっていた。一人でやり直す足掛かりもない所にお誘いとあれば願ったり叶ったりだ。
「ねえ二人とも、大丈夫?」十六女警視正どのがすり寄ってきた。「黒ちゃんが出す仕事はきついよ」「面白いじゃないか。こっちはちょうど新生活を始める時期だと思っていたんだ」「お試し期間のつもりでもいいからね」「今頃になって優しさか? 怪しいな」「その猜疑心は買うけど、せっかくの新しい友達が大変な目に遭うのはやだな。やだなったらやだな!」「さっきまで大変な目に遭わせようとしていた女の名前を聞きたいか?」
やんわりと否定的な意見を出すのは背中を押すも同然だが、戸吹もわかっているが、やっぱりやめて解決とはならない。そんな話を始めたら相手もやっぱり保護して一生を終えることになる。
言い合いを横目にハルと黒部警視監どのが穏やかな笑みを交わしている。「あいつらが仲良くできそうでよかったですね」「ええ、三人とも活躍いただけそうです。十六女警視正、頼みましたよ」「はーい」短いやりとりだが戸吹が喋る途中で割り込んだからもうおかんむりだ。「警視正ってのは無礼でも務まるのか?」「うるさいなあやばたんは。ヒラたんって呼んじゃおうかな」「好きに呼べ。私も好きにやらせてもらう。どうせ私が生死をかけてるんだ」
女所帯で盛り上がるので槙田が蚊帳の外になってしまったが、戸吹が電話に区切りをつけて話に入れた。重要な用事ができた。手に入れたいものがまだある。戸吹も飢えを感じてきた。
「槙田さん」戸吹の目が獲物を狙う目になった。「いい父親になると思っていた。その日が来たぞ」「え? 何を言って「月経だ。好きにやるには月経を止めたい」「いや待ってくれ戸吹さん、そういう関係じゃ「関係なんかいい。精子だけあれば」「妊娠したらそれこそ危険が「三ヶ月だ。最初の三ヶ月で十分だ。何も臆することはない」
黒部警視監が五階は人材不足と言った。確かにそう意味した。人材不足の五階に加わるなら人材の再生産が大きな意味を持つ。政治見習いの戸吹なりに考えがあって、妊娠しておけば邪険には扱えない。何しろ社会を成り立たせる上で最も重要な仕事だ。社会とは人間でできている。これより社会進出を行う。
「戸吹さん落ち着いてくれ。既婚ですと妻子に不義理がですね」「黙っていればいいだろう。どうせ育てるのは私とハルとときどき店長だ」馬乗りになりズボンのベルトに手をかけた。「助けて! 俺は翔子と恵美を愛してる!」
重要な部分がまろび出る寸前、ハルが戸吹の肩を掴んで引いた。折れても金属製の右手は生身より強い。「やめときな。もっといい感じの場所でいい感じの相手とやるもんだ」「私の目にはいい感じに見えるが」「冷静さを欠いてる。ほら深呼吸して。足りなかったらホテルでも男でも紹介するからさ」
戸吹は信用するハルの言葉を受けて、吸って、止めて、ゆっくり吐いた。ちょうど近くにいるハルの匂いが鼻を刺激する。落ち着いたら急に自らの行いが情けなくなった。「恥ずかしいところを見せた」槙田の上から退いて頭を下げた。ハルの手を離すにはもう少し時間がかかる。
槙田はズボンを戻した。こちらも呼吸を整えて落ち着いてから処遇を決めた。「驚いたがまあ、驚いただけで済んでよかったよ。なんとなくだが俺も、これから可愛い娘がどこでどんな思いをするか考えると、強く責める気にはなれないな」槙田は右手を出した。「とはいえ粗相は粗相だし、対等に付き合うきっかけにしようか。嫌とは言うなよな」戸吹は右手を握った。「ありがたいね。よろしく頼もう。同期にして相棒さん」
振り返ると戸吹には対等な相手がいなかった。施設では上下を争う気の連中に付き合うことになったし、あたら屋では助けてもらうばかりだった。
対等とは存外、悪くない気分だ。拙速にいい気分と言い切ってもいい。初めての経験はえてして新たな力が湧くものだ。一人で得られない状況なら特に。槙田は物の見方が全く違う人間だ。戸吹を基準にしたら手が遅く、気が長い。逆に槙田から見た戸吹は拙速で近視眼的、そして求める変化が極端だ。ただし間違えてはいけない。これらは勝るでも劣るでもなく適材適所だ。一人同士では棲み分けるものだが二人組ならば分け合える。互いに自らの正当さを主張し、競い、止揚し、よりよく状況を乗りこなす。槙田は有用な男だ。少なくとも今は。
失うのはいいことだ。棚がいっぱいでは何も手に入れられない。しかし最後のひとつだけは手放せない。最後のひとつとは最初に入れたものだ。戸吹の最初はあたら屋にある。帰る家はあたら屋だ。
帰りの時間だ。宴が待っている。はなまるハンバーグカレーが。
(了)




